その日、本田は白バイに跨り、札幌市中央区にある北海道警察本部庁舎ビルに向かっていた。

 先週、上司の山田から来年度の道警採用案内パンフレットに本田のインタビューと写真を何枚か掲載することになったので本部に出頭するようにと言われていたからだった。

 警察の広報資料などに自身のインタビュー記事や写真が掲載されるのは、これが初めてではない。そればかりか本田が道警に採用された当時などは連日テレビの密着取材が付きまとい、警察学校の教官連中が露骨に不快感を顔ににじませていたほどだった。

 別に自分は『日本初の黒人警察官』の称号が欲しかったわけでもなく、一躍脚光を浴びて時の人になろうなどと下心があって警察官を志したわけでもないのだ。

 人から注目され称賛されるのは嫌な事ではないが、ただ自分が黒人と言うだけで面白おかしくマスメディアに取り上げられるのは何だか自分が客寄せパンダになったようで、どことなく腑に落ちない。

 もちろん道警の上層部が黒人である自分を客寄せパンダとして警察官に採用したのではない……と信じたい。


 そうこうしているうちに道警本部庁舎ビルに着いた。指定された正面駐車場の一角に白バイを停め、バイクを降りてからヘルメットを脱ぎ何気なく上を見上げると一面ミラーガラスが貼られた一八階建ての本部庁舎ビルが視界いっぱいに写り込む。


 札幌市中心部のオフィス街にある本部庁舎ビルはモダンなデザインで周囲のオフィスビルに溶け込んでいるが、ただ一つの異質な点はビルの頂上に取って付けたようにそびえ立つ紅白の縞模様に塗装された通信用のアンテナタワーがある事だ。


 本田がビルの入り口に向かい歩いていくと大理石調のタイルが貼られた壁面に、黒い梨地なしじに金色で『北海道公安委員会 │ 北海道警察本部 │ 北海道警察情報通信部』と浮き彫りがなされた金属のプレートが掲げられているのが目に入った。

 入口のガラスでできた自動ドアを過ぎると、そこは一部が二階までの吹き抜け構造となっていて床には瀟洒しょうしゃなデザインの絨毯じゅうたんが一面に敷かれており、入口の壁は全面ガラス張りでそのすぐそばには小洒落こじゃれたテーブルと椅子のセットが幾つか置いてある。


 これだけを見るとまるでちょっとしたシティホテルのようだが、入口を入り進んだ突き当りにある受付ブースの中には制服を着た女性警察職員が2名座っており、彼女らの存在が、ここがホテルなどではなく北海道警察の本部庁舎ビルであることを物語っている。


 本田は受付で警察手帳を提示し、採用案内パンフレットの取材の件で来庁したことを告げた。

 受付の女性警察職員の一人が手慣れた手つきで受話器を取り、どこかに電話をかけた。

 数分の後、本田は彼女に指示された通りにエレベーターに乗り、行先の階のボタンを押した。


 やがてエレベーターの扉が開き、本田は壁の案内図を見てインタビュアーが待っているであろう会議室を目指した。

 廊下の角を曲がろうとした時に突然現れた人影に思わず「うわっ!」と声が漏れる。

 ぶつかる事は免れたものの、思いがけず肝を冷やす事となり内心の動揺を抑えながら本田は相手に「すいません」と謝った。


「あーっ! ジェームス! 久しぶりー!!」


 視線を下に移すと、そこにはショートボブの髪形をした女性警察官が立っていた。

 一瞬誰だろうと思ったものの、聞き覚えのある声と、そして何より自分の事を『ジェームス』と渾名あだなで呼ぶのは警察学校時代の同期である南城なんじょう智子ともこだとすぐに思い出した。


「ナンシーじゃん! どうしたのこんなところで!」


 ナンシーと渾名で呼ばれた南城は満面の笑みで本田を見上げた。


「どうしたのって、あたしはここの通信指令室に勤務してるんだよー。ジェームスこそどうしたの? 白バイ隊員が何の用事で本部に来たのさ?」


「おいおい、俺の事ジェームスって呼ぶのはやめろよ。もう警察学校の初任科しょにんかはとっくの昔に卒業しただろう。大体俺が黒人だからってジェームス・ブラウンにちなんでジェームスっつー渾名を付けるのは安直すぎるだろ。

 そもそもソウルミュージックとか聴いた事ねぇし。俺は山下達郎とか小田和正みたいなのが好きなの!」


 本田は口ではそう言ったものの、自分に付けられたジェームスという渾名については、まんざらでもなかった。何より警察学校の初任科を卒業して以来、久しくこの渾名で呼ばれたことが無かったので、どこか懐かしい気持ちになった。


「本田君こそ、私が南城だからってナンシーなんて渾名を付けるのは安直すぎない?」


「それはお互い様だろ?」


「そうだね」


 そう言って2人で顔を見合わせて笑い合った。


「俺さ、来年度の道警の採用案内パンフレットにインタビューと写真が掲載されることになって、今日はその取材を受ける為に本部に来たんだ。昼には取材が終わるらしいから後で食堂でメシでも食べない?」


「いいね! じゃ、後で二階の食堂で会おうね!」


「おう!」


 南城と別れ、先ほど受付で指定された会議室に入ると、そこには40代半ば~50代前半と言った感じで背が高く中肉の体つきの男が長机にICレコーダーやノート、一眼レフのデジタルカメラなどを広げて、椅子に座っていた。 


 真ん中で分け目を付けた黒髪に、まるで眉毛まゆげのような黒いセルが付いた四角いハーフリムのメガネをかけ、紺色のスーツにノーネクタイで青いボタンダウンのシャツを着ている様は如何にも出版業界のライターと言った印象を受けた。

 ジャケットの胸に付けられた小ぶりで丸いバッジには、青地に白い文字で『HP 0015』と書かれていて、それはこの男が警察外部の人間であり、今回のインタビューの為に本部庁舎ビルへの入館を許可されたことを示していた。


「すいません、ちょっと遅くなってしまって……。交通機動隊白バイ小隊の本田省吾です。今日はよろしくお願いします」


 本田がそう挨拶をすると、男は「いやー、全然大丈夫ですよ」と言いながら椅子から立ち上がり、頬骨ほおぼねがやや目立つ顔で、にこやかに微笑みながら軽く会釈をし、ジャケットの内ポケットから黒い革の名刺入れを取り出すと、中から自分の名刺を1枚取り出して本田に差し出した。

 男に名刺を差し出された本田も、慌てて制服の胸のポケットからアルミにヘアライン仕上げが施された名刺入れを取り出し蓋を開けて名刺を1枚取り出し、そして互いに名刺交換を行った。


わたくし、今回、道警さんの採用案内パンフレットの取材と写真撮影を担当させて頂く、札北さつほく印刷出版株式会社の入江いりえ大翔だいとと申します。」


 入江は本田を見上げながら、目を大きく見開いた。


「本田さん、大きいですねー。たしか身長195cmなんですよね? 178cmの私が自分の事を小さく感じてしまいますねぇ」


「あ、よくご存じで……。御覧の通り、私は黒人の血が入ったハーフですので、身長が高くて……。おかげでショッピングモールなんかに行ってもバーゲンの対象の服は着られるサイズが無くて困ってしまうんですよ。ハハハ……」


「いやあ、本田さんが道警に採用された時からテレビや新聞なんかで良くお見掛けして注目していましたが、こうして仕事の上とは言え、本田さんにお会いしてお話を伺う事が出来るだなんて光栄です」


 入江は相変わらず本田を見上げたまま目を輝かせながらそう言った。


「いや、あの……、光栄だなんて言っていただいて恐縮です。私なんぞつまらないただの平凡な警察官ですから」

(こいつもやはり俺と言う珍獣ちんじゅう見たさでこの仕事に自ら志願したクチなんだろう)


 本田は表向きの態度とは裏腹に内心では無意識のうちに入江に対し悪態をついていた。


 そこでハッと我に返った。


 いつから自分はこんなに嫌なヤツに成り下がってしまったのか?

 日々の業務の中で数多くの一般市民から好奇の目を向けられ続けることで、いつの間にか周りは全部『敵』と思えるようになってしまったのかもしれない。

 アメリカのテレビドラマでは黒人警官などはごく普通に出てくる。それなのになぜ場所が日本に変わるだけで『黒人の警官など存在しないモノ』といった見方をされるのか?

 その一方で日本国籍を持った黒人や白人、その他様々な人種のスポーツ選手が大きな活躍を見せると、マスメディアはこぞって『日本人〇〇選手、大活躍!』と言った感じの報じ方をする。それはテレビに映るスポーツバーなどの映像でも同じことで、画面の中の市井しせいの人々は、それが当たり前の事であるかのように日本国籍を持ったハーフのスポーツ選手たちを称賛する様子が映し出される。

 なのに何故……。何故黒人が警察官だと途端に珍獣扱いをされなければならないのか?


「あの……、本田さん? どうかなさいましたか?」


 入江が不思議そうな表情で本田の顔を見上げている。


「え? えぇ、あぁ……。ちょっと考え事をしてしまいましてね。し、仕事の……。そう、白バイ隊員って意外と書類仕事なんかも多いんですよ。書類の提出期限の事でちょっと考え事をしてしまいましてね……」


 本田のこめかみを一筋の汗が流れ落ちた。


「そうでしたか。いや、お忙しいところ貴重なお時間を頂きましてありがとうございます。さあ、どうぞ椅子におかけになって下さい。まずはイロイロとお話を伺うことから始めていきたいと思いますので」


 入江が机の上に置かれたICレーコーダーを手に取ると、慣れた手つきで録音状態にして、内蔵されたマイク部分をこちらに向けて再び机に置いた。

 すぐさまタンニンなめしのブラウンの革表紙が付いたA6版ほどのリングノートをペラペラとめくり、中ほどのページを開いて机の上に置いた。


「ではまず、本田さんの生い立ちを教えてください。……あ、テレビや新聞なんかの取材で既に何回もお話しされていらっしゃると思いますけど」


 インタビュアーを前にしての対談形式の取材は、これまでにも何回も経験しているが、改めてこうして道警本部の会議室で2人向き合っての取材を受けるとなると、がらにもなく太ももの上で握っている両方の拳に力が入り、掌にジワリと汗が滲んでくるのが感じられる。


 本田は一つ咳払いをしてから話を始めた。


「私は神奈川県の横須賀よこすか市で生まれたそうです。日本人の母親と、日本に長期滞在をしていたアメリカのジャズミュージシャンの父親の間に生まれまして、あ! えーと。その父親ですが私が産まれて間もなく帰国してしまったそうです。それで今現在に至るまで会ったことも話した事もありません。

 どんな父親だったのか……。母はあまり父親の事を話したがらないので、正直なところ良く分からないんです。ただ、ハッキリと分かっている事は黒人だったって事だけです。

 ハハハ……。おかしいですよね?」


「いや、おかしいことなんてないですよ」


「そうですか? ……それで、……母と父親は籍を入れておらず、私は生まれた時から日本国籍の黒人ハーフだったんです。

 母は生まれたばかりの私を連れて実家がある札幌に戻ってきたので、横須賀生まれと言われても正直ピンと来ないんですよ。自分としては筋金入りの道産子どさんこだって思ってます」


「なるほど、お母様は結構ご苦労をなさったんですね」


「横須賀に居たのは生まれて間もない頃ですので、その頃の事は良く分かりません。

 ただ、幼子おさなごを抱えた若い女性、しかもその赤ん坊は黒人なんですから、大変であろうことは容易に想像できます」


「それからすぐに北海道に移住されたんですか?」


「えぇ、それで札幌市西区にある母の実家で、私と母と、そして祖母の3人での生活が始まりました。

 近所の公立小学校に入り、そして中学校も高校も公立でした。あ、大学は札幌市内の私立大学で、人文学部で日本文化について専攻をしていました。見た目が外国人ですからね、よく留学生かと間違われましたよ。ハハハ……。

 こう見えて中学校の国語教員の免許を持ってるんですよ! 友達からは「お前が国語を教えんのかよ」ってよく言われましたけど」


「大学を卒業したら警察官になると既に決めていらしたんですか?」


「いえ、このまま教員になるか、それとも民間企業でサラリーマンになるか……、漠然とそんな感じがしてましたけど、まさか警察官になれるとはこれっぽっちも思っていませんでした。小さい頃から警察官への憧れはありましたけど、御覧の通り私は黒人ハーフなんで、……正直無理だよなぁって。

 あの頃は常に心にモヤモヤしたものを抱えて毎日過ごしていましたね」


「それではどうして道警の採用試験を受けることになったんですか?」


「私が警察官に憧れているっていうのは周りでは有名でして、ある時、道警を受ける友人が私の分も道警の受験案内を貰ってきてくれたんです。

 それでも、やはり受験申し込みをする踏ん切りは付かなかったですね。

 その日、友達と飲みに行ったんですが、お酒に弱い私は無理に友達に付き合ってベロンベロンに酔っぱらっちゃいました。

 翌朝目が覚めたら、実家の自分の部屋で机に突っ伏して寝てました。

 ただビックリしたのは、どうやら酔っぱらった状態で道警のウェブサイトにアクセスして電子申請で受験の申し込みをしちゃったみたいなんですよね。

 今でも思い出すと笑えて来ますよ。あ!? どうしよう? 道警に受験申込しちゃったってね」


「まさか、本田さんが道警を受験した裏にそんなストーリーが隠されていたとは!」


「ですよね。それにまさか黒人の自分が警察官になれるワケは無いだろうって思って、こうなりゃもうどうにでもなれって、半ばヤケクソで受験をしたら受かっちゃったんですよ。一緒に受けた友達は落ちたんですけど。

 凄く嬉しかったのを今でもハッキリと覚えています。でも母と祖母の喜びようはハンパなかったですね。祖母なんか涙を流しながら、仏壇に合格通知を供えて手を合わせてましたから」


「お母様とおばあ様の嬉しさが伝わってくるエピソードですね」


「えぇ。それからはもう毎日必死でしたよ。母と祖母の期待に応えなきゃならない! そして何より自分がまさかの警察官になれたのだから、誰よりも優秀な成績で警察学校を卒業してやるって、頑張りました」


「その後、日本初の黒人警察官として警察人生をスタートされるわけですが、まずはどこに配属をされたのですか?」


「警察学校を卒業して最初に配属されたのは札幌中央警察署の薄野すすきの交番でした。

 別に交番勤務を希望したわけではありません。

 警察官は警察学校を卒業すると最初は必ず交番勤務になるんです。それはキャリア組も同じです。ただ、彼らは採用された時点で警部補なんですが、警察学校を卒業すると交番勤務になるのは、私のようなノンキャリア組と同じなんですよ。あ、キャリア組は警察大学校ですけど。


 ……話が脱線してしまいましたが、薄野交番に勤務してた時はもう大変でしたねぇ。

 御存じの通り、なにせ北海道一の歓楽街ですから、とにかく事件事故が多いんです。

 それに酔っ払いの相手をしなければならないのが、これまたもう……、大変を通り越して絶望ですよ。

 特に私はこの見た目、身長195cmの黒人ですから、酔っ払いは他の警察官には目もくれず、真っ先に私に目を付けて絡んでくるんです。

「いつからここはニューヨーク市警の交番になったんだ?」とか

「ドッキリか? ドッキリなのか? いつ放映されるんだ? カメラはどこだ?」とか

 もうメチャクチャでしょ? 防刃ぼうじんベストの胸の部分と背中に『北海道警察』って書いてあるじゃんって……」


「黒人ハーフの本田さんならではのエピソードですね。失礼な話ですが、警察官に幻滅げんめつして辞めようと思ったりはしなかったのですか?」


「正直なところ薄野の酔っ払いには、すっかり嫌気いやけがさしてしまって、警察官を辞めようかなんて考えたことも一度や二度ではなかったんですけどね。

 ただ私は、その時既に結婚していましたし、何よりも娘がまだ幼くて、妻子を抱えて仕事を辞める訳にはいきませんでしたから……。

 それに一番の理由はやはり、小さい頃からの憧れであった警察官に、まさか自分がなれたという事。それがあるから今日こんにちまで続けてこられたんだと思います」


「本田さん、ご結婚は早かったんですね。その時もうすでに娘さんが生まれていたんですね」


「ええ、そうなんです。妻とは私が大学在学中に結婚しまして、出会いは私がサークルの仲間と薄野に飲み会をしに出掛けた時です。

 妻は旭川の高校を卒業後、札幌の民間企業でOLをしていまして、ちょうど私たちと同じく薄野に会社の飲み会で来ていたそうです。

 それで妻が飲み会から一人で帰っている時にガラの悪い酔っ払い連中に絡まれていまして、そこを目撃した私が連中から妻を助けたのがきっかけですね」

「そんなドラマみたいなことがあるんですね。それに本田さん男らしい!」


「あぁ、いや、そんな男らしいだなんて……。内心すごくビビってて、ひざが震えてました。ハハハ……。

 向こうからしたら――、あ、向こうってのは、妻に絡んでた酔っ払い連中の事ですよ?

 突然、得体のしれないデカイ黒人の若い男が現れて「めないか! 彼女嫌がっているだろう!」と凄んできたもんですから、すっかり酔いも冷めちゃったんでしょうね。

 後になってから、あぁ殴られたりしなくてよかったって、ホッと胸を撫でおろしました」


「いやぁ、でも中々出来る事じゃないですよ。仰る通り、下手したら殴られてるかもしれないですし、大体の人は厄介やっかいごとに巻き込まれたくないって感じで見て見ぬふりをするか、良くて警察に通報をするくらいでしょう」


「えぇ、そうですよね。ただ、これは私が警察官に憧れを抱くきっかけになった事にも繋がるんですけど、困っている人を助けるヒーローになりたかったって言うのもあります。


 あ、自分で言ってて何だか恥ずかしいなぁ、ハハハ。


 とにかく……、入江さんが今仰った通り、その時は誰も助けようともせず、ただ見て見ぬふりをして足早に通り過ぎていくだけでしたから……。

 これは、自分が助けなきゃ! って、そう思ったんです」


「なるほど。それで、その警察官に憧れを抱くきっかけとなったという部分について、詳しくお聞かせ願えませんか?」


「先ほどちょっとお話しましたが、私の実家は札幌市西区西野にしのにありまして、小学校は近所の札幌市立西野小学校に通っていました。

 私の実家から西野小学校に行くには手稲ていね右股みぎまた通りという通りを渡るんですが、丁度通りを渡ったところに西野交番という交番があるんですよ。えーと、札幌西警察署の管轄なんですけど。

 そこのお巡りさんの1人がいつも子供たちの登下校の時間帯は表に出て声を掛けたりして見守ってくれていたんです。当時で30歳前後だったと思うんですけど、がっしりした体形で笑うと顔にしわが寄るような優しいお巡りさんでしたね。


 その頃の私は肌の色の違いからイジメに遭っておりまして……、泣きながら家に帰るなんて事も多かったんです。

 ただ、交番の前を通る時だけは涙を見せないように、何とも無いんだぞ! とでも言いたげなオーラを出してましたね。たとえそれまで泣いていたとしても、交番の前を通る前には涙を拭いたり、公園で気持ちを落ち着けてから交番の前を通ったりしてました。

 でもある時、交番の前でお巡りさんに声を掛けられた時に、それまでこらえていた気持ちが一気にせきを切ってあふれ出してしまい、盛大に泣き出してしまったんです。


 突然泣き出した私に、お巡りさんは訳が分からずに、すごく慌てふためいていましたね。 なにせ、お巡りさんが何を聞いても私は泣きじゃくるばかりだったので……。

 とりあえず交番の中に入れてもらい冷たい麦茶を出されて、しばらくしてようやく泣き止んだ所で「一体何があったのか?」って、お巡りさんに聞かれました。

 私が勇気を振り絞って、学校で肌の色の違いからイジメに遭っている事、今までずっと我慢していたことを打ち明けました。


 そしたらお巡りさんが「明日一緒に学校に行こう!」って言いだしたんです。

 私は幼心に、このお巡りさんは何をする気なんだろう? って思いましたが、とにかくその時のお巡りさんの目が、ものすごい熱い目だったんですよ。燃えている目という表現の方がしっくりくるかもしれないなぁ……。


 で、私はお巡りさんの熱意にすっかり気圧けおされてしまって、思わず「うん」って約束をしてしまったんですよね。

 次の日、憂鬱な気持ちでしたが昨日お巡りさんと約束をしてしまったので、仕方なく交番に寄りましたら、お巡りさんがピッタリ横について小学校まで同伴してくれたんです。

 学校に着いたところで、私はそこでお巡りさんが帰るのかと思ったら、違ったんですよ。お巡りさんは私と一緒に学校の中まで入って、まず職員室に行ったんですよ。職員室はちょっとした騒ぎになりましたね。なにせいきなり児童と警察官が一緒に職員室に入って来たんですから、教員たちは一体何事だ!? って感じで騒いでました。

 そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけた校長先生まで登場してきて、これは一体何の騒ぎですか? ってことで、お巡りさんが私のイジメの事を熱心に校長先生に訴えかけてくれたんです。

 それで、お巡りさんがあまりに熱心に話すもんですから、校長先生もすっかり折れてしまい、緊急の全校集会が開かれることになりました。

 私は全校児童と全教職員が集まった体育館の壇上で、お巡りさんと一緒に立っていました。

 そこでお巡りさんがマイクに向かって大きな声で「この子、本田省吾くんをイジメる事はこの俺が許さない!」って話したんですよ。その迫力に、それまでざわついていた体育館が一瞬でシーンと静まり返りましたね。

 その一件以来、私に対するイジメはピタリと収まりました。


 警察は民事みんじ不介入ふかいにゅうが原則なので、今になって考えると随分と破天荒はてんこうな警察官だなぁって思いますけどね。でも当時の幼い私にとって、あのお巡りさんの一連の行動はとてもカッコよく見えました。僕もあんなかっこいいヒーローになりたい! ってそう思いました。


 それから少しして、私は下校途中に交番に立ち寄って、お巡りさんに助けてくれたことのお礼を言いました。

 そして意を決してお巡りさんに「僕も警察官になって、お巡りさんみたいなヒーローになりたい! 僕でもヒーローになれるかな?」って聞いたんです。


 そしたらお巡りさんは顔に皺を寄せるほどに笑って、こう言いました。

「なれるさ。痛みを知っている君なら必ずヒーローになれる!」って。

 それ以来、ずーっと警察官には憧れを抱いていました」


「へぇ……。そんな壮絶な体験があったんですね。……さて、最後に警察官を目指す若者へ、本田さんから何かメッセージをお願いします」


「え? メッセージ……ですか? いやぁ、そういうの考えた事がないからなぁ……」


「胸に響くものとか、変に名言ぽく無くていいんですよ。本田さんらしい気取らない、ちょっとしたメッセージで結構です」


「そうですねぇ……。先ほどもお話しましたが、警察官と言う仕事は、カッコイイだとか、憧れだけで勤まる仕事ではありません。華やかな仕事とはかけ離れた泥臭い仕事も多いですし、酔っ払いや、交通違反を犯した人、事故の加害者や被害者、その他通りすがりの一般市民……、イロイロな人と関わる仕事です。

 感謝の言葉やねぎらいの言葉を頂く事も多いですが、その反面、苦言や苦情……、そして罵詈雑言ばりぞうごんを浴びる事も多いのです。

 さらにカンカン照りの陽射しの下、土砂降りの雨の中、凍てつく冬の吹雪の中、そして朝から真夜中まで、何時如何いついかなる時でも出動しなければならないのが警察官です。

 でも私たち警察官の仕事があるからこそ、市民が笑顔で毎日生活できるのだと、そう思うとこれほどやりがいのある仕事はありません。

 北海道の平和を守るために、一緒に活躍してくれるヒーローを待っています」


「いやー……、第一線で活躍している現役警察官の本田さんならではのメッセージですね。とても素晴らしい一言でした。

 それではインタビューはこれで終わりにしたいと思います。

 次は写真を何枚か撮影させていただきたいのですが……」


 インタビューなんて引き受けてしまって、上手いこと話せるだろうか? そう思ったものの、インタビュアーの入江が上手に話を引き出してくれたおかげで、思ったよりも自分の想いなどを話すことが出来たのではないかと本田は思った。

 気が付くと両の手のひらや背中、それに腋など、全身にじんわりと汗をかいているのに気が付いた。でもそれは決して不快な汗ではなく、どこか心地よい汗であった。


 その後、入江による写真撮影も無事に終わり、丁度昼時になっていた為、本田は先ほど南城と約束した二階にある食堂へと向かった。

 食堂の入口の食券の券売機の横には先ほどと同じ制服姿の南城が手持ち無沙汰ぶさたに立っていて、手を後ろに組んで下を向いていた。


「おーい、南城! 待った?」


 本田に呼びかけられた南城が笑顔でこちらに顔を向けた。


「ううん、あたしも五分前くらいに来たばかりだから、そんなに待ってないよ」


「そっか、そりゃよかった。さて……、本部に来るのは久しぶりなんだけど、何食おうかなぁ……。南城のおススメは何?」


「ここは何食べても大体美味しいよ。なんてったって、本部の職員が朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯と毎日三食食べに来るからね」

 民間企業の社員食堂と警察本部の職員向けの食堂、その一番の違いは朝・昼・夜と三食を提供している事だろう。

 流石に深夜の夜食までは提供していないが、24時間365日休むことなく稼働している警察本部、そこにある職員向けの食堂は朝から晩まで、そして土日も休まずに食事を提供しているのだ。

 南城の話では主に外部からの来訪者向けに18階には『ほくと』という喫茶コーナーがあり、こちらでも食事はできるのだが営業しているのは昼の時間帯だけだそうだ。


 南城の言葉を信じた本田は券売機に千円札を投入し『田舎カレー大盛り』のボタンを押した。本部職員が持つプリペイドカードと現金では50円ほど値段が違うのだが、それでも大盛りのカレーが300円とは妻子持ちの本田にとってはありがたい価格だった。

 本田が食券を買った後、南城が券売機にプリペイドカードを挿入し、『店長おすすめセット』のボタンを押した。


「ねえ、店長おすすめセットって何?」

 そう尋ねた本田に、南城が券売機横のショーウインドウを指さし「あれ」と言った。

 ショーウィンドウの中には、食品サンプルではなくラップをかけられた実物の豚生姜焼き定食が展示され、その下には『本日の店長おすすめセット 豚生姜焼き、漬物、味噌汁、ごはん(白米、わかめご飯、どちらか)』と手書きされたポップが添えられていた。


「あー、店長おすすめセット美味そうだな……」


 本田が思わずそう漏らすと、南城は「田舎カレーも美味しいよ。結構みんなに人気があるんだから。さ、行こう」と言い。食堂のドアを開け中に入って行った。彼女に続いて本田も食堂の中に入った。

 道警本部に勤務している職員向けの食堂だけあり、そこは普通の食堂よりもはるかに広い空間が広がっていた。


 既に料理受け取りのカウンターには十数人の列が出来ており、食券を差し出して代わりに料理を受け取る様が、まるで工場の流れ作業のように見えた。

 パステルグリーンのプラスチックのトレイを手に取り、2人は列の最後尾に並んだ。

 流れ作業で料理を手渡している事もあり、それほど待たずに順番が回って来た。

 まず本田の前に居る南城が『店長おすすめセット』の食券を差し出すと、カウンターの中に居る調理員の服装をした中年女性がトレイの上に豚生姜焼きと、付け合わせのキャベツの千切り、山形にカットされた2つのトマトが乗った皿と、青いプラスチックの札を置いた。

 南城が前に進むと、次に待ち構えていた調理員の中年女性が青い札を見て漬物の小鉢をトレイの上に乗せた。

 どうやら青い札は定食を示す目印らしい。


 次に順番が回って来た本田は南城がそうしたように、調理員の女性に『田舎カレー大盛り』の食券を手渡した。すぐに楕円形の白磁のカレー皿に山と盛られたカレーライスが出てきて、本田のトレイに乗せられた。

 今となってはあまり見かけることのない黄色の色合いが強いカレーには、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、豚肉などのオーソドックスな具材が大ぶりにカットされてゴロっと入っていて、それは田舎のカレーと言うよりも小学校の給食のカレーを彷彿とさせるビジュアルだった。

 最近流行りのスパイスカレーなどと違い、スパイスの香りが強く自己主張をするタイプのカレーではないが、その香りはどこか懐かしく、それでいて嗅いだ者にハッキリと「カレーだ!」と知覚させる芳香が本田の鼻腔をくすぐった。


 南城の方を見ると、既に彼女のトレイの上にはメインディッシュの豚生姜焼きの皿、漬物の小鉢、味噌汁の椀が乗せられていて、しゃもじを持った調理員の中年女性の前で「わかめご飯!」と注文をしているところであった。

 なるほど、これは十数人どころか数十人の列でも効率よく捌ける。こういう職員食堂のノウハウと言うものが長年蓄積されて行った結果なのだろう。


 南城は湯気の立つ炊き立てのわかめご飯が入った茶碗を受け取りトレイに乗せると、料理受け取り口の最後にある調味料が置かれた一角で立ち止まり、業務用の中華ドレッシングのペットボトルを手に取り、千切りのキャベツにかけた。

 本田は大盛りのカレー皿が乗ったトレイを両手で持ち、南城の元に歩いて行った。


「何処に座ろうか?」


 本田の問いかけに、背の低い南城は背伸びをしながらキョロキョロと周囲を見回し「あそこ! あそこの窓際の席に座ろうよ!」と言った。


 北海道警察の女性警察官の旧採用基準は身長155cm以上、体重45kg以上なのだが南城はその基準ギリギリであり、警察学校では事あるごとに「小柄な自分が警察官になれたのは奇跡だ」と言って喜んでいた。

 無論成長期などはとっくに過ぎているので、あれから背が伸びているわけでもないのだが、警察官として場数を踏み、今ではすっかり一人前となった彼女は以前よりも大きく見えた。


 窓際の席に着いた2人はそれぞれの料理を食べながら、警察学校時代の昔話、同期の動向、お互いの仕事など様々な話に花を咲かせた。

 特に同期の動向については互いに身を乗り出すほどであった。

 厳しい警察学校で生活を共にし、卒業後はそれぞれ第一線へと散っていった同期だが、卒業して10年以上も経つとなると、不幸にも職務中に殉職をした者、人知れず警察を去っていった者、現場でリーダーとして活躍する者、妻子を儲け幸せな家庭を築くもの……、その動向は様々であった。


「同期に会うとさ、必ずジェームスの話題になるよ! あいつ活躍してるんだなって」


 南城はそう言うと味噌汁の椀に口をつけた。

 スプーンでジャガイモをすくった本田が応じる。


「そんなに注目されてんの? 俺なんて極々平凡な白バイ隊員だよ」


「昔ほど頻繁じゃないけど、今でもちょくちょくテレビや新聞に出てんじゃんジェームス。あたしたちの同期の中では注目の的だよ」


「凄腕白バイ隊員とか、そう言うのでテレビとかに出るんならいいんだけどな。

 ……要は今でも黒人警察官が珍しいから面白いネタとして扱われているだけさ」


 そう言って本田はスプーンのジャガイモを口へ運んだ。


「本田くん、今でもやっぱり自分が黒人だって事、どこか後ろめたく思ってるんでしょ?

 昔からナイーブだもんなぁキミは」


 南城は箸を置いてそう言うと、本田の目をじっと見つめた。


「よせやい、ナイーブなんてガラじゃないよ、俺は」

 口ではそう言って強がったものの、南城に痛いところを付かれて、本田は自分の内面の動揺をしっかりと自覚した。


「本田くんのそういう繊細で真面目なところ。決して短所ではないと思うよ。

 警察官には弱者に寄り添う資質ってのも重要な要素だと思うの。

 そういう意味では本田くん、本当に警察官向きだよ。

 世間の偏見の目なんて放っておけばいいよ。私たち同期が誰よりも本田くの事、応援してるからさ」


 本田は胸の奥が熱くなっていくのを感じた。


「ハハハ……。南城巡査部長殿に、警察官としてのお墨付きを頂けるとは……、本職はとても光栄であります」


 本田はそう言うと、背筋を伸ばして南城に向かって敬礼をした。

 南城も背筋をピンと伸ばし敬礼で応じた。


 本田と南城は互いの顔を見ながら笑い出してしまった。




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