第131話.逆上せてふらり


「恋とはすなわち戦い、なのだそうですよ」

「……偉人の言葉か?」

「そうです。恋華宮に住む偉人です」


 喉の奥で飛傑が笑う。


「瑞姫は余ではなく、宇静の味方だからな」

「いいえ。これからは俺だけの味方はできないそうですよ」


 弾かれたように飛傑が顔を上げれば、宇静は正面から見つめ返す。

 そんな二人を、依依は息を呑み、見つめていた。


「あれがそう言ったのか」

「はい。正々堂々戦え、と」


 頷く宇静の顎先を、ぽたりと水滴が垂れていく。


「俺のせいで、兄上が気を揉んでいたのは分かっています。瑞姫や皇太后陛下も同じでしょう。しかし今の俺は、なんの力もない子どもではない。俺を哀れむのは、もうおやめください」

「……そう思わせていたのは、余の落ち度だな」


 横顔に張りついた長い髪をかき上げて、飛傑が眉尻を下げる。

口元を緩ませて微笑む飛傑は、少しだけ重荷を下ろしたようだった。


「分かったよ、宇静」


 短い返事だった。

 けれど吐息の柔らかさや、少しだけ弛緩した雰囲気がお湯を通して伝わってきて、依依はほっとする。


 なんの話かはよく分からない。分からないなりに、依依は良かった、と思う。

 今まで二人は軍議について言葉を交わすことはあっても、兄弟として話すことはほとんどなかったのだろう。


親族であっても、むしろ親族であるからこそ、足を引っ張り合い、相手を蹴落とそうとする。そんな宮城という特殊で寂しい場所が、それを許さなかったからだ。

 きっかけとなったのは、温泉宮に辿り着く前の一連の出来事だろうか。二人は近くで、他人を挟まずに多くの時間を過ごした。複雑な関係を揶揄する者がいない空間で、多くの言葉を交わした。


だからこそ飛傑は、人気のない混浴風呂で弟と話す時間を作り、宇静はそんな兄の意志に応えた。はぐらかさずに本音を伝えたのだ。


(本当に、それは良かった。……んだけど)


 二人が姿を見せた時点で、「すみませーん」と呼びかけていたほうが良かったのかもしれない。

否、裸の依依が申し訳なさそうに去ったあとに、このように腰を据えて落ち着いた話はできなかっただろうが……。


(もう、さすがに無理!)


 熱い湯の中に姿を隠しているのは限界だ。

 ふらつきながら、依依は立ち上がる。ぱしゃ、と勢いよく湯が跳ねた。


「誰だッ」


 鋭く誰何するのは宇静の声だ。

 名乗ろうとした依依だが、唇までふやけたのか言葉が出てこない。


 湯煙が晴れていけば、宇静が瞠目している。飛傑もまた唖然としていた。


「なっ……依依?」

「ふんにゃ……」


 返事をしようとしても、ろれつが回らない。

 すっかり逆上せて全身を真っ赤にした依依は、ふらふらして、お湯の中に倒れそうになる。


 その手を、誰かが受け止めた。そこで依依の意識は途切れていた。



        ◇◇◇



(……冷たい?)


 茹だるように熱い額に、そっと触れる何かに、依依は気がつく。

 何度も慈しむように、優しく肌を撫でてくる。どうやらそれは誰かの指らしい。

 誰だろう、と依依は考える。林杏か明梅か。それとも純花だろうか。反射的に浮かべた顔はどれも後宮で留守番をしている少女のものばかりだったので、当たることはなかったが。


 うろうろ目を開いて確認してみると、指先の持ち主は、飛傑であった。

 目が合うと、飛傑が目を細める。依依はゆっくりと息を吸って、率直な感想を述べた。


「陛下の手、冷たくて……気持ちいいです」


 それが幼子のような感想だったからだろうか。ふ、と飛傑の口元が綻ぶ。


「そなたのせいだぞ。せっかく温泉で温まっていたのに、倒れるそなたを見て肝が冷えた」

「それは、すみません」


 重い身体を起こそうとするが、飛傑に止められる。

 どこかと思って寝転んだまま見回してみれば、依依の部屋だ。

 華燭が照らすだけの室内は薄暗い。依依は備えつけの寝台に寝かされていたらしい。ご丁寧に、頭の横には取っ手つきの籠が置いてある。中には卵が入りっぱなしになっていた。


(う~、私の卵ちゃんたち……)


 手を伸ばす依依だったが、その手は飛傑に搦め取られてしまう。


「宇静が厨房に氷水を取りに行っている。すぐに戻ってくるだろうから、大人しくしていろ」

「でも私、お腹が空いちゃいまして……」


 言いかけた依依は、重要なことに思い至る。

 混浴温泉で倒れたとき、依依は裸に薄着をまとっただけの格好だった。

 しかし今の自分を見下ろしてみると、濡れていた髪は乾いている。服だってきっちり着替えていて、衫をまとっていた。


 逆上せて倒れたのに、無意識でそんな風にできたとは思えない。となると飛傑か宇静が、手ずからそうしたということになるが――。


「陛下が、ここまで運んでくれたんですか?」

「ああ、そうだ」

「あの……そうなると……私のこ、衣は、誰が着せたんでしょう」


 目線を泳がせながら問いかけると、飛傑が噎せるように咳き込んだ。



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