第100話.深玉の思惑1
「ねぇ……ちょっといい?」
声をかけられるより早く、接近してくる足音には気がついていた。
依依はゆっくりと目を開けて、身を起こした。
身体の反応が遅れたのは、疲労のせいというよりも、夢の残滓を必死になって追いかけていたからである。
依依は夢を見ていた。
夢の中の依依は狂喜乱舞しながら饅頭に溺れていた。いい夢だったが、覚めてしまえばむなしさが胸に残る。
(まだ、夜明け前かな)
本音を言えばもう少し寝ていたかった。いろんな意味で。
「円淑妃、僕に何か?」
寝ぼけまなこをこすって、依依は首を傾ける。
深玉に呼び出される理由は、皆目見当がつかない。すると高飛車な妃は頬を赤くして、ぼそぼそと小声で言う。
「……手洗いに付き添ってほしいの」
(ああ)
これは自分の察しが悪かった、と依依は内省した。
「分かりました、お供します」
返事をすれば、深玉はほっとしたようだった。
すぐ近くに地面が陥没している地点があり、そこには池のように水が貯まっていた。地面に貯まった水では下痢を起こす危険が高いので、その池は洗手間として使うことになっている。
池があるのは、休憩地点から少し離れたところだ。だが、ひとりで暗い洞窟内を歩いていくのは恐怖以外の何物でもないだろう。蝶よ花よと育てられた令嬢ならば、なおさらだ。
そしてこの場合、皇帝である飛傑に付き合ってもらうなんて論外だ。同じく鬼将軍として知られる宇静もそうだろう。この顔ぶれでは、消去法で依依を選ぶしかないのだ。
依依は煌々と燃える松明を手に取った。
飛傑と宇静を起こさないよう、水場を離れる。宇静は起きていたのだろうが、いちいち声をかける必要はない。
「帰りも、ちゃんと付き添いなさいよ」
「もちろんです。何かあったら呼んでください」
依依は深玉の心情を気遣い、離れた位置で彼女の帰りを待つことにした。離れすぎても心細くなった深玉が文句を言うので、距離を見極めるには苦労したが。
戻ってきた深玉は、湧き水で手を洗う。これでお役御免かと思いきや、振り返った高飛車な妃の目は、高圧的な光を宿していた。
「ちょっとついてきて」
「また洗手間ですか?」
さっき行ったばかりだが、近いのだろうか。若いのに。
「そんなわけないでしょうっ」
小声で怒鳴られる。空腹か疲労のせいか。否、これはいつも通りの深玉であった。
結局、深玉はまた水場から離れる。依依は渋々ついていく。
深玉が足を向けたのは池の方向ではなかった。飛傑たちから離れた位置まで来ると、彼女はぴたりと立ち止まる。
「お前、名前はなんといったかしらぁ」
「楊依依です」
依依は大人しく答える。彼女の前で名乗ったこともあったが、一武官の名なぞいちいち覚えてはいないのだろう。高貴な人というのはそういうものだから、気にすることでもない。
「楊依依。あたくしと皇帝陛下の距離が縮まるよう協力なさい」
「……は?」
しかし告げられた言葉の意味が分からず、依依は口を半開きにしてしまう。
深玉はうきうきしたように袖を揺らしている。
「これは今までになく大きな機会だもの。天が授けてくれたせっかくの時間を、無駄にはできないわぁ」
「お待ちください円淑妃。今はそれどころではありません」
襲撃を受け、仲間と分断されてしまった。現状の依依たちは孤立無援だ。
こうしている今も襲われる危険性がないとは言えない。宇静と依依は、一刻も早く二人を安全な場所に送り届けねばならないのだ。
(しかも、敵の正体が――灼家の人間かもしれないんだから)
あの中に赤髪の人間がいたのを、依依はこの目ではっきりと見ている。
深玉はそのことを知らない。宇静には伝えてあるので、彼は折を見て飛傑に話しているだろう。
あれから二人は、黒布の正体について何も口にしていない。
(あるいは私も、疑われてるのかも)
生まれてすぐ若晴によって連れ出された依依は、灼家の人間としての自覚に乏しい。依依自身も灼家に対して、特別な思い入れがあるわけではない。
(でもあいつら、統率された部隊、みたいな印象はなかったのよね)
灼家の私兵であれば、それなりの訓練を受けているはずだ。しかし依依は、どちらかというと寄せ集めに近い印象を受けていた。
(目の色も、赤くなかった気はする、んだけど……)
どうだったか、と考え込む。髪色は印象的だったが、そこまで細かく容姿を観察する余裕はなかった。
だが目の色も赤かったとするなら、黒布の正体はほとんど確定となる。どちらかひとつならともかく、髪と瞳にはっきりとした赤色を持つ一族は、灼家を除いて他にないのだから。
自分自身を抜いて、依依が知る灼家の人間は二人だけである。
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