ダイダラボッチ、顰める
永嶋良一
ダイダラボッチ、顰める
JR武蔵野線の東所沢駅の上空には澄み渡る青空があった。朝8時の通勤通学時間だ。駅前は混雑していた。突然、駅前のロータリーに一本の亀裂が入った。亀裂から巨大な両手が出てきた。
次の瞬間、何かが亀裂から飛び出した。宙を舞った。駅前にドンと地響きが鳴って土埃が上がった。巨人の姿があった。筋骨隆々とした真っ赤な身体が空の青に映えた。身長は30mを超えている。裸体だ。腰だけを布で覆っていた。真っ赤な顔に黄色い眼が光っている。髪の毛はない。裸の足が駅前に止めてあったワゴン車をペシャンコに踏みつぶしていた。
巨人の出現に驚いた群衆が逃げ惑った。巨人は逃げる群衆の中に手を差し入れた。手を引き出すと、数人の人間が握られていた。巨人は大きく口を開けた。何本もの鋭い歯が朝日に光った。手を口に持っていって、握った人間をかみ砕いた。群衆から悲鳴が上がった。
俺は茫然とその光景を見つめていた。俺は都内の大学に通っている大学生だ。
巨人は手を振り上げると、東所沢駅のターミナルビルの壁を叩いた。コンクリートの塊が崩れて、群衆の上に落下した。ビルの壁には大きな穴が開いていた。その穴からホームが見えた。ホームで電車を待っている人々が茫然と立ちすくんで、こちらを見ていた。
巨人は東所沢駅の周囲を歩き出した。歩くたびにドウン、ドウンと地面が揺れた。何人かの群衆が足の下敷きになった。道の端に何人かの女性が立っていた。凍りついて動けないのだ。巨人の手が女性たちを覆った。手を上げると一人の女性が握られていた。その女性と俺の眼があった。知らない女性だ。女性の口が「助けて」と動いた。俺は巨人に向けて走った。裸の足のアキレス腱にしがみついた。そして、思い切り噛みついた。
巨人が「ウオー」という咆哮を上げた。女性が道路に落ちる。巨人が腰をかがめて、両手をアキレス腱にまわした。俺は巨人の手に跳ね飛ばされて、道路脇の雑貨店の中に頭から飛び込んだ。女性が道路の向こう側に走っていくのが見えた。無事だったようだ。
次の瞬間、雑貨店の屋根がふっとんだ。巨人が手で屋根を払ったのだ。巨人が中をのぞき込んだ。巨大な黄色い眼が光っている。俺を認めると、巨人の眼に憎悪の光が宿った。いけない。さっきアキレス腱を噛んだのが俺だと分かったようだ。巨人の手が俺に延びてきた。ものすごい圧力が俺に迫った。俺は道路に走り出た。俺の後ろで雑貨店が押しつぶされるのが見えた。道路の端に逃げると、俺は巨人を見上げてつぶやいた。
「あれは一体何だ?」
横で声がした。
「ダイダラボッチよ」
「えっ」
俺が横を見ると、一人の女が立っていた。まだ若い。
「君は?」
「私は
「どうして、そんなものが?」
俺はそれ以上しゃべることができなかった。俺の周囲が暗くなった。ダイダラボッチの足が俺の頭上にあった。あぶない。俺は母地子を突き飛ばした。そして、横に飛んだ。次の瞬間、俺たちのいた場所にダイダラボッチの足が落ちてきた。土煙が上がる。地面に巨大な窪みができた。今度はダイダラボッチの手が横から延びてきた。俺は地面に伏せた。俺の頭のすぐ上をダイダラボッチの手が通り過ぎた。頭上でゴウと風が起こった。思わず俺の身体が浮き上がりそうになった。
ダイダラボッチが道路に駐車してあった車をつかんだ。それを俺に投げつけた。青い車が回転しながら宙を飛んできた。俺の視界一杯に車が大きくなる。俺は前に飛んだ。俺の後ろで爆発が起こった。炎が高く舞い上がった。熱風が俺の背中を焼いた。何かの金属片が俺にぶつかった。俺の身体が激しく回転して、横のバス停の路線表示板に激突した。表示板が大きく曲がった。俺はバス停の根元に崩れ落ちた。母地子が走って来るのが眼の端に映った。俺の身体を母地子が抱えた。
「あなたにダイダラボッチを倒してほしいの」
「お、俺に? 倒すってどうやって?」
「私と一緒に来て」
母地子が俺の手を握った。俺の気が遠くなった。
・・・
気づくと、周りは小石ばかりの荒れ地だった。草木は一本も生えていなかった。地平線の果てまで荒れ地が続いていた。遠くに海が見えていた。見上げると雲が見えた。雲が空一面を覆っていた。雲を通して太陽がかすかに光っていた。風もなかった。静かだ。動くものは何もなかった。しかし、暑かった。夏だろうか?
横を見ると母地子が立っていた。俺は母地子に聞いた。
「ここは、どこ?」
母地子はおかしな答え方をした。
「あなたの時代でいう埼玉県。東所沢」
「東所沢だって。そんなはずはないよ。向こうに海が見えているじゃないか」
「海水温が上がって、陸地が海になったのよ」
「海水温が上がった? いつ、そんなことが?」
「今日は西暦18473年12月6日よ」
「・・・」
「あなたは未来に来たの。ここは未来の武蔵野よ」
「未来の武蔵野?」
俺は混乱した。そんなバカな。俺の知ってる武蔵野がこんな石ころだらけの荒れ地になってるなんて。俺が知ってる武蔵野には街があった、木々や畑があった。そして、何より武蔵野には人の営みがあった。俺は叫んでいた。
「人はどこに行ったんだ? 街はどうなったんだ?」
母地子が悲しそうに答えた。
「人類は今から1万年前に滅んだのよ。大気中の二酸化炭素濃度の上昇が原因でね」
「二酸化炭素? 温室ガス効果か?」
「そう。人類だけじゃなくて、動物も植物もみんな滅んだの。かろうじて微生物だけが生き残っているわ。そして、地球はもう一度再生するための準備に入っているのよ」
そのとき、大きな咆哮が聞こえた。向こうの地平線から巨大なものが現れた。赤い裸体。黄色い眼。ダイダラボッチだ。こちらにゆっくりと歩いてくる。
「ダイダラボッチは生き残ったんだね」
「いえ、ダイダラボッチは地球上の進化で生まれた生物ではないのよ」
「・・・」
「ダイダラボッチは地球が生まれたときから、地球に生存し、地球を修復してきたものなの。地球そのものなのよ」
「地球そのもの?」
「そう。だから、ダイダラボッチは地球がある限り現れるのよ。人類が滅んでもね」
ダイダラボッチが立ち止まった。片手を地面に突っ込むと土をすくった。そして、土を持ったまま地平線の向こうに消えていった。
「ダイダラボッチは何をしているの?」
「もう一度地球を再生するために、地球の修復をしているのよ。いまは、あの向こうの海を埋め立てようとしているわ」
「海を埋め立てる? そんなバカな。あんなやり方じゃあ、ものすごく時間がかかるじゃないか?」
「ダイダラボッチは地球が生み出した変化の手段なのよ。そして、ダイダラボッチは急がない。何千年、何万年をかけて少しずつ地球を変えていくのよ。人類の変化が速すぎたのよ。ダイダラボッチのやり方が、本来、地球が望む変化のスピードなの」
人類の変化が速すぎた! そして、その結果、二酸化炭素濃度が増加して滅んでしまった! 俺は母地子に聞いた。
「俺は、俺は何をしたらいいんだろうか?」
「ダイダラボッチは地球を修復するために、地球が生み出したもの。だけど、地球もミスをするわ」
「ミス?」
「そう。21世紀の東所沢でダイダラボッチが暴れたのは、あれは地球の修復をしようとして、地球がダイダラボッチを生み出したもの。だけど、あれは地球のミスよ。それで、あなたには地球のミスを修復するために、ダイダラボッチを消してもらいたいの」
「ダイダラボッチを? どうやって?」
「この剣をダイダラボッチの身体に刺せば消えるわ」
母地子は剣を俺に渡した。どこに持っていたのだろうか? 疑問は長く続かなかった。俺の気が遠くなった。
・・・
俺は気がついた。東所沢の駅前だ。
眼の前にダイダラボッチの足が下りてきて、歩道を逃げ惑う人を踏みつぶした。ダイダラボッチの手が横に走って、5階建てのビルにぶつかった。ビルの上半分が砕けて飛び散った。コンクリートのかけらが空から降ってきた。あちこちで悲鳴が上がった。
周りを見ると、母地子はいなかった。俺の手には剣があった。俺は剣を持って、ダイダラボッチに向かって走った。ダイダラボッチが俺に気づいた。こちらを向くと、手を握って、俺をめがけて拳を降り下した。俺は拳を横にかわした。拳が車道を打った。ドオンと音が鳴った。止めてあった小型バスが宙に舞った。ダイダラボッチがバスをつかんだ。バスを俺に投げつけた。俺は地面に伏せた。俺の上をバスが飛んでいって、道路脇の洋品店にぶつかった。ショーケースが砕け散った。
俺はあせった。なんとかして、ダイダラボッチの身体に近づかないといけない。だが、近づけない。
ダイダラボッチが地面を蹴った。両足をそろえて俺の頭上に降りてくる。俺は横に転がった。両足が地響きを立てて俺の横に降りた。俺は足に剣を突き立てようとして、剣を突き出した。ダイダラボッチが片足で俺を蹴り上げた。俺の身体が宙に飛んだ。俺はガソリンスタンドのコンクリートの床に落ちた。しまった。この下はガソリンだ。血の気が引いた。万事休すだ!
ダイダラボッチが先ほど砕いたビルの下半分を持った。ビルが1階部分から剥がれた。ダイダラボッチがビルを頭上に大きく掲げた。俺に向けて投げた。
俺はとっさに剣を投げた。空中でビルの下半分と剣が交錯した。ビルの下半分が俺の頭上に迫った。剣が放物線を描いて・・・ダイダラボッチの額に刺さるのが見えた。その瞬間、すべてが消えた。
・・・
俺は東所沢の駅前に立っていた。眼の前には日常の通勤通学の風景があった。ビルは壊れていなかった。ダイダラボッチはいなかった。
すべて修復されたようだ。
俺は歩いて改札を通った。混雑するホームの向こうに母地子の姿が見えた。母地子は俺を見て笑った。そして、消えた。母なる地球で母地子。きっと、母地子も地球だったのだ。俺は電車に乗り込んだ。日常が始まった。
了
ダイダラボッチ、顰める 永嶋良一 @azuki-takuan
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