第98話.水と食料と
「水!」
深玉が歓声を上げ、それを恥じるように下を向く。だが全員の心の声は「水!」で一致していただろう。
少し弛緩した空気の中、毒見は自然と依依が担当することになる。深玉はもどかしげな、もっというと恨めしげな目をしているが、依依は気がつかない振りを決め込んだ。水を発見してから、彼女の喉は何度も動いている。
燭台があるわけもないので、松明は一時的に宇静に預かってもらう。わりと畏れ多いが、文句を言わず引き受けてくれた。
依依は両手で皿を作り、流れる水を溜めていく。
宇静が手元を照らしてくれる。水に濁りはない。ふんふんと嗅いでみるが、においにも問題はない。成分的なところは分からないが、依依の勘によれば生命を損なうような水ではない。
掬った水を、ごくりと飲む。
冷たい液体が喉を過ぎていく。全員が息を呑んで見守っている。
依依は口元を拭い、頷いてみせた。
「……大丈夫です。飲めます」
飲用としてじゅうぶん適した水だ。
飛傑と深玉が、わずかに頬を緩めて近づいてくる。歩き通しで二人とも疲れているし、喉が渇いている。
煮沸したほうが安全だが、岩の湧き水であれば地中でろ過されている。危険は薄いだろうと依依は判断した。
振り返ると、先ほどと変わらない姿勢で宇静が直立していた。
依依は今さら気がつく。両手が塞がっている宇静は、飲みたくても水が飲めないのだ。
松明を持つ係を交代しようとして、それよりも早いかと、依依は幾筋も流れている湧き水を再び手に掬った。
たっぷりと揺れる水を、宇静の前に差し出す。
「将軍様、どうぞ」
「……なんだ、これは」
「水です」
見た通りの水だと説明すれば、宇静はなぜか閉口している。
「飲んでください。冷たくておいしいですよ」
炎に照らされた宇静の眉間に、深い皺が刻まれている。
彼は苦言を呈そうとしたようだったが、そんなことをしている間に、依依の手から水が染み出している。
「ほら、早く早くっ。こぼれちゃいます」
「…………」
急かされて観念したらしい。溜め息交じりに、宇静が前屈みになった。
依依の手のひらから直接、水を飲む。目を閉じていると、彼の睫毛の長さが明らかになる。逞しい喉が動く様もはっきりと見て取れた。
その横顔の線に沿うように、さらりと青い髪が流れる。
依依の両手は、その弾みにわずかに震えた。
(これ、ちょっと……は、恥ずかしいかも)
無防備な美丈夫を見下ろしているうち、今さらながら依依は羞恥心を感じてきた。
だが自分から提案したのだ。今さらやっぱりなしで、とは言えない。
「っ」
ぴくり、と依依の肩が跳ねる。宇静の唇が、依依の手のひらに当たったのだ。
わざとではなかったのだろう。顔を上げた宇静は気まずそうだった。
「すまない。助かった」
「い、いえ」
依依は激しく首を横に振った。
視線を感じて振り返ると、水を飲み終えた飛傑が、なぜか冷ややかな笑みを浮かべている。
「ずいぶんと楽しそうだな」
「べ、別に楽しくはありませんけど……」
遊んでいたわけではないので、依依はとりあえず否定する。しかし飛傑の表情はますます冷たくなっていた。
深玉に至っては、その手があったかみたいな顔をしている。どちらの反応も怖い。
「今晩は、ここで休みましょう」
黙り込んでいると、宇静がそう進言した。なぜか依依は助け船を出されたような心地になった。
依依たちはそれぞれ、岩場に座って休むことにした。
光源となるのは、岩壁の凹みに引っかけた松明の炎だけだ。その火もほんのりと小さくなっている。焚き火をすれば少しは雰囲気も明るくなっただろうが、洞窟内には材料になる枝が落ちていなかった。
(さすがにここまで、簡単には追ってこられないと思うけど)
洞窟内に、最近になって人が歩いた形跡はない。
宇静の睨んだ通り、山中に潜んでいた襲撃者――黒布たちは、この洞窟については把握していないと見ていいだろう。
「疲れた……」
しばらく水を飲んでいた深玉が、項垂れたように呟く。彼女の細い手が腹部を擦ったのを見て、依依は立ち上がった。
空腹は苛立ちを生み、心の余裕を奪う。まだ洞窟を出られる兆しがない今こそ、貴重な保存食を開封するときであろう。
「将軍様、こちらなんですが」
布包みを見せたところで、宇静は意図に気がついたようだった。
「お前からお渡ししてくれ」
「分かりました」
依依は皇帝付き武官という立場である。飛傑と直接話すことを許された立場だ。
ふぅと重い息を吐いていた飛傑に、依依は跪いて恭しく差し出した。
「皇帝陛下、粗食ですが献上します。干物と梅干しです」
「……いいのか?」
当たり前です、と依依は頷く。かなりがんばって頷いている。
正直なところ、自分ひとりで隠れてこっそり食べたい、という気持ちがなかったわけではない。動物が住まず、虫がほとんどいない洞窟では、水の次に食料は貴重なのだ。
だが、そうしなかった。今の依依は皇帝や宮城を守る仕事をしてお給料をもらっている。
その役割は広義的に見ると、用心棒に近い。
(用心棒はお金をもらう代わりに、命がけでその人を守るものだもの)
この場合の守るには、命の危険から、という大きな意味が含まれている。
それに草葉の陰から見守ってくれている若晴に、我が身可愛さで食料を隠す姿など見せたくはない。
口内に大量の涎を溜めている件については、若晴は見て見ぬ振りをしてくれることだろう。
「淑妃、分けて食べよう」
飛傑が深玉に声をかける。
彼に渡したのは、全体からすると四分の一ほどの食料だ。残り四分の三についても、こっそり依依が食べるわけではない。今後、食べ物を確保できる保証がないので、少しずつ渡すことに決めたのだ。
(これっぽっちじゃ、お腹は膨れないだろうけど)
二人で分ければ、魚の干物と梅干しがたった半分ずつ。
皇族と上級妃に捧げるものとしては、貧相すぎる食事内容である。深玉の表情には明らかな落胆がにじんでいたが、彼女はそんな不満を言葉にしないだけの分別を持っていた。
しかしそこで、飛傑は距離を置いていた宇静と依依にも声をかけてくる。
「何をしている。そなたらも来てくれ」
どうやら飛傑は半分ずつでなく、四分の一ずつ食べようと思っていたらしい。
この提案に、依依と宇静は顔を見合わせる。
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