同類

あべせい

同類



「あなた、ナンですか!」

「エッ!?」

 玄関ドアを開けると、見知らぬ女性が立っている。

 男は、表札を確かめる。

「ごめんなさい。隣と間違えました」

 男はすぐにドアを閉じるが、目の奥に半裸の若い女性の後ろ姿が焼きついている。

 自分の家は隣だ。同じようなドアで、つい間違えた。しかし、隣家のこのドアは施錠していなかった。ひとり暮らしのおれも、滅多にカギはかけない。盗まれるものがないからだ。

 そういえば、昨日、隣に新しく転居してきた住人がいた。運送屋が出入りして、騒がしかった。女性が施錠していなかったのは、慣れないドアのせいかもしれない。

 翌朝、男は、出勤しようとして玄関ドアを開けた。

 と、見慣れない美女が立っている。

「ごめんください。昨日は失礼いたしました。昨日、お隣に越してきた鹿山です。よろしくお願いします」

 と言って、一礼する。

「ご丁寧に……」

「これからご出勤ですか?」

「はい」

「わたしも。駅まで、ご一緒してよろしいでしょうか。このマンション周辺のこと、いろいろ教えていただきたくて……」

 2人は最寄駅までの10数分の道のりを並んで歩いていく。

 男は、奈良哲司(ならてつじ)、32才、女は鹿山曜子(かやまようこ)33才。2人は歩きながら、互いに名前と会社員であることを名乗りあった。

 哲司は駅前商店街に並ぶ店の特徴などを話した。もっとも、特徴といっても、哲司が利用する店は多くない。駅の真ん前にある居酒屋と、駅から数分の拉麺屋とコンビニくらいだ。


 52戸が入居する7階建て中古マンションの5階に、年の近い独身男女がドアを接して暮らしている。

 哲司は、結婚暦のない独り者。曜子は、前の夫と離別して3ヶ月の独り者。

 翌日。

 哲司は、曜子と一緒に出勤したくて、これまでより40分早起きして曜子の出勤時刻に合わせた。

 哲司はマンションの玄関で8時から曜子を待った。しかし、現れない。

 哲司は待ち続けた。哲司のふだんの出勤までは、まだ余裕がある。

 しかし、30分待っても、曜子は現れない。曜子は事情があって、早出したのだ。そう考えざるをえなかった。

 約束したわけではない。しかし、前日最寄り駅まで一緒に歩いたとき、陽子は改札で、

「わたし、いつもおともだちと一緒ですので……」

 と言い、哲司と同じ車両に乗ることを避けた。

 あれが、「これでおしまい」という合図だったのだろうか。たった一度きりの、同伴通勤……。


 その日の夜。

 哲司は帰宅途中の定食屋で夕食をすませ、午後8時過ぎに帰宅した。

 廊下に面した隣の窓を見ると、明かりが漏れている。

 曜子の顔が見たい。何か、訪ねる口実はないか。

 哲司は隣家どころか、同じマンションの住人の家を訪ねたことがなかった。親しい住人がいないのだ。入居して1年足らず。うまい口実など思いつくわけがない。

 哲司は、曜子の家の明かりが漏れる窓のそばで考えあぐねた末、前回と同じ手を使うかと考え、曜子の玄関ドアのノブに手をかけた。

 そのときだった。

「あなた、ナンですか!」

「エッ!?」

 一昨日と、まるで状況は同じだ。ただ、前回は、ドアを開けた直後だったが、今回はドアを開ける直前、背後から叫ばれた。

 哲司は開けかけたドアをすぐに閉じて振り返った。

 と、ワンピース姿の女性が哲司を睨みつけている。曜子に似ているが、彼女ではない……。確信はもてないが。

 哲司は、

「失礼しました。間違えました」

 と言い、慌てて隣の自分の家に入った。

 哲司は、玄関ドアを閉めるまで、女の視線が背中に張り付いているのを感じた。

 女性は化粧で変わると言うが、あれが同じ曜子なのか? 哲司には信じられない。

 昨日の朝、初めて哲司の前に現れた曜子は、身震いするほどの美形だった。

 いま見た女性は、化粧を塗りたくっているだけで、男を引き付ける魅力はかけらほどもない。

 もう一つの疑問は、前回と同様、玄関ドアが施錠されていなかった点だ。ドアノブが回ったから、それは確かだ。

 昨日、駅まで一緒に歩いたとき、曜子は言った。

「これから、ドアは忘れずにロックします」

 と。

 哲司は自宅に戻ると、すぐにシャワーを浴びた。

 熱いシャワーを全身に浴びながら、

「あの女は何者だ……」 

 と、何度もつぶやいた。

 隣には、曜子とは別にもうひとり女がいるのか。そう考えると、納得できる……。いや、前にみたことがある、あの女……。しかし、哲司は人の顔を覚えるのが不得手だった。

 哲司はその夜から、隣家のようすに事細かく注意するようにした。

 物音だけではない、だれがいつ、出入りしたのか。

 このため、哲司は翌日から、勤務が終わるとまっすぐ自宅に帰り、食事は自炊を心がけた。

 勤務のない土日祝日は、自宅に引きこもり、隣家の気配に神経を集中させる。

 マンションは7階建て52室あるが、間取りが2LDKと3LDKのためか、いまのところ単身者は哲司と隣家だけのようだ。哲司は、例え結婚はしなくても、女性と同居できるようにと選んだいきさつがある。

 哲司が自宅に帰り着くのは午後6:10前後。それからシャワーを浴びた後、隣を監視する。

 監視初日の木曜、曜子の帰宅は午後8:12。

 ドアの開け閉めの音がしたきり、あとは何も聞こえない。

 このマンションは築20年だが、境の壁や床が厚く、「隣の生活音に悩まされることはありません」というのが、入居の際不動産屋の自慢だった。

 哲司は想像を巡らせる。

 隣人はリビングに入り、テレビをつける。着替えをして……浴室、この時間に入浴して……。そのときドアを開けた侵入者が、おれなのか……

 哲司は、あのとき隣人が叫んだ心理状態が理解できるような気がした。

 あのとき、乱暴なことばを発した隣人は、果たして一度一緒に通勤した「曜子」なのか。

 午前零時過ぎ。

 ベッドで眠っていた哲司は、ふと目が醒めた。

 ベッドが接している西側の壁、壁の向こうはもう一人の隣人の部屋になる。曜子がいるのは、反対の東隣の部屋。

 西の壁から物音……ささやき……が聞こえる。

 そういえば、西隣の住人については、ほとんど情報がない。

 哲司は、1年前に入居してからこれまでの、西の隣人とのかかわりについて考えてみた。

 西隣も30代の女性。時折り男性が訪ねてきている。2人の関係はわからないが、半同棲と呼べる間柄のようだ。

 廊下やエレベータホールですれ違うことはあるが、女性は哲司には全く反応しない。隣人という認識がないようだ。

 隣人でなくても、同じマンションの住人なのだから、挨拶や会釈はあってもおかしくないと哲司は思うが、彼女にはそういう感覚はないようだ。

 見ていると、西隣は哲司以外の住人についても、同じ対応をしている。

 哲司はそれ以来、無関心でいようと考え、好奇心が起きても素知らぬ風を心がけていた。

 このため、西の隣人についての情報は乏しい。仕事、正確な年齢はもちろん、名前すら知らない。西の隣人は、表札は勿論、マンション玄関横手の集合郵便受けにも名札を出していない。

 一度こんなことがあった。

 西隣の女性とエレベータ内で初めて一緒になったときだ。

 午後10時を過ぎていただろう。2人きりだ。

哲司は、勤務後職場の同僚たちと酒を飲み、少し酔いが回っていた。

 帰ってくると、エレベータ前に彼女がいた。デパートやスーパーのエレベータではない。マンションのエレベータだ。しかし、哲司には、同じマンションの住人だという確信はなかった。

 住人を訪ねてきた外部の人間とも考えられたが、夜間だから、その可能性は低い……。

 エレベータの扉が開く。哲司は彼女の後から中へ。

 ところが、彼女はエレベータ内の後方の隅に体を寄せていて、利用階数のボタンを押そうとしない。警戒しているのか。鈍感な哲司にもそれはわかる。

 そのとき女性は20代後半に見えた。スタイルはいい。マスクは哲司の好みではないが……。

 哲司は職場でも、もてない男だ。どう見られているかは、手に取るようにわかる。

 哲司は、階数表示のボタン「5」を押した。と、後ろの彼女にかすかな反応があった。しかし、体の動きはない。

 哲司は少し怒りが湧き、

「5階でよろしいですか?」

 と言った。表面上は親切心だ。

 彼女は無言のまま、哲司を迂回するようにして手を伸ばし、「6」を押した。

 そのとき、彼女の首筋から、いい香りがした。

 この女は同じ5階の住人だ。部屋はわからないが、さきほどの気配は本心の顕れに違いない。

 エレベータが5階に到着し、哲司はすぐに降りる。女性は、後方の壁に張り付くようにしたまま動かない。

 哲司はエレベータの外扉が閉まり上昇するのを確かめてから、西端の外階段の陰に体をしのばせた。エレベータの脇に内階段もあるが、彼女が使って降りてくる可能性がある。

 数分後。

 エレベータの扉が開く音に続いて、ヒールの靴音……エレベータホールから外階段方向には部屋は一つきり。東方向には、哲司の部屋を含め、7つのドアが並ぶ。そして、靴音は廊下を東に向かい、哲司の西隣の部屋に入った。

 西隣から、時折男の声が聞こえることがある。しかし、夜遅いことがほとんどで、日常的には同居してはいないようすだ。


 西隣の壁から伝わる物音を聞きながら、哲司は考える。

 いまは両隣から女性に挟まれた環境にいる。しかし、刺激がない。刺激が欲しい。だが、2人からは全く相手にされていない。

 東隣の女性とは一度、一緒に通勤はしたが、それ以外は、全く交流がない。

 誘えばいいのかも知れないが、断られるのは目に見えている。これまで、若い女性を誘ったことはあるが、応えてくれたのはたったひとり。もう、3年も前のことだが……。

 職場の沙里だ。彼女はその後会社をやめ、いまは主婦におさまっていると聞いた。

 沙里とのデートは、一度きり。

 彼女の希望で、哲司は繁華街の片隅にある小さな遊園地に行った。

 ゴンドラが6基あるだけの小さな観覧車に乗った。

 小さなゴンドラのなかで、互いに揃えた両ヒザを、平行に行き違いさせ、向かい合わせに腰かけたあのときが、哲司の幸福の絶頂だった。

「沙里さんは、観覧車がお好きですか?」

 と、哲司はバカなことを尋ねた。

「ええ……こどものときから、この観覧車が気になっていて」

 彼女は両親に小さい頃連れて来られたことがあり、そのときは怖くて乗れなかったと話した。

 最高地点は10メートルにもならないが、揺れが大きかった。

 遊園地を出たあと、2人は近くのラーメン屋に入った。

 沙里が、「ラーメンがいい」と言ったからだが、そこで事件が起きた。

 初めての店だった。外見は、ふつうのラーメン屋。ただ、店舗が古びていて、全体に汚らしかった。

「ねえ、哲司さん……」

 沙里が目で、目の前のラーメン丼を示す。

 沙里の箸が小さなゴキブリを摘みあげている。

「オヤジッ! こいつは何だ!」

 哲司は思わず、大声をあげていた。

 哲司自身も、外食先で髪の毛や虫が混入した料理を出された経験が一度ならずあった。

「なんですか?」

 オープンキッチンのカウンター越しに、店主と思われる中年男が、汗がしたたる顔を覗かせた。

「取り替えます」

 店主は、沙里が食べている丼に手を伸ばした。

「待てッ!」

 店主の手がビクッと止まる。

「新しいのを作ってからにしろよ」

 哲司は料理屋でバイトした経験から、異物だけを取り除いて、同じ丼を出されることを恐れた。

「帰りましょ」

 沙里は立ち上がっていた。

 哲司は、湧き上がっている怒りを断ち切られた。

 そのとき、沙里を見て、彼女の視線ともろにぶつかった。

 沙里は、唇を横に結び、哀しげな表情をしている。

 哲司が、店主に、「帰るから、もういい」と言おうとすると、店主が、

「お勘定……」

 ささやくように言った。

 沙里はすでに店の外だ。

「こんなものから金をとろうというのかッ!」

 哲司は、精一杯の悪態をついたつもりだったが、

「お客さんのほうには、虫は入っていなかったですよね」

 店主は平然と言ってのけた。

「哲司さん!」

 店のガラスの引き戸が開き、沙里が険しい顔付きで哲司を見つめている。

 哲司は言い返すことばが見つからず、ほかの客の好奇の視線を浴びたまま、店を出た。

 店主の声は追ってこなかった。

 哲司は沙里の横について歩いた。2人とも無言だった。

 数分後、2人は最寄り駅が見えるところに出た。

 沙里は立ち止まり、哲司を見た。

「帰りましょう。わたしたち、合わないみたい。じゃ……」

 沙里はそう言うと、青信号に変わったばかりの交差点を、駅に向かって小走りに駆けて行った。

 それきり。哲司は沙里と話ができなくなった。

 その後も沙里は、職場で哲司とすれ違っても、視線を合わせなかった。

 翌々月、沙里は退職した。

 哲司の恋はそれだけだ。恋と呼べるものとはほど遠いが、哲司はその思い出を大切にしている。

 

 スーパー、コンビニ、ラーメン店、哲司の好みの女性は、そこかしこにいる。しかし、女性がどの店の店員でも、話すきっかけがない。

 もっと押せッ! そう思う気持ちはあっても、しっぺ返しの拒否のことばが怖くて、手が出せない。

 東隣の女性が、通勤時、一度きりとはいえ、つきあってくれたのは稀有のことだ。

 しかし、それ以降は、廊下ですれ違うこともない。生活リズムが異なるのだろう。一度くらい、どこかで見かけてもよさそうなのに……。

 休日。

 女性の訪問を受けた。車のセールスだ。

「こんど近くにオープンします。ご挨拶におうかがいしました」

 インターホンを通じて聞こえる若い女性の声に、哲司は警戒心もなく即座にドアを開けた。

「車は以前乗っていたけれど、手入れが面倒で売ったンです」

 女性は20代後半。哲司好みの美形だった。

 いきなり言ったことばに、女性はすぐに反応した。

 上客と見たのだろう。女性は、ドアを開けたまま、一歩なかに入った。

 哲司は、半畳ほどの玄関スペースで、若い女性と顔をつきあわせる形になった。

 女性はすぐに名刺を出して名乗ったあと、

「わたくしどもは、マイカーリースをご提案しております。月々1万円からご利用していただけます……」

 哲司は、以前リースの利用システムを調べたことがあり、女性の話には関心が湧かない。

 女性の話を遮り、

「すいません。ぼくは、車には乗らないことに決めています」

「免許はお持ちなンでしょう?」

「免許もなくしました。失礼します」

 哲司は、免許はないとウソをついて、女性の後ろに手を伸ばし、女性の体を押し出すように、強引にドアを閉じた。

「なにをするンですか! 痛いじゃないッ。なんという男なの! 警察に訴えてやるからッ!」

 閉じたドアの向こうから、女性の悪態が聞こえる。

 哲司はやりすぎたと思ったが、もう仕方ない。

 最初は、好みの女性の出現に、淡い妄想を描いたが、拒絶されるに決まっている。

 自分の妄想が情けなくなり、すぐに現実に気が付いた。東隣の鹿山曜子の場合と同じになる。

 あの一度きりはナゾだが、彼女に好かれたわけではない。おれのような男は、出会い系サイトかカップルの仲介業者を頼る以外、女性と交際する手だてはないのだ。

 哲司は、哀しい現実を受け入れることにした。

 瞬く間に、数ヵ月がたった。

 哲司の仕事は、運送会社某支店の総務。大きな支店で、総務には10数名の課員がいる。

 そのうち女性は6名。独身は3名だ。3名はいずれも、哲司より若い。

 最も年齢が哲司に近いのは、朝の出勤時、会社の最寄り駅で一緒になる機会が多い桑原兼子だ。

 その兼子が、この日の朝、後ろから哲司に駆け寄って来た。

「奈良さん、おはよう」

「おはよう」

 この程度の会話は、以前もあった。しかし、彼女のほうから近寄ってきたのは初めてだ。

「寒くなってきたわね」

「そうですね」

 もう11月だから、朝晩は冷える。

「そうそう。この前、偶然、沙里ちゃんに会ったンだけど……」

 沙里とのデートは、3年も前の話だが、沙里と聞いてすぐに、観覧車と沙里が哲司の心のなかで結びついた。

「彼女、元気でしたか?」

 もうどうでもいいことだが、沙里が兼子にどんな話をしたか、知りたい。哲司は少し不安になり、予防線を張る気持ちになった。

「それが沙里、別れたンだって……」

 哲司は、予想もしない話に唖然となった。しかし、努めて平静を装った。

「沙里は奈良さんのこと、聞いてきたわ」

「どう、答えたのですか?」

 哲司は急にドキドキした。久しぶりの興奮だ。

「結婚しているのか、って。まだ、でしょ?」

 勿論だ。おれのような男を相手にする女がいるものか。哲司は、反応をうかがうように覗きこんでくる兼子に、底意地の悪さを感じた。

「まだだけれど。この先もしないかもしれない」

「またまたァ。そんな弱気でどうするの。沙里が会いたがっていたわよ。どうする?」

 それが、駆け寄ってきた理由なのか。哲司は、兼子の顔をまじまじと見た。

「ぼくは、かまわないけれど……」

「またまた、気取っちゃって。そんなだから、女の子が寄ってこないのよ」

 勝手だろうがッ。これがおれの生き方だ。哲司はモテない理由をつきつけられ、小ばかにした兼子の笑顔に唾を吐きつけたくなった。

「じゃいいのね。3人で会える段取りをつけるから」

 職場までの会話は、それで終わった。

 しかし、哲司は気になっていた。2人、ではなくて、3人で、と兼子は言った。3人で会うのはつまらない。兼子がそばにいて、なにが楽しいッ。哲司は、降って湧いたデートが急につまらなくなった。


 兼子が指定した待ち合わせ場所は、3年前、哲司が沙里とデートした小さな遊園地だった。

 そのとき沙里とは最寄りの駅で待ち合わせた。

 今回は、遊園地のなか。「狭いから、見つけられる」と言われ、場所を細かく決めなかった。

 哲司は、指定時刻の40分前に園内に入った。

 週末の土曜らしく、家族連れでそこそこの混みようだ。

 哲司は何も考えず、屋外の売店コーナーに椅子を見つけ、アイスクリームを食べることにした。

 そのとき、彼に背中を向けている2人連れの女性が気になった。

 2人連れのテーブルは、哲司のテーブルのすぐそばだ。2人は、哲司に気づいていない。

「ヨウコは、お人よしなの。そんな男にかまっていたら、知らないうちにおばあちゃんになるから」

「チコは何も知らないから、そんなこと言ってられるの。わたし、カレにはたくさんお金を使っているのよ」

「ほら、やっぱりね。騙されているの。こんど、わたしに会わせなさい。わたしが化けの皮をはがしてやるから」

「チコに紹介したら、とられる。あなたはひとのもの、いつでも狙っているでしょ」

「ずいぶんなこと言うわね。わたしがいつ、あなたのものに手を出したッ」

「じゃ、言ってあげる。わたしの隣の男……」

「ああ、あいつ。あの男はお金を持っていたっけ?」

「少なくても、数百万は貯めている。運送会社に勤めていて、あの暮らしぶりだと、残るわよ」

「ホント! じゃ、わたし、アタックするか。ああいうのは、チョロいから」

「わたし、一度朝の通勤で一緒に駅まで歩いたって言ったでしょ」

「あァ」

「でも、そのあと全然誘って来ないの。あなたが余計なことをしたからよ。きっと」

「わたしが? ナニ言ってンの。わたしは、あのテは気味が悪いから、近寄らないようにしているのよ。手を握られるのも、ごめんだから」

「本当に! あなた、何もしなかった?」

「当たり前よ。あなたがコナをかけているのも知らなかった。あなたの部屋のシャワーを借りたとき、ハダカを見られてから、あの男を見るたび、気持ちが悪くなる……」

「あなた、わざと見せたンじゃないの? 学生時代から、その手で何人もやったじゃない」

「女の武器は使わなくちゃ。あと、何年も使えないから。ヨウコも、うまくやりなさい」

「よし、きょうは、その武器を使って、夕食代、浮かせてみるか。ハハハハハ……」

 哲司は椅子から立ち上がった。

 と、その物音で2人の女性がチラッと振り返った。

 しかし、哲司とは気がつかないのか、反応しない。

 哲司は、時計を見た。約束の時刻まで20分だ。

 哲司は遊園地の出入り口に向かった。

 もう、どうでもいい。預金通帳には2千万円以上の金額がある。無駄な買い物をしないで、ただ生きてきた結果にすぎない。旅行やコレクションなど金のかかる趣味もない。

 哲司は、生き方がわからなくなっている。

「あらッ、奈良さん」

 哲司は、すれ違った女性から声をかけられた。

 兼子だった。

「沙里は来れない、って。さっき電話があって。なんだか、親戚で不幸があったらしいの。奈良さんによろしく、って」

「そうですか」

 哲司は、兼子にも沙里にも関心がなくなっていた。

「行きましょう。わたし、一度、ここの観覧車に乗りたかったの……」

 兼子は楽しそうだ。哲司の返事を待たずに、ゆっくり回転する観覧車のほうに駆けていく。

 どうするか。数分前までは帰るつもりでいた哲司は、兼子の太り気味の後ろ姿を見て、何が楽しいのだろうか、と考えた。

 観覧車の前には数組の列があり、回転速度に合わせて順次乗り降りが行われている。数分後、兼子の先導で哲司はゴンドラのなかに入った。

 一周、約6分。哲司と兼子は、曜子のときのように、互いに揃えた膝を行き違いにさせて、向き合った。

「あなた、沙里のときもこんな感じだった?」

「まァ……」

 哲司に、ラーメン屋での不愉快な記憶が蘇った。

「このゴンドラ、ときどき止まる、って知っていた?」

「エッ、知らないけれど……」

「稀によ。だけど、それって、よほど運が悪い、ってことよね」

「そうですね」

 ゴンドラがゆっくりと上昇を始める。

 外の景色が徐々に下に移っていく。

「楽しくないみたい。奈良さん」

「エッ、そんなことないですが……」

 哲司は、この空気から早く、逃れたくなった。

「沙里が来なかったからでしょ」

 返事がしたくない問いかけだ。

 意地悪そうに覗き込ンでくる兼子の視線が、哲司の気持ちを逆撫でした。

「親戚の不幸だったら、仕方ないですよ」

「それがウソだとしたら?」

「エッ……」

「あなた、『エッ』が多いの。だから、女性に好かれないの。わかってる?」

 エッ、と言いかけて、哲司はそのことばを飲み込んだ。

「沙里は不幸がなくても、来ないわ」

 エーッ! 哲司は、びっくりして、兼子を見た。

 兼子は、横を向き、寂しげな顔をしている。いつもこういう顔なら、好きになれるのに。哲司は一瞬思った。

「どういうことですか」

「そういうこと。最初から誘っていないもの。第一、わたしは沙里の連絡先も知らない。携帯、変えたみたいだし……」

「離婚したのも、ウソですか」

「それは、去年、沙里から電話があったから、本当のこと……」

 2人のゴンドラは、もうすぐこの観覧車の頂点に達する。

 哲司は、下を見た。すると、観覧車を見上げている2人の女性と視線がぶつかった。

 さきほど哲司の噂話をしていた、マンションの両隣の女だ。

 哲司のほうを指差し、なにやら話している。距離にして10メートルに満たないが、話の内容はわからない。

 と、そのとき、突然、大きな機械音とともに、ゴンドラが大きく揺れ、停止した。

「ヤーダッ!、奈良さん、どういうことよ!」

「運が悪いンでしょ。おれたち」

「最低、30分は出られないのよ。ネットに出ていたわ」

 そうか。これは不運だ。好きでもない女とこんなところで過ごさなければならない。

 哲司は下の景色を見て、両隣の女が、女性を連れている哲司を見つけて指差し、からかっているように見えた。

 沙里なら見栄えはいいが、兼子はイマイチだ。職場でも、兼子は男連中の噂にはならない。

「覚悟を決めるか。想定外だけれど……」

 そう言うと兼子は一旦ことばを切り、

「奈良さん、これも沙里が言っていたのだけれど、あなたって、貯めこんでいるって、ホント?」

 兼子が、膝小僧を、哲司の太ももの内側にそっと押し付けながら言った。

「それは、よくない噂ですよ。だれにも話したことはないから」

 沙里とは3年以上も前だ。はっきりした記憶はないけれど、体の関係もないのに貯金のことを話しただろうか。哲司は考えた。

「でも、銀行の支店名も噂に出ているし、そこに3千万以上、あるって……」

 3千万円はまだだ。もうすぐだけれど。

「わたしだったら、輸入雑貨を扱うお店をやるけれどなァ……哲司はそういうの嫌い?」

「奈良さん」が、いきなり「哲司」になった。

 呼び捨てにされてうれしい相手ではない。沙里なら、かまわないが……。哲司は無性に沙里が恋しくなった。

「係員は何をしているンですか」

 哲司は兼子の膝小僧を避け、体をひねって下を見ながら言った。

「痛いじゃない。動かないでよッ!」

 兼子が悲鳴に似た声をあげた。

 モーターの音がして、ゴンドラが動き出す。

「よかった」

「そんなに不運でもなかったみたい……」

 それから数分、二人はゴンドラが乗降地点に着くまで無言だった。

 係員が外からゴンドラのドアを開ける。

 哲司は先に出る兼子の後頭部に向かって、

「用事を思い出したので、ここで帰ります」

「エッ……」

 振り返った兼子の顔を見ずに、哲司は出入り口に向かった。

 もう、なにがあっても、兼子の誘いには乗らない。

 哲司はそんな決意をして外に出た。すると、このうえもない解放感に襲われた。

 そのときだった。

「あなた、奈良さんでしょ」

「エ……いや、あなた」

 東隣の曜子だった。黒縁のメガネを掛けているので、気がつかなかった。

「メガネ……」

「わたし、近眼だから。滅多にかけないのだけれど……」

 彼女は目が悪いのだ。さきほど目が合ったときも、哲司とはすぐにわからなかったのだろう。

「わたし、ともだちとはぐれちゃって。出てきちゃった」

「ぼくも、です」

「じゃ、同類のよしみで、これから、お茶しましょうか」

「それはいいですね……」

 この女はおれの預金口座にしか関心がない。しかし、それでもいい。

 哲司はそう考えて、曜子の滑らかな体のラインに目を細めた。

                    (了)




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同類 あべせい @abesei

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