第110話.まっすぐな祈り
「分かるのか?」
昔、一度だけ話したときのように、その口調が砕けたものになる。
純花は敢えて指摘しなかった。
「だって、焦ったような顔をしているもの。心ここにあらずって言うのかしらね」
雄には何か、重要な心配事がある。そしてその答えは後宮内にはない。
だが、彼としてはなんらかの事情で、足を運ぶ必要があった。純花に分かるのはそこまでだ。
「……そうだな。お前の無事をこの目で確認したかった。これは俺の弱さだ」
ふぅん、と純花は小首を傾げる。
何やら思わせぶりな物言いだが、雄が何を言いたいのかは、よく分からない。問うたところで、この男は正直に教えたりはしないだろう。
だが雄も、今日は少し気が抜けていたらしい。
「まぁ、そもそも兵を連れて霊山に向かう許可が、皇太后陛下からまだ下りないんだが。清叉将軍や楊依依がついているから、大丈夫だとは思うが……」
「えっ」
そんな呟きが耳を掠め、純花はぎょっとした。
「そ、それっておね……皇帝陛下に、何かあるということ?」
雄の口から依依の名前が出たことに、純花は少なからず動揺せずにいられなかった。
(温泉宮で、何かが起きているの?)
楽しいだけの温泉旅行だろうと思っていたのに、また、何かの陰謀が動いているのか。しかもそれには、目の前にいる雄が関わっているのか。
純花は立ち上がると、雄の袖をぐいと掴んだ。
驚いたように、彼が目を見開く。純度が高い宝石のように美しい赤の瞳を、純花は上目遣いで睨みつける。
「しゃ、灼賢妃……」
後ろで林杏と明梅が慌てているが、純花は譲らない。姉が関わることだけは、一歩も譲らないと決めているのだ。
「どういうことなの。雄、詳しく教えてちょうだい」
雄はすっかり戸惑っている。純花がそんなに強く反応するとは、思ってもみなかったらしい。
「……話せない。お前に害が及んでも困る」
「いいから教えて!」
純花は声を荒らげる。
「わたくしは賢妃よ、今じゃね、あなたよりずっと偉くなったんだから!」
必死に言い募り、純花は小さな童のように雄を揺さぶるのだが、そこらの武人より屈強な文官はびくともしない。
(もう、忌々しい人!)
しかも何を勘違いしたのか、そこで雄は信じられない呟きを漏らした。
「やっぱり、皇帝陛下に惚れてるんだな」
「はぁっ? 違うわよ!」
それだけは絶対に違う、と純花は怒った顔で否定する。
どうやら内情を話すつもりはないらしい。舌打ちした純花は、雄の身体を突き飛ばした。
ふらつくどころか、びくともしない雄から顔を背けて、純花は苛立たしげに言い放つ。
「もう、いいからさっさと温泉宮に行ってちょうだい。よく分からないけれど、あなたが行けば解決する問題なんでしょう?」
そうでなければ、こんなところで油を売ったりはしないだろう。
発破をかければ、雄は我に返ったような顔をする。
「……すまない。行ってくる」
応接間を出て行く後ろ姿を、純花は見送った。
そこで緊張の糸がふつりと途切れた。
倒れそうになる純花を、両脇から女官二人が受け止める。
「だ、大丈夫ですか灼賢妃」
「平気よ。ちょっと、疲れただけ」
二人の手が離れてから、純花は独りごちる。
「……ほんと、なんなのかしらね。あの人」
詳しいことは何も教えてくれず、純花が気に揉むような発言だけを残していった。
とんでもない男だ、と純花は頭を振る。これが遠回しないやがらせなら、大したものだ。
ふと思いついて、純花は提案する。
「林杏、明梅。さっきの香蕉、三人で食べましょうか」
まだ日は高い時刻。夕餉までに、香蕉を食べて話をするのだ。
そんなことをしても、気持ちは落ち着かないと分かっている。だが純花が心配のあまり寝込むより、甘い果実を食べているほうが、依依はよっぽど喜んでくれる気がする。
言葉にしない思いを汲んでくれたのか、林杏は精いっぱい微笑んでくれた。
「かしこまりました。かき混ぜて、飲み物にしましょう」
――安息香も焚きましょう。気を落ち着かせる香りです。
「そうね、お願い」
すぐに林杏と明梅が準備に取り掛かる。
応接間から庭を眺めた純花は、そっと両手を組んだ。
脳裏には依依の笑顔が浮かぶ。武人として優れているという雄よりずっと、純花は依依のことを信頼している。
きっと依依なら、どんな苦難でも乗り越えて、また純花に笑いかけてくれる。そう思うことで、純花は張り裂けそうな胸の痛みをなんとか堪える。
「お姉様……どうかご無事で」
中秋節は、家族の幸福や安寧を祝うものだ。
一年で最も美しいとされる月を見上げて、純花は姉の無事を祈ることにした。
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