かえらない二人。いつまでも三人。

畔 黒白

かえらない二人。いつまでも三人。

 雲混じりに晴れた普通の日、母さんが遂に亡くなったと知らせが入った。末期がん。家にも病室にも、遺書は残されていなかったそうだ。


 私は母さんに合わせる顔は無いと尻込み、結局死に目すら見ることが出来なかった。

 けれどこのままでは一生実家に帰ることはなく、いずれやってくる父の死を看取ることも出来ない、そう私は思った。自分が死ぬその時まで続く後悔を私はこれ以上増やしたくはなかった。

 そして最後の最後に、絞りかす程度の勇気を出して葬式に参列することにした。


 五年ぶりの再会。母さんは目を閉じていたし、喪主を務める父さんは一度も目を合わせてくれなかった。


 葬儀が無事終わり、私は一度実家に帰ることにした。無言で父さんの車に乗り込む。父さんは何も言わず、ただ車を走らせた。

 父さんは昔から無表情で、笑うところなんか一度も見た事がなかったし、いつも私の行儀や勉強の事で怒ってばかりいた。


 私は五年前に家を出た。バンド仲間と夢を追うために、という理由が一番だが、ぐちぐち五月蝿い父から逃れて自由になりたいという気持ちも少しあった。


 実家に戻ると、そこは五年前から何も変わっていなかった。

 玄関には金魚の入った水槽と八年前に箱根に行った時の家族写真。

 リビングには地デジに変わる時に買った、今はもう分厚く感じるテレビと、大分年季の入ってきたソファー。

 キッチンには私が子供の頃から使われている回転式の電子レンジ。

 テレビはまだしも、レンジなんてそれほど高くもないのだから新しいものを買えばいいのに。

 

 その中でも一番目を引き付けたのは、毎日食卓を囲んでいた長方形のテーブルだった。超が付くほど普通だけど、思い出の詰まった、テーブル。



 私は窓側の席。父さんは私の正面。そして母さんは台所に一番近い、短辺の席に座る。


 あの夜。このテーブルで、私は家を出てバンドをやると告げた。

 父さんは初めて見るような形相で怒鳴り散らしてきた。

 一方で母さんは笑っているような、泣いているような、そんな顔で俯いていた。


 もっと応援して欲しかった。


 私は父さんには目もくれず、一週間後に必要なはずだった荷物を背負った。


 玄関には母さんが立っていた。


「いつでも帰ってきてね」


 何か吹っ切れたような、爽やかな笑顔で声をかけてくれた。

 急に優しくされた私は気が動転して、そんな母さんを思わず突き飛ばしてしまった。

 そして今日まで帰ることはなかった。



 

 私と父さんは只の一言も言葉を交わさないままお互いの席に座る。向こうは一向に話す気配がない。

 やはり怒っているのだろうか。

 とりあえず謝るべきだろうか。

 相変わらず無表情の父さんは、五年前と変わらぬ眼鏡を掛け直す以外何も動かず、ただぼうっと机を眺めている。


 がさっという音と共に何かが台所の棚から落ちてきた。

 赤いきつねが二つ。

 母さんはきつねうどんが大好きだった。


「この甘いおあげがもう二枚。いや、三枚は欲しいわね」


 三人で。あのテーブルで。赤いきつねを一緒に食べている時、母は決まってそう言った。


 静寂に耐えられなかった私は立ち上がり、ひょいっと拾い上げる。棚に戻そうとした時、赤い蓋の上に一枚の付箋が貼り付けられているのに気がついた。


─なかよくね─


 忘れもしない母親の字。


「それだけかよ」


 あまりにも短すぎる遺書に思わず声が出てしまった。

 私は躊躇わずにその赤いきつねを私の席、そして父さんの前に置いた。


 やかんで湯を沸かしている間、父さんは何も言わなかった。

 火を止め、蓋を開け、湯を注ぎ、箸で蓋を閉じる。父さんはまだ口を開かない。

 そして五分待つ。

 何か言ってよ。父さん。

 いつもみたいに叱ってくれよ。

 ぐずぐずと流れていく時間、私はただ時計を見つめることしか出来なかった。


 ちょうど四分が経った時、かた麺好きの親子は同時に蓋を開けた。

 それまで無だった部屋を、色がついて見えるような湯気とだしの香りが包み込む。


 麺をすする。つゆの染み込んだおあげにかぶりつく。

 あまりの懐かしさに私は父さんとの気まずい空気を忘れ、子供の頃のように食べることに集中していた。



「この甘いおあげがもう二枚。いや、三枚は欲しいわね」


 正面からいきなり声が聞こえ、私は顔を上げた。


 父さんは箸でおあげを持ち上げ、笑っていた。目は、湯気で曇った眼鏡でよく見えない。


「母さんな、最後の最後まで、お前のこと心配してたぞ。父さんのことなんて気にもしてなかった」


 満面の笑みという様なものでは無いが、初めて見る父親のぎこちないほほえみは十分すぎるくらいに優しかった。


「ごめん」


 それ以上言葉にすると身体中から何かが溢れ出てきてしまう気がした。


「ごめん……ごめん……」


 思い出と想い出がつゆに滴り落ちる。

 やっぱり大好きだ。

 喉から飛び出してきそうな感情をせき止めるように無我夢中で食べる。私達三人はずっと変わらない。

 

 私は窓側の席。父さんは私の正面。そして母さんは台所に一番近い、短辺の席に座る。



 久しぶりの、家族団欒。

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