第93話.襲撃
宮城を出発し、二日目の朝である。
今日の夕方には温泉宮に到着する予定だが、朝餉から一刻、馬車列は停止を余儀なくされていた。
深玉たちを乗せていた馬車の車輪が外れてしまったのだ。
「もう、最悪よぉ。あなたたちがちゃんと点検していれば、こんなことにはならなかったでしょうに!」
馬車を下りた深玉は、ここぞとばかりに文句を吐き散らしている。車軸に問題はなかったので、車輪の取り替えが終われば出発できるのだが、彼女が大いに騒ぐので修理の作業が遅れがちになっている。
「そうだわ。あたくし、陛下の馬車に一緒に乗せていただけないかしらぁ!」
いや、むしろこれが狙いだったのかもしれない。大胆な、もっというとガツガツした発言を繰り出す淑妃に、おお、と周りはこぞって感心したような顔をする。
そんな小さな騒動の傍ら、依依は嵐の背から下りた。装備を身につけた依依はそれなりに重量がある。休めるときに休ませておくべきだ。
のびのび草を食む姿を見守っていると、前の馬車の垂れ絹から覗く指に、誘うように手招きされているのに気がつく。
なんだか既視感があるなと思いながら近づいていけば、依依を見るなり、ぽぽっと頬を赤くする桂才の姿がそこにあった。
「……依依様。お久しゅう、ございます」
「お久しぶりです、潮徳妃」
皇妹にも四夫人にも呼びつけられる一武官とは、これいかに。桂才は瑞姫よりも時宜を計ってくれたようだが、どちらにせよ耳目を引くのは変わりない。
しかし今、注目の多くは深玉が集めてくれている。桂才の声は小さいので、誰かに聞かれる心配もないだろう。依依は桂才としばらくぶりに話すことにした。
「潮徳妃、顔色がいいですね」
「分かり、ますか?」
桂才が目を細めて、空を見上げる。
「このあたりは竜脈の鼓動が、よく感じ取れます。後宮よりもずっと、静けさが満ちているからでしょう……。私にとってはとても、心地がいいのです」
(そういうものなのね)
山奥の空気はおいしいな、みたいな感じだろうか。それなら依依にも分かる。まさに今もおいしいなと思っていたところだ。
潮家の女性は代々、独自の
桂才もまた、人の魂の色を見ることができると語っていた。その力で依依と純花とを見分けたことに始まり、不思議な術を使って依依を助けてくれたこともある。
「そういえば、温泉宮の同行者は賭け事で決めたらしいですね」
「ええ。円淑妃の提案で……茶器を使って、銅貨落としを行いました」
(銅貨落としだったんだ)
興奮する純花の文には、賭け事の内容について詳しくは書かれていなかった。
銅貨落としであれば、田舎暮らしの依依にもよく馴染みがある。加えて言うと、負けなしだ。
「それじゃあ円淑妃は、最後に茶器に触ったのでは?」
「……さすがは、依依様」
桂才がうっすらと微笑む。依依の指摘は当たっていたようだ。
銅貨の表裏が出る確率は、当然ながら半々に思える。しかしその銅貨が最初から、わずかにでも歪んでいたらどうだろうか。
(慣れた茶器を用いれば、勝利はほとんど確実になる)
勝負方法を深玉が決めた時点で、茶器や水盤、銅貨はそれぞれ別の人間が用意すべきだった。最後に茶器に触る人物も、賭け事と無縁なところから選ぶべきだ。
それでも、策略家らしい彼女と五分の勝負をするのは難しかっただろう。十中八九、深玉は温泉行きを決めていたはずだ。
道具を事前に用意できずとも、最後に茶器に触れられずとも、息の掛かった人材が用意できず買収できずとも、勝利する方法はある。
「潮徳妃も、円淑妃が勝つと分かっていたわけですね」
「ええ……。灼賢妃と逆張りすれば、勝てるだろうと踏んでいました」
「ああ。円淑妃、純花のことを嫌ってますもんね」
依依は苦笑する。賭けに参加する時点で、純花の負けは決まっていたも同然だったのだ。
だが、それを聞いた桂才はふるふる、と首を横に振る。
「そう見えるでしょうが、ああ見えて、円淑妃は――」
桂才は中途半端なところで、唇の動きを止めていた。
そのときには依依も察知していた。目に見えないものに鋭敏な嗅覚を持つ桂才とは異なり、依依の場合は複数の蹄の音と、枝葉がこすれる音から読み取っていたのだった。
その手は、すでに背負った槍の柄を握っている。
(――襲撃!)
木々の合間を縫い、ひゅんと飛んできたのは十数本の矢である。
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