事件から一夜明け、本田は自宅でパジャマ姿のまま朝食が用意されたテーブルに着いた。


 白バイ小隊隊長である山田が救急搬送された為、交通機動隊隊長の小川警視が直接指揮を執る事となり、本田は小川から処分が決まるまで自宅で謹慎しているように言い渡されたからであった。

 もっとも、通常通りに出勤するように言われたところで、とてもそんな気力は無く、自宅謹慎を言い渡された本田は自分の気持ちとは裏腹に、どこか安堵する気持ちがあった。


 ダイニングキッチンのテーブルからはリビングに置かれたテレビが見える。

 テレビではどのチャンネルに切り替えても昨日の暴走車の事件を報じている。そして、どのチャンネルでも一様に警察の追跡方法は不適切ではなかったのかという一点について論じていた。中には本田が過去にテレビの取材に応じた際の映像を繰り返し流し、まるで彼が悪いかのような扱いをする番組まであった。


 テーブルに置かれた朝刊を見ると、一面にはやはり暴走車の一件が大々的に報じられており、殉職した山田が2階級特進して警視として顔写真入りで掲載されていた。


「あなた、事件の記事は読むのを止めたほうが良いわ」


 妻の亮子りょうこが本田を気遣ってそう声を掛けた。本田は一言「あぁ……」と言って新聞を置いた。


 娘のもえはまだ真新しさが感じられる地元の公立高校の制服を着て、トーストにバターを塗っていた。

 マスカラを付けているせいか、随分とハッキリとしたまつ毛を見て、本田は『そうか、萌は今年から高校生になったんだ』と改めて娘の成長を実感した。

 そして、自分と同じ黒人の血が流れているクォーターである萌の事を案じた。


「なぁ、萌。……学校、大丈夫か? 俺のせいでいろいろ言われたりしないか?

 今日は無理に学校に行かなくてもいいんだぞ」

 萌は黙ってトーストにバターを塗っていたが、少ししてバターを塗り終えたトーストを皿に置き、そして本田の顔をまっすぐに見据えた。


「別にあたしは大丈夫だよ。それにお父さんは警察官としてやるべきことをやったまでの事でしょ。何も悪い事はしていないのだから、私も普段通りに学校へ行くわ。

 もし、お父さんの事で何か言ってくる奴が居たら、一体何が悪いのか、そいつに問いただしてやるんだから」


 萌はそう言うと、トーストをちぎって口に運んだ。


 本田は萌を見て少し安心した。しかし、昨日の事件の事で気持ちの整理がつかず、コーヒーに口を付けただけで。用意された朝食には手を付けられずにいた。


 自分が山田に追跡を断念するように進言していれば事故は防ぐことが出来たのではないか?

 その思う一方、もし追跡を断念していれば一般市民に犠牲者が出たのではないか?

 ……いったい自分はどうしていればよかったのか? どうすることが正解だったのか?


 いくら考えても一向に答えは出なかった。


「食べないの?」


 亮子が心配そうな表情で本田に尋ねる。


「あぁ……、ごめん。食欲が無くってさ。寝るよ。昨日はほとんど眠れてなくて」


 亮子の心配そうな顔をよそに、本田はパジャマ姿のまま再び寝室へと向かい、無言でベッドに潜り込んだ。


 眠る事が出来るだろうか? そう思ったものの、どうやら一晩中眠れなかった反動が押し寄せたらしく、いつしかプツンと電源が切れるかのように眠りに落ちてしまった。


「ドアホ……。ワシは……、大したことない……。それより、早うマル被を緊逮せんかい! 自分……、警察官やろ? 早よ行け。何してんのや……。早よ行って、ワッパ嵌めて緊逮してこんかい……」

「うわあぁぁ!」


 本田は言葉にならない叫び声を上げてベッドから飛び起きた。

 壁に掲げられた掛け時計は1時20分を指している。締め切った遮光カーテンの僅かな隙間から真っ白くエネルギーに満ちた日差しが差し込んでいるのを見ると、今は午後の1時20分なのだろう。


 全く、なんだって山田隊長の最後のシーンを夢で見るんだ……。


「あなた! どうしたの? 大丈夫?」


 本田の叫び声を聞いた亮子が不安そうな顔をして寝室を覗き込んでいる。


「あぁ……、何でもない。ちょっと、悪い夢を見ただけだ」


 本田はそう言うと、彼女に向けて手をヒラヒラと振って見せた。


「そう……。ならいいんだけど。あんまり自分を責めないでね。私、買物に出かけてくるから」


 亮子はそう言って寝室を後にした。


 少しして汗でびっしょり濡れたパジャマを脱ぎ、Tシャツとジャージのズボンに着替えた。寝不足のせいか頭痛のする頭に顔をしかめながらリビングのソファに腰を掛けると、リモコンでテレビをつけた。

 ちょうどテレビでは昼のワイドショーをやっていて、リポーターが昨日の事故現場でマイクを持って事件の概要を説明しているところだった。


「……追跡をしていた山田晃警部補が暴走車に巻き込まれ殉職。暴走車を運転していた犯人は車外に投げ出され死亡しました。なお、追跡には日本初の黒人警察官として一躍有名となった本田省吾巡査部長も加わっておりましたが、事故に巻き込まれずに難を逃れたとの事です。

 以上、現場から――」

 本田はリモコンのボタンを押し、チャンネルを変えた。


 別の局のワイドショーでは司会者とゲストが何やらトークを繰り広げていた。

 彼らのバックにある大型のモニターには過去に本田がテレビの取材に応じた時の映像が繰り返し流れていて、テレビ画面の右上には『行き過ぎた追跡!? 札幌 白昼の惨劇! 警察官1名が死亡』と視聴者を煽るようなタイトルが表示されている。

 カメラがゲストの初老の男にズームされる。男の胸の辺りには『元神奈川県警刑事 警察評論家』という肩書が名前と一緒に表示されていた。


「今回のような事案ですと、警察としては一般市民への影響を考えなければなりません。ただ闇雲に追跡するのではなく、事故が起きるであろう可能性を予見して、ある程度で追跡を打ち切る。ここら辺の判断が適切に出来ていなかったのではないでしょうか?

 やはりハーフの方となるとそこら辺の日本人としての感覚がちょっとズレていたのかもしれませんね」


 こいつは一体俺の何を知っているというのだ? 俺は生まれも育ちも日本だし、父親こそアメリカ人だが、物心ついた時には父親は居なかったのだ。

 日本語を聞いて育ち、日本の学校に通い、日本の社会で暮らしてきた。

 ハーフだから、黒人だからという理由だけで、なぜこんな扱いを受けなければならないのか?


 泣き出したい気持ちと怒りが混じった複雑な気持ちを堪えてリモコンのボタンを押し、テレビの電源を切った。


 ふとテーブルの上に置かれた自分のスマホに目をやると、通知ランプがチカチカとせわしなく緑色に点滅をしている。


 スマホを手に取り、画面のロックを解除すると不在着信が10数件あった。おまけにショートメッセージまで10件ほど届いている。

 着信履歴を確認すると知らない番号ばかりだ。

 ……次にショートメッセージを確認すると1通目は南城からであった。

「本田君、電話したんだけど繋がらないからショートメッセージを送るね。

 テレビや新聞、それにネットでいろいろ言われているけど、私は本田君の味方だよ。

 同期の皆も心配してる。負けちゃダメだよ。頑張って」


 おそらく南城が交通機動隊の誰かから本田の連絡先を聞き出し、そして同期の連中にも教えたのだろう。

 他のショートメッセージは、昔苦楽を共にした警察学校の同期からのものがほとんどであった。


 本田は「ありがとう……」と静かにつぶやくと、スマホを両手で握りしめて俯いた。

 胸の内で堪えていたものが抑えきれずにあふれ出してくるのを感じた。

 とめどもなく熱い涙が流れ出してくる。


 どれくらいの間ソファに腰かけていたのか? 気が付くと窓からの日差しが若干和らいでいる。

 本田はテーブルの上のリモコンに手を伸ばしたところで、手に取るのを止めた。

 どうせテレビをつけたところで昨日の事件と自分へのバッシングしかやっていないのだから。


 本田はシャワーを浴びようとソファから身を起こした。そして浴室に入ると熱いシャワーを浴びた。

 何一つとして事態が解決へと向かったわけではないが、シャワーを浴びて幾分か気持ちが落ち着いた。


 やがて夜のとばりが降り、一家3人で食卓を囲んでの夕食となった。

 娘の萌が思春期になってからというもの、特に進んで会話をする事も無いのだが、今日の食卓はいつにも増して、その沈黙が痛かった。

 萌はいつもと変わらぬように見受けられるが、こう見えて親には心配を掛けるまいと気丈に振る舞っているのだろう。


 日本社会の中の黒人という、ただでさえ目立つ存在に加え、自分の父親が日本初の黒人警察官であり、そして昨日の事件の当事者の一人なのだ。学校で全く何もなかったという事はあり得ないだろう。

 何か萌に声をかけるべきか? 本田は悩んだが、声をかけることが藪蛇やぶへびになるような気がして、結局彼女に声をかける事は出来なかった。


 翌日も、そしてそのまた翌日も、道警本部からは何の連絡もないまま、本田は自宅の中で一日を過ごした。


 日を追うごとにテレビや新聞では例の事件の扱いは小さくなっていくのだが、それでも当事者の1人である自分が表に出ればちょっとした騒動になるような感じがして、表に出る事ははばかられた。


 本田は事件の日の朝から剃っていない顎の髭を触りながら、もう何年間もこうして家の中に籠っているようなそんな錯覚を感じた。

 今日もまた連絡が無いまま一日が終わるのか……。リビングのソファに腰を掛け、ぼんやりとそんな事を考えていた矢先、彼の不意を突いてスマホが着信音を鳴り響かせる。

 慌てて手に取った画面には『交通機動隊』と表示がされていた。


「もしもし、本田です」


「小川です。……本田君、大丈夫かね?」


「え、ええ。まぁ、なんとか」


「そうか……。それはそうと本庁から君に、明日の9時に出頭するように命令が出た。

 その件で電話をしたんだ」


「私の処分が決まったんですか?」


「いや、分からない。私は本庁が君を呼び出したという事しか聞かされていないんだ。それも本部長直々にという事だ」

 本田はゴクリとツバを飲み込んだ。


「どういう処分が下るかはまだ分からないが、どうか気を強く持ってくれ。私を含め交機の皆が君を応援している」

「はい……。ありがとうございます」


「では、明日。本庁に9時に出頭するように」


「はい、……失礼します」


 電話を切ると不意に吹っ切れたような気持ちになった。

 今更ジタバタしたところでどうにかなるわけでもない。そんな気持ちを抱えながら、本田は浴室に入り熱いシャワーを浴びた。


 翌朝、本田はいつも通りに起床すると、髭を剃り頭髪を整え、濃紺のスーツにグレーと紺がストライプ模様になったネクタイを身につけた。いつもは警察官の制服を着ているのでスーツとネクタイは数着しか持っていない。

 数カ月前に萌の高校の入学式に着たばかりだったので、サイズが合わず着られないという事は無かった。

 昨晩寝る前に亮子には本庁に出頭する旨を伝えておいたのだが、まさかスーツを着るとは思っていなかったのだろう、亮子がサラダの器を持ったまま、驚いたような顔をして本田を見つめている。


「今日、本庁に行くんでしょう。 制服じゃなくていいの?」


「ん? あぁ、いいんだ」


 本田はそれだけ言うと食卓に着き、納豆のパックを開けて付属のタレをかけて箸でかき回した。


 朝食を終え、学校に行く萌を見送った本田は電話でタクシーを呼んだ。

 職場である交通機動隊が入居している道警琴似庁舎までは、いつも自家用車で通勤しているのだが、今日は中央区にある本部庁舎に出頭せねばならない。

 自家用車で行くという選択肢は毛頭ないのだが、かと言ってバスや地下鉄を使って行く事には正直なところ、ためらいがあった。

 ほどなくしてタクシーが家の前に到着し、運転手がインターホンのチャイムを鳴らした。本田は不安げな表情の亮子に「じゃあ、行ってくる」とだけ告げてタクシーの後部座席に乗り込んだ。


「中央区北2西7の道警本部まで」


 本田がそう行先を告げると、運転手は一言「はい」と返事をしてルームミラー越しにこちらを一瞥し、車を発進させた。

 道中、車内では全く会話が無かったのだが、やはり運転手も本田が渦中の人であることを知っているらしかった。


(やっぱり皆、事件の事は知っているんだろうな。それに俺は黒人だから殊更ことさら目立つし……)


 落ち着かない気持ちを運転手に悟られないようにしながら居心地の悪い20分ほどの時間を過ごし、タクシーは中央区のオフィス街にある道警本部庁舎ビルに近づいた。

 本部庁舎ビルを見ると、そこには人だかりができていて、一体どこで情報を仕入れたのか数多くの報道陣が詰めかけていた。彼らは本田が来るのを今か今かと待ち構えていたようだった。


 ビルの前にある詰所から立哨りっしょう担当の若い制服警官が出てきて、本田が乗ったタクシーを止めた。本田は警官に、自分の所属と来庁の目的を告げようと後部座席の窓を開けた。すかさず、待ち構えていた報道陣の連中が後部座席の窓に群がり、我先に! と車内に数本のマイクを突き出してきた。


「本田さん! 暴走車の追跡は適切であったとお思いですか?」

「責任を取って警察官を辞職するお考えはありませんか?」

「今回の暴走車の一件でテレビの前の市民に対して一言お願いします!」


 数人が一斉に本田への質問を浴びせ、同時に複数のフラッシュがまるで花火大会のフィナーレのように連続して本田を照らした。

 一気にタクシーに群がってきたマスコミ連中に、若い警官はすっかりもみくちゃにされて困惑の表情を浮かべている。


「交通機動隊 白バイ小隊の本田省吾です。呼び出しを受けて出頭致しました」


 本田が報道陣の質問に負けないくらい大きな声で立哨担当の警官にそう告げると、彼は「入って! 入って!」と言いながら、本田に対し敷地内に入るようにジェスチャーで示した。

 タクシーは大勢の報道陣に囲まれながらゆっくりと敷地内に入っていき、ようやく本部庁舎ビルの玄関前まで辿り着いた。

 本田がタクシーから降りると、敷地内に入る事の出来ない報道陣が、なんとか本田のコメントを取ろうと大声を出して先ほどと同じ質問を浴びせてきた。

 彼は質問には答えず、報道陣に向かって一礼をすると、まっすぐ前を見て歩き、入口の自動ドアをくぐった。


 入口を入った突き当りにある受付カウンターで本田は警察手帳を提示し、来庁の目的を告げた。

 緊張からか声が裏返ってしまい、思わず咳払いをする。

 カウンターの中の2人の女性職員は顔色一つ変えずに椅子に座ったままであった。

 一人の女性職員が受話器を手に取り、どこかへダイヤルをし本田が出頭したことを告げ、指示を仰いだ。

 数分の後、本田は受付の女性職員に指示された通りエレベーターに乗り本部長室のある階のボタンを押した。


 普通の警察官なら、警察本部の本部長を直接見かけるのは警察学校の卒業式くらいなものか、あるいは大規模な訓練や装備点検の際の訓示の場くらいのもので、直接会って話すなどという事は無いのだろう。

 しかし本田の場合は日本初の黒人警察官という事もあってか、テレビの取材などで本部長と一緒にインタビューなどを受けた経験があった。

 とは言え、警察官になって10年以上経った今となっては当の昔に本部長は別の人間に代わっている。今の本部長とは会うのはもちろん、話す事さえ初めてであった。


 エレベーターが止まり、オレンジの色をしたLEDの表示板が目的の階への到着を知らせた。

 本田は一挙手一投足を意識しながら本部長室へと歩んでゆく。

 やがて重厚なドアの前に辿り着くと左腕の時計を見た。

 ……8時56分、……よし!

 一呼吸おいてからドアを2回ノックすると、部屋の中から「どうぞ」という声が聞こえた。

 本田はドアを開け「失礼します」と言うと、中に入り所属と名前を名乗った。


「交通機動隊 白バイ小隊 本田省吾巡査部長 只今出頭致しました」


 すかさず直立不動の姿勢で敬礼をする。

 部屋の奥のマホガニーと思われる素材のプレジデントデスクの上には木製の大きなネームプレートが置いてあり、そこには明朝体で『北海道警察本部長 石田健一けんいち』と役職名と氏名が彫り込まれて漆黒の墨が入れてあった。

 そしてデスクの後ろの黒い革張りのチェアに掛けている男の胸には警視監を示す階級章が付けられていた。


「本田君。キミ、制服はどうしたのかね?」


 声のする方を向くと、そこには道警交通部長の八代やしろ警視正が立っていて、何やら眉をひそめてこちらを見つめている。

 本田は八代の質問には答えずに、ジャケットの内ポケットから一通の封筒を取り出すと石田の机に置いた。


 机の上に置かれた封筒には『退職願』と題字が万年筆で書かれており、石田はそれを見てピクリと片方の眉毛を動かした。

 八代が大きく目を見開いて驚いたと言わんばかりの表情を浮かべている。


「君には悪いが、これを受け取ることはできない」


「何故でしょうか?」


 石田の机の横に立っている八代がまるで「口答えをするんじゃない!」とでも言いたげな表情を浮かべ、本田を睨み付けている。


「君が日本初の黒人警察官として道警に採用されたその瞬間から、君の一挙手一投足を世間が注目している。

 それが良いか悪いかは別として、実際そうなっているのは君自身が日々の職務の中で実感している事だと思う。

 それに加えて今回発生した事件では、その内容も去ることながら、最も重要な点として君が当事者として関わっている事にある。

 これが何を意味するか……、分かるかね?」


「……いいえ、よく分かりません」


「よろしい。では、説明しよう。


 今回の事件は国内のマスコミ連中が騒いでいる他に、広く海外にも報じられ、僅か数日で日本国内のみならず、全世界の注目を浴びる事となった。


 そこに、今や世界規模で拡大しているBLMブラック・ライブズ・マター運動の連中が君を運動のシンボルとして祭り上げようと目を付け、日本政府だけではなく各国の政府に君の扱いに関して圧力をかけているそうだ。

 さらに事態を複雑化させているのは日本国内や海外に居る純血主義者の連中だ。

 かねてから黒人の血が流れている警察官の存在をうとましく思っている奴らにとって、今回君が事件に巻き込まれたのは、またとない絶好の機会だ。

 彼らは一般市民の中だけに居るのではなく、諸官庁、マスコミ、そして警察組織の中にも存在する。

 もちろん彼らが表立って声高に混血の警察官を排斥するよう主張する事はない。

 様々な手段を使って巧妙に君を警察官の地位から引きずり降ろそうと躍起やっきになってあれこれ画策かくさくしているのだ。


 既に私の所にもあちらこちらから君を辞めさせるよう、様々な圧力が掛けられている。それと同時に現時点では非公式にだが、アメリカを始めとした世界各国の外交筋からも君を辞めさせないよう圧力が掛けられているのだ。

 これが公式な外交問題に発展するのも時間の問題だろう。

 どうだね? これで君の進退が、もはや君一個人だけの問題ではなく、道警、ひいては日本の警察組織全体、そして日本政府をも巻き込んだ大変な国際問題となっているという事を理解して貰えただろうか?」


「……事のあらましについては理解しました。

 しかし、私の進退が私自身の手を離れて、政争の具として利用されることについては到底納得がいきません」


 本田がそう言い終えるや否や、八代が苛立ちをあらわにした。


「本田君、口を慎みなさい! 本部長に向かって、その態度は一体何なんだね?

 大体君は、制服を着用せずに――」


 口角に泡を飛ばし本田に対して説教を始めた八代をなだめすかすように、石田が右手を差し出し「まあ、落ち着きなさい八代君」とたしなめた。


「本田君、君の怒りはもっともだと思う。もし私が君の立場なら、きっと同じ事を口にしていただろう。

 だが、君も警察という組織の一員だ。ここはひとつ、初心に帰ってよく考えてみてくれないか?


 それに実は……、これは君には伏せておこうと思ったのだが、情報通信部の南城巡査部長――、確か警察学校での君の同期だね? その南城君を始めとした君の同期達や交通機動隊の隊員などから、君に対して寛大な処置を求める嘆願たんがん書が提出されている。

 そして今回残念ながら殉職してしまった山田警部補……、いや山田警視はいつも君の事を気に掛けていたそうじゃないか。


 それに君が危険な業務から離れられるように新しい職場も用意した。

 どうか警察官を続けてみてくれないか?」


 静まり返った部屋の中で、本田は石田をまっすぐに見据え、ゆっくりと念を押すように口を開いた。


「要するに本部長がおっしゃりたいのは、私を体よく厄介やっかい払いしたいという事ですね?」


 本田の言いぐさを聞いて、八代が再び激昂げきこうした。


「本田君! 君という男は――」

 石田が再度、八代をたしなめる。


「本田君、君は随分と手厳しいな。

 ……まあ、すぐにこの場で結論を出せとは言わない。

 返事は2、3日中で構わないから、どうか前向きにじっくりと考えてみてくれないか?」


 石田はそう言い終えると、引き出しから何やら紙切れを1枚取り出し、机の上に置かれた辞表と一緒に本田に差し出した。


 本田は紙切れを受け取ると、まじまじと文面を見つめた。


『様式第5(警察官採用、昇任、降任、配置換、併任、部外派遣、外国出張、辞職等)


            辞      令


 所属 職名  北海道警察本部 交通部 交通機動隊 白バイ小隊 隊員


 階 級    巡査部長


 氏 名    本田 省吾


 下記の通り発令する


 異動種目   配置換      日 付  令和3年6月30日


 (異動内容)


 北海道警察 旭川あさひかわ方面本部 富良野ふらの警察署 布礼別ふれべつ警察官駐在所勤務を命ずる


 任命権者   北海道警察 本部長  石田 健一』


「ふ、富良野!? えーと、ぬの? ……ふ、れいべつ……?」


「フレベツと読むんだよ、本田君。布に礼儀の礼、そして分別の別と書いて布礼別ふれべつ

 富良野の町の郊外にある農村地帯だ。テレビドラマのロケ地で有名な麓郷ろくごうに隣接している地域だ。」


 辞令書を見て困惑している本田に石田がそう告げた。

 なおも困惑の表情を浮かべたまま黙りこくっている本田に対し、石田が続けて話す。


「本田君、君は今年高校生になった娘さんが居るそうじゃないか。

 どうだね、ここは一つ自然豊かな富良野の郊外で君と奥さんと娘さん、一家3人で心機一転やり直すのも悪くないだろう?

 それに子育てをするには、なかなかいい環境だと思うんだがね」


「はぁ……」


 北海道唯一の政令指定都市にして196万人の人口を抱える大都市である札幌の白バイ隊員から、いきなり富良野の郊外にある読み方も知らない田舎の農村地帯で駐在のお巡りさんをやれて言われ、困惑が全てを支配してしまった本田は気の抜けた返事をするのが精いっぱいだった。


「……少し、考えさせて下さい。妻や娘にも相談しなければなりませんし……」


「あぁ、返事は2、3日中で構わないよ。良い返事を聞かせてもらえるよう期待している。話は以上だ」


 石田はそう言うと、ようやく固い表情を変えニコリと微笑んだ。


「それでは失礼します」


 本田は一礼をして本部長室を後にした。

 1階のロビーでタクシーを待つ間、そして帰宅してからしばらくの間、本田はずっと自分の進退の事を考えていた。


 石田に対して言った通り、本田自身の進退問題が自分の預かり知らぬところで政争の具として利用されていることに何とも言えぬ不快感を感じていた。

 それに文字通り、命がけで被疑者を追跡した挙句、事故に巻き込まれて殉職してしまった山田のことなど、まるでどこ吹く風という、山田に対する軽い扱いも不快感の多くの部分を占めていた。


 結局のところ、道警にしろ、日本の警察組織、マスコミ、世間一般、そして世界各国の連中も、皆が皆自分のエゴを押し通すための道具として黒人警察官である自分の進退を利用しているだけではないか?


 かといって警察官の職を辞したところで、次の一手はどうするのか?

 一時の感情に任せて辞職したところで何か明確なプランがあるわけでもなく、そして恐らくマスメディアで騒がれた黒人ハーフの自分など、どこも雇ってはくれないだろうという悲観的な未来が待ち受けている事が手に取るように分かる。


 自分一人だけならまだしも妻の亮子や娘の萌の事はどうする?

 妻子を抱えて路頭に迷う事だけは何としてでも避けなければならない。そうではないのか?


 上司の山田が殉職したにも関わらず、自分がこの先も、のうのうと警察官を続けるような事をして、そんな事が道義上許されるものなのか?

 そもそも自分が山田に追跡を断念するように進言していれば、山田は殉職せずに済んだのではないか?


 追跡を断念していたとして、その後一般市民に犠牲者が出ていたのではないのか?

 あの時、一体どうすることが最善の選択であったのか?


 一人リビングのソファに腰かけて、両の拳を固く握りしめる。

 しかし、いくら考え込んだところで結論がまとまるどころか益々頭の中がグチャグチャに混乱するばかりであった。


 夕食のテーブルで本田は亮子と萌の2人に昼間に本庁に出頭した際の事を話した。

「……あのさ、俺、本部長に辞表を出したんだ。山田警部補が殉職するような事件の一当事者として辞職するのが筋だと思って……」


 本田の告白を聞いた2人が茶碗を持ったまま動きを止めた。


「あなた……、あなたが思い悩んだ挙句、そういう結論に達したのなら、私は反対はしないわ」


「ちょっと! 何勝手に仕事を辞めるだなんて言い出しちゃったワケ? 私はどうなるの? 今年の4月に高校に入ったばっかりだよ?

 働かなきゃお金稼げないでしょ?

 私たちに相談も無しに一体何考えてるの?」


 亮子と萌、それぞれに思いのたけを本田にぶつけてきた。


「それがさ、本部長に辞表を突き返されちゃって……、警察学校時代の同期や交通機動隊のみんなが俺に対して寛大な処置をして欲しいって嘆願書を書いて提出してくれたんだ。だから、もう一度考え直して警察官を続けてみないかって言われたんだ」


「……あなたはどう考えてるの? 仕事をすることは大事な事だけど、神経をすり減らしてまで仕事をするような事では、あなたに一番負担がかかってしまうわ」


「せっかく同期の人たちやお父さんの同僚の人たちが嘆願書まで書いてくれたんだから、仕事を続けたらいいじゃない。ここで辞めちゃったら、その人たちの事を裏切る事になるんだよ?」


 亮子と萌、それぞれに本田の事や家庭の事を考えてくれているのだろう。

 だが、富良野への異動の事を切りだしたら、2人は一体何というだろうか?


「それが……、異動の辞令が出たんだ。警察官を続けるなら異動になるって……」


 本田は恐る恐るポケットから、小さく折りたたまれた辞令書を取り出すと広げて2人に見せた。

 2人が身を乗り出して広げられた辞令書に見入る。


「あら、富良野へ転勤になるのね。駐在所のお巡りさんになるって事? 私は賛成するわ」


 亮子はあっさりと本田の異動を受け入れた。


「富良野って……、あの富良野!?」


 萌は心底驚いたというな表情をし、目を大きく見開いて黙り込んでしまった。


「すまない、萌。どこか下宿にでも入って今の高校に通うって言う手もあると思うんだ。もちろん、萌がどうしたいか――」


「行くよ! 行く! 私も富良野に行く!」


 本田の話を遮って、萌が富良野への異動に賛成の意思を示した。


「あたしさ……、お父さんが警察官だっていうの……、誇らしかったんだよね……。

 別に警察の偉い人にならなくてもいいから……、その、警察官を続けて欲しいんだ」


 萌が本田から視線を逸らし、照れ臭そうにそう言った。


「ありがとう、亮子。ありがとう、萌。俺、もう一度富良野で警察官としてやり直すよ」


 本田が2人に深々と頭を下げた。


「さ、そうと決まったら、まずはご飯を食べちゃいましょ。せっかくの夕飯が冷めてしまうわ」


「あぁ、そうだな」


 本田は自分の胸の中のモヤモヤがスーッと消え去っていくのを感じた。



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