002_歯折れの男の臨死体験

「西」「ヤカン」「禁じられた罠」で「未設定」


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 西日。沈みそうで、いつまでも沈まない真っ赤に焼けた太陽。

 赤の支配する黄色の世界。


 日の方角へ歩いた俺。

 西へ西へと変化の無い景色を流しつつ、足を止めぬ俺がいる。

 飛び飛びの俺の記憶。右の掌の中、ヒンヤリと冷たい柔らかな感触だ。


 それは桃。

 なぜか俺は一つ、桃の実を持っていたのだ。


 俺がピンク色のその実を見れば、土埃で薄汚れた白衣姿のくたびれた男を見る。白衣の下から見える骨と皮のみの異様な姿。しかし彼はその貧相な身形みなりに反し、落ち込んだ眼窩には黄色く濁った眼の中に、鋭く光を湛え。男の目の下の黒いクマが、より一層放って止まない鬼気を迸らせている。

 男の粘つくような視線。今、俺の目には男の視線が隙無く俺を捕えているのだ。

 それが俺にはこの男の正体が只者では無いと告げている。


 鬼か、あやかしか。


 (ただの亡者ではない。この男の瞳、気迫──この男は鬼だ)


「兄さん兄さん」上がる声に、俺は足を止める。俺は言葉を放った男を改めて、しかし今度はまじまじと見る。

「いい匂いをさせてるね。そう、それそれ、兄さんの右手の桃の実だよ」と男はだらしなく涎を垂らした。


 俺は右手を見る。拳の中には芳しい芳香を放つ、熟れた桃。


(ああ、これか)


「なあ兄さん、兄さんの持っているその桃の実を、おでの持つ銅のヤカンと交換しないか?」


 男がニィ、と笑う。一本前歯の欠けた黄色い歯並びが見える。

 しかし。

 奇妙な申し出である。

 俺は男の顔を再度見る。狂気の色はどこにも無かった。


(しかし、ヤカン?)


「その赤いヤカンがそうか?」

「そうだとも。エヘへ、水を入れたヤカンを火にかけ、真っ赤に焼けて湯気を立ち上らせるんだ。そして閻魔えんま様の右隣にお控えになられている黄鬼に、そのヤカンを渡すのさ!」


 男は笑う。


(不可解な)


「しかし、それが何になる」俺は少し早口で男に対した。

「兄さんは『助かりたい』か? 痛いのも悲しいのも嫌だろ?」」


(そりゃもちろん──当然だろう)


「だが、そのヤカンと俺の運命がどう繋がる?」俺の口調が荒くなる。

「まあ、おでの話を聞いてくれや」男の口調は逆に甘くなる。


 男は笑う。眼に怪しい光を湛え、今度はニヤリと。


「黄鬼はヤカンのお湯で茶を立てるはず。そして閻魔様と鬼どもと、兄さんで御茶会の始まりだ」

「茶だと?」

「そうだとも。まあ、話は最後まで聞くもんだ。兄さん、あんたは出された茶菓子を食うな。勧められたお茶を飲んじゃいけない」


(全く意味がわからない。分らないが……)


「それで、兄さんはヤカンをおでから受け取り助かる。おでは桃の実をもらう。兄さんの桃の実と交換。。等価交換。悪い話じゃない」


(……掛けて見るか……いや、しかし桃。いや、まかり間違っても閻魔様との御茶会──面白いじゃないか)


 俺の口元は緩んでいたようだ。

 なぜなら、男が「交渉成立だ」とばかりに、どこにそんな力を隠し持っていたのか、恐るべき速度で俺の右手の桃の実を奪い取り、赤い銅のヤカンを押し付けてきたのだ。

 俺はうっかり落としそうになったヤカンを掴みなおす。もはや、桃はその男のものだ。


「じゃあな」と男は俺に一声。


 俺は満面に笑みを浮かべ、走り去る男をそのままに、しばしその場、永遠の黄昏時の道端に立ち尽くしたのである。

 かくして俺は男に言われたように、ヤカンに水を入れ、焚き火を起し、ヤカンの中の水を沸騰ふっとうさせたのである。


 ◇


「君、君!」

 俺は目にする鋭い光──白い輝き、ペンライトだ──が眩しくて、しびれる手で光をさえぎった。


「おお、生きているぞ!」俺の耳に入る若い男の声。男は叫ぶ。

「さあ、救急車を出せ!」


 すっと感じる浮遊感。担架に乗せられ抱え上げられたのだ。


「搬送先は!?」

「高徳総合病院と話は付いています!」別の男の声。俺に呼びかけた男の問いに叫ぶ。

「よくやった。急げ、高徳総合病院だ!」若い男の声の焦りに、少し優しさと余裕が混じった。


(なんだ? あの男……『助かる』ってこの事か?)


 と、思うと俺の意識は再び闇に落ちたのである。

 心地よい桃の香りが、鼻先に触れた気がした。


 ◇


 後の事。

 俺の所々に包帯が。特に右掌には酷い火傷を負っていた。そして白い清潔な病室の小さなテーブルには御茶を入れた水差しが一つ。 俺は首を振る。


(俺、生きてる)


 隣のベッドが見えた。

 すると、影がある。

 病衣の男性が寝ている。

 俺は水差しを乱暴に掴み、水を飲んでテーブルに音を立てて置いた。

 すると隣のベッドに横たわる男性が振り返る。


「なあ兄ちゃん。おでの言ったとおりにして良かったろ? ヤカン、役に立っただろ?」


 前歯が一本、見事に折れている。

 そう。

 俺の隣から聞こえてきたのは、あの歯折れの男の声だったのだ。


 男のテーブルの上には良く熟れた桃がある。

 男は至極嬉しそうに言葉を紡ぐ。


「なあ兄ちゃん、桃食うかい?」




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