独立短編集

古澄典雪

風の日

 秋風が冷たい日のことだった。私は外套を羽織り、手袋をはめ、懐にカイロを入れて家を出た。そして見慣れた道を歩いていた。何度も通った道。当初は覚えにくく、あんな場所に家を建てる神経を疑ったものだが、今になって考えてみると、その場所を包むように存在する種々の事物が、自分の中に大切な風景として根付いていることに気づく。不思議なものだ。家について、ドアをノックする。中にいるはずの人は、今日も眠っているらしい。入りますよ、と一応声をかけてから、鍵が開いたままのドアを引き、家の中に入った。先輩、と呼びかけながら、いつもの場所へと導かれるようにして進んでいく。果たして、先輩はその部屋の中心で寝転がっていた。心配になり、近くで見てみたが、胸が上下していることを確認すると、ほっと息が出た。また寝落ちしてしまったらしい。眠気を感じにくいと言っていた先輩は、気絶する寸前まで絵を描き続ける。そして、椅子から後ろに倒れこむようにして眠る。今も先輩の右手には、筆が握られている。鮮やかな青色の絵の具が乾いたまま張り付いている。しかしこれを勝手に洗うと不機嫌になるので、そのままにしておく。

 そこで、私は見た。

 何かが胸に去来するのを感じながら、先輩が描いていた絵を、見た。

 そこには一人の少女が描かれていた。青い空の下で、縁側に座り、誰かを待っているように、期待に頬を染めている。季節は、秋だろうか。長袖の洋服の端が、微かに風に揺れている。印象的な花が描いてあるが、名前は思い出すことができない。手元には、一冊の本が眠るように置いてあった。その本の著者欄に、私の名前が書かれている。それが遊び心からくるものでないことは確信できた。大切な理由があるのだ、とかつて先輩は語っていた。俺が描く絵に無駄な箇所はない。空を彩る雲の、微細な揺らぎでさえも、意味を持っている。花に滴る雫の、その一滴でさえも、その世界を構成する欠片の一つであり、それがなくなった時、世界は崩壊する。だから、描くことは元々決まっている。それをなぞっているだけだ。そう語っていた。だったらこれにも何か意味があるのだろうか。いや、あるのだろう。何事か寝言を呟く先輩の顔を見て、起きてから問い詰めようと決心し、再度、絵を眺め、息を吐き、ここではないどこかで生きる少女の横顔を見つめてみる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

独立短編集 古澄典雪 @sumidanoriyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ