番外編3.ほのかに灯るもの (書籍3巻&コミック1巻発売記念SS)


書籍第2巻収録の第五章「灼家の青年」の後日談です。

依依と純花の又従兄弟・雄が主人公のお話です。よくよく考えると第五章は丸々加筆部分でしたね……!(雄と純花の関係もろもろが気になる方は、ぜひ書籍を読んでみてください)


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「楊依依。遊んでいないで早く行くぞ」


 そう皇帝が呼べば、皇帝付きの武官は頭を下げ、慌ただしく去って行った。

 立場上、雄には呼び止められない。もどかしい気持ちを抱えながらその背を見送り、ふぅと息を吐いた。


(あの香袋は……)


 まさか、と思う。だが雄の勘は、あの香袋は彼女の手製だと告げている。

 しかし皇帝本人でなく、一介の武官が、なぜ賢妃が刺繍を施した香袋を持っているのだろう。


 心臓の鼓動が普段より速い。自分でも呆れるが、心だけは、どんなに鍛えても柔い部分なのだ。


 ――灼純花は、灼家の中において複雑な立場にあった。


 思悦は一族で愛されたが、芸人の子を産んで身罷った。

 前当主である思悦の父は、生まれた純花に愛憎の念を向けた。思悦によく似た容姿を愛でる一方で、まるで純花が思悦を奪ったかのように詰ることがあった。


 新しく雇った乳母に育てられながら、純花は少しずつ自分の立場を理解していったのだろう。

 一族の者が集まる食事の席に一度も呼ばれない。口さがない侍女に囲まれて日々を過ごす。そんな彼女の姿を、雄は本家を訪れた際に、稀に見かけるだけだった。


 十も年の離れた又従姉妹を気にかける余裕は、雄にはなかった。一族の人間にも誰にも負けるまいと、文武共に鍛え上げていた時期だったのだ。まだ、自分が科挙を受けることになるとは思っていなかった頃でもある。


 ――それから数年後。


 前当主を打ち倒して新当主となった祖母に、純花が少しだけ心を開いていると聞きかじった。

 だが、その頃には当主の懐刀として知られる雄に対してはそうではなかった。


 あの日のことを、今でも雄はよく思い出す。日の当たらない庭でひとり、ちくちくと針を刺す小さな背中を見かけて、初めて声をかけたのだ。


「手巾に刺繍してるのか」


 覗き込むと、図案は花海棠だった。


 灼家の象徴花といえば、扶桑花である。どうして花海棠なのだろう、と気にはなったが、純花がぱっと手元を隠したものだから、そう訊ねることはできなかった。

 振り返った純花は、可憐な少女だった。赤い髪に赤い瞳は、雄にとって見慣れたものだが、泣き出す寸前の童のように潤んだ瞳があまりにも気弱そうで、驚かされた。


 腕っ節が強く、豪胆な者が集う灼家。だが彼女は、槍の一本でも持たせたら重さに耐えきれず倒れてしまうほどか細く見えた。


「えっと、上手だな」


 雄としては、褒めたつもりだった。

 それなのに純花は思いきり顔を顰めて、雄を上目遣いに睨みつけてきたのだ。


「こんなことしかできない女だって、馬鹿にしてるの?」

「は?」

「はぁ、興が削がれちゃったわね」


 わざとらしく溜め息を吐くと、侍女に刺繍を片づけさせる。そうして本人はさっさと去って行くものだから、雄は唖然として、開いた口が塞がらなくなった。


 どうやら彼女は、気弱なだけの少女ではないらしい――が。


(可愛くねぇ)


 雄はそんな感想を抱き、顔を引きつらせたのだった。


 さて、跳ねっ返りらしい又従姉妹とどのように接したものかと考える雄だったが、間もなく、そんなことで思い悩む必要はないとばかりに当主から告げられた。

 というのも十五歳となる純花は、後宮に入ることが決まったというのだ。

 雄は真っ向から反対した。あとにも先にも、雄が当主に逆らったのはあのときだけだ。


 しかし後宮入りは純花本人が望んだことだという。入宮の日が来て、あっという間に純花は遠く、手の届かない人になってしまった。


(呪われた妃だとか呼ばれて、辛かったろうな)


 その頃は謁見申請を出しても通らず、純花を一目見ることも叶わなかった。

 否、ただの一度も、雄が純花のために何かできた試しはない。

 それでも今、こうして会いに来る男のことを、彼女はどう思っているのだろう。


(……どうも思ってねぇか)


 聞いた話によれば、一年前と異なり純花は飛傑の寵愛を受けているという。喜ばしいはずのその報せにも、なぜだか心を乱されたのは記憶に新しい。

 雄はがりがりと無造作に頭をかく。南王の補佐として頭を使うばかりで、どうにも鍛錬不足が祟っているらしい。帰ったら身体を動かしたいところだ。


(香袋も、俺の勘違いだな)


 あの日、目にした華やかな刺繍をほしいと思ってしまった――そんな情念が生み出した幻か何かだと、そう思うことにする。

 そうして遠く、灼夏宮の屋根が見えてくれば、自然と雄の口元は綻んだ。


「また、いやがるだろうな」


 笑いながら呟けば、従者が不審そうに眉を寄せる。だが雄は気にしなかった。


 あの頃より元気に過ごせているならば、それでいい。

 出迎えるのが苦虫を噛み潰したような顔でも、会えるならば構わなかった。



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