第80話(最終話) あの言葉

 頭を振って思考力をリセットさせた俺は、補習室の後方の引き戸を開いた。


 オレンジ色の夕陽が射し込む補習室で、神羅は教卓脇のパイプ椅子に足を組んで座り、窓から外を眺めていた。


 教室に入ってきた俺に気がついた神羅が、ムスッとした顔で立ち上がり追及してくる。


「遅い! 何してたのよ!」

「まぁ……色々と……」


 あなたの幼馴染みにキスされて惚けていましたなんて口が裂けても言えるわけがない。天使に強引にされただけで、俺に責任はないはずだけれども。


「てか、遅いってお前が言うなよ! テスト終わるの待っててあげただろ!」

「う! それはそうだけど……」

「で、そのテストはどうだったんだ?」

「…………聞かないで」

「名前は漢字で書けたか? 問題文は読めたか?」

「それくらいはできたわよ!!」

「でも中身は、か。補習生活は避けられないみたいだな」


 図星だったらしい。神羅が教卓に手をついてガクッと項垂れた。


 補習は仕方のないことだろう。今日も神羅は授業中に小学生向けの計算ドリルやら漢字ドリルをこなしていたし、それで高校の問題が解けるわけもない。


 だが、落ち込むということは補習生活を受け入れているということでもある。

 神羅が一般生徒としての高校生活を享受する意思を見せたことが、俺は嬉しかった。


「頑張れよ。分からないとこがあったら、またいつでも教えてやるからさ」


 そう慰めた俺はふらりと、教室の自席と同じ窓側最後尾の席へと歩んだ。

 当然ながら補習室の机は三連結されておらず、均等なスペースを空けて綺麗に整列している。それが俺にはとても不合理に感じて、机を動かしたい衝動に駆られた。


 その時、重ね重ね思った。

 もう今の俺の人生には、神羅と天使の二人は絶対に欠かせない大切な存在なのだと。


 俺は教卓の前に立つ神羅へと向き直って、尋ねた。


「それで、話って?」

「あ……えっと……」


 神羅が俺から視線を逸らして微妙な表情を浮かべる。言葉を選んでいるみたいだ。


 やがて神羅は、似合わない真面目な表情で言った。


「ごめんね……。それに……ありがとう。昨日のことも……今までも……本当に……」

「…………それは俺の台詞だ。お前達のおかげで、俺は過去を吹っ切れたんだ」


 もしこの学校で神羅と天使に出会っていなかったら、今でも俺は悲劇のヒーローぶって空虚な青春を謳歌するふりをしていたことだろう。

 

 あの日出会った二人とこの高校で再会したことは、神様の悪戯なのかもしれない。運命の意図など、一介の男子高校生には分かりようもない。

 でも俺は、そんな運命に、二人に、心から感謝していた。

 俺達の関係が続く限り、この偶然はいつか必然になるのだから。


「両親には連絡してみたか?」

「うん。あのあと直ぐにパパから電話があって、今週末には帰国して会いに来るって」

「そうか。でも驚くだろうな、自分の娘が想像もできないような大富豪になってるんだし。そういえば神羅、もう【私乃世界】を利用して国に貢がせたりするなよ?」

「し、しないわよ! もう【可能性】は本当に必要な時しか使わないって決めたの!」


 心外だといった様子で、神羅が腕を組んで頬を膨らませた。


「それに、【私乃世界】はやめたから」

「え?」

「名前、変えることにしたの。これからは【愛気世界いとしきせかい】って呼んで」


 自分で命名したくせに、何故か照れがちに目を逸らす神羅。

 そんな彼女の想いを汲んで、俺は優しく微笑んで頷いた。


「良いネーミングだな」


 世界は私の物だなんて言っていた暴君が、変わったものだ。だが、クレーンゲームごと購入しようとするような世間知らずっぷりは暫く変わらないだろうけれど。


 と、そこで思い出した。


「そうだ。クマ君の縫い包み、俺の家に居候中だぞ。いつ渡す?」

「そういえば……。じゃあ今日このまま結人の家に行くわ。車で送ってあげる」

「京子さんの運転ならいくらでも乗っていたいし、ありがたいな。じゃあ行くか」


 そう言ってドアの方へ体勢を変えた時、神羅が声を大にした。


「ま、待って……!!」

「……?」

「まだ、話があるから」


 焦りを露わに俺を刮目する神羅。

 しかし、目が合うと直ぐに顔を逸らされてしまう。


 そんな神羅の様子を見守っていると、彼女は一度深呼吸をしてから、言った。


「私……結人のことが……好き。本当に」


 斜陽を浴びているからか羞恥心からか、神羅の顔は真っ赤に染まっている。それが瑠璃色に澄んだ瞳の輝きを引き立てていて、同じ人類だとは思えない程に美しかった。


 嘘偽りのない、今度こそ本心からの告白。

 彼女の言葉を受け止めた俺も、今一度自分の気持ちと向き合った。


 俺も神羅のことは好きだ。

 人として、友として、異性として。

 昨日、神羅に言った言葉は紛れもない本音だった。俺は今後も神羅の傍に居たいと思っている。彼女の居ない日常は、もう考えられないから。


 でも……それでも……怖かった。

 誰かと恋をするなんて、他人と愛し合うなんて、俺にはまだできない。


 再び過ちを犯し、大切な人を失ってしまうかもしれない。

 そう思うと、今の歪で曖昧な関係で良いと思えた。

 この立場を大切にしたいんだ。神羅と、天使と、魅力的な級友達に囲まれた、平凡な独りの男子高校生としての立場を。


 ――けれど。

 そうして、いつまでも消せない過去から逃げ続けてはいられない。


 失うことを恐れて立ち止まるより、この愛に満ちた世界を信じて進んでいくべきだ。

 神羅と天使が教えてくれたから。

 勇気を出して一歩踏み出せば、明るい未来が待っていると。


 だから――


「ありがとう。俺も神羅のこ――」

「待って!!」

「……?」


 一大決心をしてキザな台詞を言おうとしたところで、遮られた。

 なんなんだよ、こんな大事な場面で。


 目を丸くする俺に、神羅はポツリと呟いた。


「ズルいわよね、こんなの」

「え?」


 自嘲するように、寂しく儚い笑顔で。

 

「皆に迷惑をかけて、結人のことを独り占めして、ずっと一緒に居て、救ってもらって……。こんな事があった後に告白するなんて、ズルいわよ。結人は受け入れてくれるに決まってるから……。もうこれ以上、結人の優しさにつけこむわけにはいかない」

「…………」


 神羅は頬を紅く染めたまま、後ろに手を回して優しく言った。


「だから、今は私の想いだけ伝えておきたかったの。友達として、ね」

「神羅……」

「で、でも、結人のことを諦めたわけじゃないから、勘違いしないでよね! 結人が私のこと大好きなのは分かってるし、もう暫くは今の関係を楽しんでもいいかなと思っただけだから! あ、あれよ、えっと、プラネタリウム期間みたいな!?」

「…………それを言うならモラトリアムだ、アホ」

 

 いつもと変わらない尊大な態度で告白してくる神羅を見て、嬉しくて俺は微笑んだ。それを見た神羅も頬を緩める。


 彼女の笑顔を見た俺の心は、光で満たされていた。

 その時、かつて彼女に問いかけた疑問の答えが、漸く分かった。


 愛とは、光なんだ。


 他人を愛するということは、その人の心の中に光を射すことなのだろう。

 見返りなど求めず、ただその人に明るく幸せに生きてほしいという想い。その想いが強い程に光も強さを増し、心を明るく照らしてくれる。


 時間を越えて、空間を越えて、生死すらも越えて――人の心を照らす光。


 たった一条の光さえあれば、人は前を向いて生きていける。

 大切なのは、闇の中に必ず射しているその光を見つけること。


「じゃあ、改めて結人に言っておくわ!」


 暗闇の中で塞ぎ込んでいた神羅も、多くの光を見つけることができた。

 そんな彼女を誰よりも照らす光になることが、俺の生きる意味だったんだ。


「これからは、もっと私を好きにさせてあげるから!! もう二度と結人のことを一人にはしないから!! 私が誰よりも結人のことを愛してあげるから!! だから――」


 何を言われるか分かっている。

 出会ってからウンザリするほど言われてきたあの言葉が、こんなにも待ち遠しい。


 そして今回は、これまでのそれとは意味が違う。


 神羅は今までにない満面の笑みを浮かべ、言い放った。


「私を、愛しなさい!!」

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