奇妙な熊

コータ

襲ってくるなにか

 都内でサラリーマンとして働き続けていた俺は、この度三年ぶりくらいに大型連休が貰えることになった。


 週六勤務で深夜まで残業なんか当たり前。そんな毎日だったから、有給を入れて7日間も休みが貰えるなんて、まるで楽園への切符を手に入れたみたいな気分だ。


 しかし、いざ連休がやってくると、特にやりたいことはないし、プランなど考えてもいない。困った俺は、とりあえずしばらくぶりに地元に帰ることにしたんだ。


 新幹線で三時間以上揺られることになったが、普段の暮らしではもっと長い時間椅子に座ってPCと睨めっこしているので、苦痛は全くなかった。同じ景色ばかりを眺めている毎日だったし、久しぶりに見る地元の駅や建物はやけに光って見えたものだ。


 俺の地元はちょっとした山に囲まれてはいるがそこそこ栄えていて、都会でも田舎でもない中途半端な街だ。だが、その中途半端さが今となっては素晴らしいものに感じられるから不思議だった。


 終点で最寄駅に到着して、今度はバスに揺られること二十分。小学校そばのバス停で降りた俺は、のんびりとよく知った道を歩き始める。

 時刻は既に夜九時。もしかしたら親父やおふくろは、もうすぐ寝る時間なのかもしれない。


 俺はもう中年を超えてしばらく経つが、未だに結婚していなかった。そのことについて、両親からは遠回しに催促されることもあったりするが、のらりくらりとかわしていた。


 恋愛で失敗してばかりの人生なのに、結婚なんて考えられないよ。しかし同級生達はほとんど結婚しているし、後輩からも結婚報告は度々もらうことになり、内心では焦っている。仕事でも未だに平社員である俺は、出世街道にもはっきりとした暗雲が立ち込めていた。


 そんな憂鬱なことばかり考えていたところで、ふと帰り道に違和感を覚える。


 車が一台だけ通れるような車道を挟んで、左側に土手が広がり、右側には住宅街が並んでいる。この景色は俺が生まれ育ってからと言うもの、ほとんど変化がなかった。

 外灯の設置感覚は都会よりもずっと広目で、少し遠くになるとよく分からなくなってしまう。


 でも、俺はずっとこの道に慣れ親しんで生きてきたんだ。多分目をつむってもたどり着くんじゃないかな。ずっと歩き続けた先、小さなスーパーの手前に実家がある。


 しかし、歩き続ける俺は変なものが前方にあることに気がついた。黒くて丸い何かだ。これは一体なんなんだろうと近づくほどに、黒い何かは大きくなっていく。


 よくよく見ると、それは動いていた。のっそりと不規則な、蠢いているという表現が正しいのだろうか。近づくほどに不気味さが増してきて、俺はとうとう足を止めた。


 もうちょっとで家に辿り着くのだが、身体中から嫌な汗が吹き出てくる。その黒いなにかはこちらに気がついたようだった。丸っこい全身がすぐに大きくなっていく。どうやら四つ足で歩いているようだ。


 なんだろう。野良犬かな?

 しかし、滅多に犬なんかでないところだし、明らかに全体的な丸さが違う気がした。


 ここで逃げたとしても間に合わなかっただろう。多分十五メートルくらいまで近づいてきたところで、俺はあっと叫びそうになった。


 間違いない。こいつは熊だ。種類はよく分からないが、立ち上がれば俺よりもずっと大きいかもしれない。野生の熊に出会ったのは初めてで、完全に震え上がってしまう。


 どうしてこんな所に熊が? とかいう当然の疑問も、すぐには浮かんでこなかった。恐怖が全身を支配するとともに、腰から崩れ落ちそうになる。


 熊は俺のことを獲物として意識したのだろうか。なんの迷いもなく近づいてくるその姿は、どんな殺人鬼よりも恐ろしく映るに違いない。しかし、背を向けて逃げるのは絶対にダメだと、昔ハンターをしていたという学校の先生に教えてもらったことがある。


 熊っていう生き物は、逃げる奴を追う習性があるらしい。とはいえ、逃げなくてもこの場合殺されてしまうんじゃないだろうか。死んだふりをするのも危険らしい。


 そのうち奴のでかい頭や黄色い歯がはっきりと認識できるまでに距離が詰まってきた。俺は恐怖で膝が笑い出し、まともに動けそうにない。


 このままじゃ殺される。そう思った時だった。


「なんだお兄さん。そいつに興味があるの? でも悪いね、今日はもう店じまいなんだよ」

「へ……へ?」


 年配の男性の声がした。急に隣から声をかけられて、パニックで上手く反応することができない。一瞬ではあったが、意識が男性に向けられた時、理解できない現象が起こる。


 目前まで近づいていたはずの熊がいなくなっている。キョロキョロと辺りを見渡すが、あの大きく丸い体はどこにもない。


 俺はようやく声の主へと顔を向けた。白髪で痩せ細っている老人だ。


「うちは日中しかやってないからね。でもこいつ、あんたが気に入ったみたいだなぁ」

「はい? あ……犬?」


 黒くて小さな犬が、俺の足元で匂いを嗅いでいた。ふとおじいさんの背後にある建物に視線を移すと、ペットショップの看板が掲げられている。


 おかしいな。こんな所にペットショップなんてあったっけ。老人はケラケラ笑っている。


「なんだぁ。ぼーっとしとるの。シャキッとせにゃならんぞ。まあ、明日でも買いにくればええ。こいつは逃げねえから」

「ワン! ワン!」と犬が元気に吠える。

「は、はあ。すみません。じゃあ、今度来ます」


 なんとも歯切れの悪い返事をしながら、俺はとにかく道を進むことにした。

 どう言うことなんだろう。あの熊は幻だったのか。

 ここ数日仕事で疲れ切っていたから、どこかおかしくなっていたのかな。


 だったら良かった。もし熊なんかに襲われてしまったらひとたまりもなかったろう。ほっとため息を漏らしながら、とにかく実家への道を歩き続ける。


 でも、奇妙なことは立て続けに起こるものだ。もう少しで到着すると言うところで、小さなスーパーの向こうにひっそりと佇む神社が目に止まった。


 神社のすぐ側には大木があったのだが、そこに奇妙な黒い塊が見える。実家はもうすぐそこだったのだから、気にせず進めば良かったのだが、どうも嫌な予感がした。


 その黒い何かは、スルスルと大木から落ちていった。するとどういうわけか、もぞもぞと気味の悪い動きをし出したんだ。

 俺はふたたび背筋が震えてくる。今日はなんで不気味なものばかり見てしまうのだろうか。


 考えるのはやめよう。早く帰ってしまおう。ただ、実家はもう少し前方に進まなくては門に到達できない。足を早めるほど、黒い何かは大きくなっていくようだった。


 そのうち、気持ちの悪い吐息がはっきりと聞こえてくるようになった。まさか、と思った時には奴はすぐそこまで迫っていた。さっきいなくなった熊が、またしても現れたんだ。


「う、あああ……」


 俺は二度目の恐怖でパニック状態になり、やってはいけないことをした。背を向いて駆け出してしまったんだ。知識として分かっていたはずなのに、頭の中が混乱しきっていて、正常な判断ができなくなっている。


 背後から奴が走り出したのがすぐに分かった。


「うわああー!」


 俺はきっと獲物として判定されてしまったに違いない。この暗い夜道で覆い被され、大きな口で首や顔に噛みついてくるんじゃないか。爪で皮膚はおろか内臓まで引き裂かれるんじゃないか。吐息が近い。絶望が背中に触れてきたような気がした。


 その最悪の瞬間、唐突に曲がり角から出てきた自転車と俺は衝突した。


「ぐあ!」

「ちょ、ちょっと君。こんな夜中にどうしたんですか」


 ふとぶつかった人を見ると警官だった。後からもう一人の警官が自転車に乗ってやってきた。俺は藁をもすがる思いでその男にしがみつく。


「助けてください! 熊です、熊がそこにっ!」


 二人の警官は何を言っているんだこの人は、と言わんばかりの顔をしている。


「熊がどこにいたんですか」

「見ればわかるでしょう! そこに……そこ……に」


 俺は振り向いてただ呆然とした。さっき自分を追いかけていたはずの黒い怪物が、どこにもいなくなってしまったからだ。あの巨体では隠れられるようなところもない。


 警官二人は一応俺が熊を見つけたという地点まで一緒についてきてくれた。そして周囲を少しばかり探った後、どちらの男も同じように苦笑いをする。


「きっと、黒い何かを熊と見間違えたんでしょう。この辺りじゃちょっと大きな野良猫だっていますから。もう大丈夫ですよ」

「は、はあ。すみませんでした」


 もしかして、俺は本当にどうかしていたんだろうか。疲れて黒猫を熊と見間違えた? いやいや、そんなはずないだろう。


 とにかく休もう。俺はようやく家のインターフォンを鳴らし、懐かしい母親の声を耳にする。すぐにドアを開けて中に入ると、以前より白髪が増えて痩せた両親が出迎えてくれた。


「お帰り。随分と遅かったわね」

「土産は持ってきたのか?」


 何があっても動じないような、おっとりしたおふくろと、お土産やらをいつだって欲しがるゲンキンな親父。見た目は老いてしまったようだけれど、中身は変わっちゃいないんだなと思う。


「ちょっとしたお菓子を持ってきたよ。バナナのお菓子、知ってる?」


 知ってるに決まってるか、とお茶の間のテーブルにお土産を置いた。テレビは十年以上前から変わっていないバラエティ番組が流れている。テレビ自体も十年くらい同じものを使っていた。


 ああ、やっと戻ってきたんだなと、俺はようやく落ち着くことができた。明日からしばらく何をしようか考える余裕まで生まれてくる。

 ただ、リビングにいた親父は神妙な面持ちだし、おふくろは変にぼーっとしてる。


「どうしたんだよ二人して。っていうか、風呂入ってもいいかな。俺、もう汗がやばくってさぁ」

「アンタ……後ろ」

「え、後ろってなに」


 おふくろの冷たい声に驚き振り向いた先に、黒くて巨大な何かが立っていた。俺は一瞬だけ思考が止まり、そして凍りついた。


 熊がいる。奴は今度こそ俺に牙を向いた。大きく開いた口から見える黄色い歯が、深く深く首筋にめり込んでいく。奴は俺を、丁寧にゆっくりと食い殺していく。




「お兄さん、ちょっとお兄さん! もう終点だよ。終点!」

「え……」


 誰かが体を揺すっている。ぼうっとした意識の中、俺は駅員さんと思わしき人に肩を揺らされていることに気がついた。


「あれ。俺、なんで」

「早く降りて! もう終点だからね」


 言われるがまま下車し、乗っていた新幹線を呆然と眺める。どうなっているんだ?


 しかし、すぐに気がついた。俺は地元の駅についていて、今までずっと寝ていたのだ。


「なんだよ。夢かよ」


 いやー怖かった。単なる夢で本当に良かった。それともう一つ安心できたことは、今は連休中だってことである。奇妙なくらい、あの夢は今の俺と同じ状況なんだよな。


 そして駅からバスに乗り、しばらく揺られて小学校そばのバス停で降りる。家はもうすぐそこだ。車が一台通れるような車道を挟んで、左側に土手が広がり、右側には住宅街が並んでいる。


 俺は明日からどうやって過ごしていこうか考えながら、実家への道を歩く。親父やおふくろはきっと、以前会った時よりも老いているのだろう。

 生きているうちに親孝行しなくちゃいけないな。そんなことを考えていると、前方になにか黒いものが見えた。


 それはもぞもぞと気味の悪い動きをしながら、俺のもとへとやってくる。

 夢とは違い、逃げることも悲鳴をあげることもできなかった。

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奇妙な熊 コータ @asadakota

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