第97話.迷宮を行く四人


 額に浮かぶ汗を袖で拭い、依依は溜め息を吐いた。


 空気がひんやりとした洞窟内を歩き始めて、それなりの時間が経過していた。

 先頭を依依が歩き、間に飛傑と深玉を挟んで、殿は宇静が務めている。この隊列は一度も崩していない。


 宇静ではなく、依依が先陣を切るのには理由があった。宇静から指示されたからである。


(『優れている五感を活かし、皇帝陛下を出口まで導け』……だっけ)


 洞窟内は物音が響きやすい。風の音は聞こえないが、空気の流れを読むことはできる。


 依依は鼻をふんふんと動かし、ときどき石を投げて音の反響具合を確かめながら、より安全だと感じる道を選び取っている。

 どうしようもないときは、積極的に勘と呼ぶべきものも行使している。それが正しいのか間違っているのかは、未来の依依たちにしか分からないことだ。


 強烈なにおいを放つ蝙蝠が棲息していないのは救いだったが、五感を隅々まで研ぎ澄ましていればその分、激しく消耗もする。

 想像以上に複雑な構造の洞窟を探っていくのに、依依は苦労していた。


(ほんと、将軍様ったら……簡単に言ってくれるんだから)


 そう思って依依が浮かべるのは自信なさげな弱々しい表情ではなく、負けん気の強い笑みだ。

 宇静は依依に、進むべき道を選べと託した。彼からの信頼に、応えないわけにはいかない。


 それに悪いことだらけではない。今のところ、背後を追ってくる足音はなかった。それに山中では障害物だらけで足を取られる。傾斜があれば疲労も蓄積しやすいし、滑落の危険もある。その点、洞窟は暗いのが難点だがましな道行きといえるだろう。


 だがときどき、人間の骨のようなものが転がっていたり、血痕らしいものが散っていたりして、深玉はそれらが松明に照らされるたび「ひっ」と声を上げていた。今も後ろでびくりと跳ねている。


 落ち着かせるように、飛傑が言う。


「この山にも、密猟者が入ったことがあるのだろうな」


 皇帝所有の霊山といっても、土地が広すぎて見張り番など置きようがない。せいぜい貼り紙や看板を設置しているくらいだ。

 獣狩りをしに来た輩は、猛獣にでも遭遇して洞窟に逃げ、そこで仲間割れをしたり、飢えて死んだりなど、そんな最期を迎えたのかもしれない。


「皇帝陛下の御座で悪さをするだなんて、ふ、不届き千万な輩ですわねぇ」


 そう返す深玉は、怒ったように整えられた眉をつり上げてみせている。彼女が外面を取り繕えるだけの余力を残してくれていることに、依依は安堵する。


(そろそろ、休憩しようと言いたいけど)


 ちらり、と振り返った先で宇静が首を横に振る。

 依依も宇静も、ずっと同じものを探している。飲み水だ。

 宇静は腰に水筒を吊るしていた。わずかな水は飛傑と深玉が分けて飲んだので、ほとんど空になっている。飛傑はこちらを気遣うように見ていたが、彼が心優しくとも、優先順位というものはある。分けてもらう気はまったくなかった。


 人間というのはそれなりに丈夫な生き物だ。清潔で新鮮な飲み水があれば、簡単に死んだりはしない。

 逆にいうと、今日か明日にでも飲み水を確保できないと、この先はかなり厳しい道程となる。特に、武人ではない飛傑や深玉にとっては。


 依依は再び、頬を流れてきた汗を拭った。集中力も途切れてきている。

 水分が不足しているせいで、思考も鈍くなっているのがいただけない。道行きを任された依依が選択を間違えば、全員が危機に晒されてしまう。


 そのせいだろうか。

 鼓膜がその音を拾ったとき、依依は喜ぶより先に疑ってしまった。


(水が流れる音……?)


 もはや幻聴なのでは、と訝しみつつ、逸る気持ちを抑えて、依依は松明の先に現れた三本道を右に曲がる。


 道の先を照らす。変わり映えのない景色には、今までと違うものがあった。

 天井付近からちょろちょろと、壁を伝って流れ落ちるものがあるのだ。


「湧き水です」


 依依は、万感の思いで口にした。


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