第79話.恋華宮へ

 


 できる限りの準備を終えた依依は、疲れた様子の鳥をおいて外に飛び出した。


(後宮に行かないと)


 一目散に清叉寮の裏庭に向かう。

 本来であれば豆豆に文を預け、純花に連絡を取り、彼女と役目を交代してもらうべきなのだろう。

 だが、飛傑や宇静の様子を見るに瑞姫には一刻の猶予もない。迷っている暇はなかった。


 武官服のまま、秘密の抜け道を素早く通り抜けて依依は後宮へと侵入する。

 出入り口はしっかりと塞いでから、立ち上がると、依依は恋華宮に向かって駆け出した。


 爆走する依依を、目を丸くした女官や宦官が見ているが、誰も口出しはしてこない。

 というのも依依が速すぎて、注意しようにも誰ひとりとして追いつけないのだ。我に返った彼らが「おい」とか「待て」とか叫ぶ頃には、依依の背中はすっかり遠ざかっている。


(瑞姫様……!)


 前だけを見て、依依は走り続ける。


 恋華宮の華やかな建物が近づいてくるにつれ、人の姿が多くなってくる。

 建物内からは、瑞姫に仕える女官のものだろう、女たちの泣き声まで外に漏れ出しており、事態の深刻さが窺えた。


 宮殿の正面を囲むように立ち塞がる宦官たちは、依依に気がつくと目を見開く。

 依依は敢えて堂々と、彼らにつかつかと歩み寄った。ここでこそ泥のように逃げるわけにはいかなかった。


「通してください……! 恋華宮に入りたいんです!」

「できぬ」

「清叉将軍にすぐお伝えしたいことがあるんです!」


 依依は必死の思いで頭を下げた。


「僕は皇帝付き武官です。お願いします」

「何人たりとも通さぬようにとの言いつけだ」


 だが返事はにべもない。


 歯噛みした依依は、どうしたものかと迷う。

 彼らの包囲網を無理やり突破することもできるだろうが、少なからず怪我人が出る。後宮内で問題を起こせば、依依の上司である宇静や、依依を任じた飛傑に迷惑がかかってしまう。


(まぁ、すでに問題は起こしてるけど!)


 宇静のように、後宮に立ち入るための特殊な腰牌すら持っていないのに、衝動のままここまで来てしまった。

 溜め息を吐いた依依は、くるりと背を向けその場を離れる。宦官たちは、気迫のわりに意外とあっさり諦めたものだと思ったようで、追ってこなかった。


 だが依依は諦めたのではない。その場をわざと遠ざかってから、大きく半円を描くようにして、恋華宮の裏手へと回っていたのだ。このあたりには警備は配置されていないのは、正面の厳重ぶりからして明らかだった。

 高い壁の上を依依は見上げる。

 以前、瑞姫と宇静と話した露台が欄干の先に見える。


 ……すぅ、と息を吸って。

 ふっと鋭く吐いた依依は、その高みに向かって、助走をつけて走り出した。


(りゃっ!)


 足先で、壁を思いきり蹴りつける。

 浮き上がった身体が落ちるより早く、また壁面を蹴り、蹴り、一気に駆け上る。

 壁を走る要領で蹴り上げ、両手でとうとう欄干を掴んだ依依は、身体をぐいと引き上げた。


 ふわり、と浮遊感が全身を包む。

 無事に着地した依依は、落下を防ぐための欄干を逆側から飛び越える。


「……よし!」


 呼吸を整える間もなく、再び走り出す。

 記憶している瑞姫の寝室の周りには、やはり何人もの女官が群がるように立ち尽くしていたが、必死の形相で駆け込む依依を見るなり、慌てふためきながらどいてくれた。


 足を止めるつもりのなかった依依は、寝室へと滑り込む。

 そこには、五人の人間の姿があった。


 寝台に目を閉じて横たわる瑞姫と――その手を握る飛傑、傍らに座り込む桜霞。

 それに、後ろに立つ宇静と仙翠である。


「……な!?」


 息を切らす依依を見るなり、口元を押さえて仙翠が悲鳴を押し殺す。

 飛傑と宇静も息を呑み、信じられないものを見る目で依依を見つめる。桜霞は、何が起こったか分からない様子で目を見開いている。


 四人分の視線をまとめて受け止めた依依は、その場にさっと傅いた。


「お咎めの言葉はあとで頂戴します。それより先に、どうか僕の話を聞いていただけないでしょうか」

「……何用だ」


 瑞姫の手を握ったまま、飛傑が掠れた低い声で応じる。

 応じてくれたことに安堵しながら、依依は言い放った。


「瑞姫殿下を蝕む症状と、その解決策が分かりました。薬を処方させてください」

「……なんだと?」

「いったい何を!」


 声を荒らげたのは仙翠だった。

 顔は青白く、唇は血の気を失っている。依依を睨みつける目には、怒りがにじんでいた。


「僕には薬の知識があります。故郷では薬を煎じる仕事もしていました」

「少し薬草に詳しいくらいで図に乗るな。今まで何人もの侍医が瑞姫様を診てきた。医術の心得もないくせに、なんのつもりだ」


 厳しい口調で詰られても、依依の目は揺らがない。

 仙翠が怒るのは当然だ。寝台に横たわる瑞姫の顔には生気がない。臨終のときが近いのだ。

 そのときを飛傑と宇静、桜霞が看取ろうとしていた。血を分けた彼らに残された時間は少ないが、それを依依は邪魔しようとしている。


 しかし依依も、並大抵の覚悟ではない。

 頭を床にこすりつけるようにしながら、伝える。


「もし僕の推測が間違っていたなら、死を賜ります。どんなに惨い刑でも構いません」


 そう言ってのけるものの、別に死にたいわけではない。

 けれど瑞姫に死んでほしくない。だから、できる限りのことをしたい。

 自分が導き出した答えが、正しいものだと信じられるから、この場に来たのだ。


 待つ時間は、本当に長く感じられた。

 永遠にも等しい時間には終わりが訪れ、飛傑が溜め息のような声で呟いた。


「そなたを信じよう、依依」


 依依はゆっくりと顔を上げる。

 飛傑も、相も変わらず顔色が悪かったが、依依を見つめる目にはかすかな期待が覗いていた。


 自分でも気がつかない間に、呼吸が乱れていたらしい。

 全身を流れる汗を感じながら、依依は目を見開き言い放った。



「――瑞姫殿下の持つ簪のすべてを、ここに持ってきていただけませんか」



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