第95話.一難去らず


(あの髪色は――)


 だが戦場のまっただ中で、ゆっくりと観察している時間はない。


 怒号が上がり、断末魔の悲鳴が上がる。頭を庇った深玉はがたがたと身体を震わせている。


 彼女は防具を身につけていない。馬に頭を蹴られでもしたら一巻の終わりだ。

 震えるばかりの彼女の腕を、依依は無我夢中で掴んでいた。


「こちらです!」

「えっ……」


 混乱している深玉を助けて、走り出す。敵を倒すことよりも、今は深玉の安全を確保しなければならない。


 宇静が向かった方向は覚えている。山に入れば、背の高い木に阻まれ、濃い血のにおいも、剣戟の音も、次第に遠ざかっていった。

 追っ手がないか振り返って確認しながら、踏まれた草や、地面に残った足跡など、彼らが通った痕跡をいくつも見つけて追っていく。


 だが依依が見つけられるということは、敵も同じようにできるということだ。可能な限り痕跡を消していくが、合流のほうが先決である。


 味方を残していくことには、後ろ髪を引かれる思いを味わう。

 相手の練度は低いとしても、その手に武器を持って向かってくる限り、必ずこちらにも被害が出る。


 依依が戻れば、味方の犠牲は間違いなく減る。だが依依は立ち止まることはなかった。止まれば、深玉を危機に陥れることになる。


 深玉は何も分からないまま、懸命に足を動かしている。


「もうすぐ、陛下たちと合流できます。がんばってください!」


 無言の深玉を励まし、走り続ける。そうして辿り着いたのは小さな洞窟だった。


 まず依依が中へと入り、安全を確認しようとするが、深玉の手が解けない。血のにおいに酔ったのか、恐怖のせいか、筋肉が硬直してしまっているようだ。

 瑞姫や桂才と異なり、深玉だけは後宮内と同じような華美な衣装をまとっている。露出が激しく、歩きづらい格好がたたってか、深玉はぜえぜえと肩で息をしている。


 そんな深玉を気にしながら、依依はそっと呼びかけた。


「どなたか、いらっしゃいますか」


 入り口は狭いが、音の反響具合からして内部はかなり広いようだ。

 声の反響が鳴り終わる前に、姿を現したのは宇静だった。


「依依か」

「将軍様!」


 腰の剣に手を添えていた宇静だったが、その手の動きが止まっている。


「円淑妃も一緒です」

「ああ。中に入れ」


 依依は汗まみれの深玉を連れて、宇静についていく。昼前でも洞窟内部は暗かったが、岩の上に座り込む飛傑と、依依は確かに目が合った。


 労るように、その目が細められる。依依は軽く頷き返した。


(目立つ怪我はしてないみたい)


 深玉もそうだが、落下の際に頭を打たなかったのは何よりだった。二人ともきらびやかな衣が薄汚れているが、それだけで済んだのは不幸中の幸いだ。


「円淑妃、無事だったか。良かった」


 剣の打ち合う音や血のにおい。慣れないそれらを前に、深玉はほとんど放心状態になっている。

 細い肩に飛傑が優しく触れる。ようやく、深玉の手から力が抜けた。


 次の瞬間、彼女は飛傑に抱きついていた。


「陛下ぁ……っ」

「ああ。よく耐えた」


 涙ぐむ深玉を導いて、飛傑が隣り合うように腰かける。

 そんな中、依依は宇静と目を見交わす。

 無事、合流できたのは喜ぶべきだが、手放しで喜べるほど生易しい状況ではなかった。

 襲撃され、瑞姫たちと分断されてしまった。味方に死者も出ているかもしれない。清叉軍の実戦経験の乏しさを突かれた形だ。

 そして危機は去ったわけではない。あの場に残った人数だけでは、敵を倒しきれなかったはずなのだ。


 そのとき依依の耳が、洞窟の外からいやな音を拾い上げた。


「複数人の足音が聞こえます」


 潜めた声で伝えれば、全員が沈黙する。


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