第48話.すり抜けたもの
依依が灼夏宮へと姿を消したあと。
荒れた庭の中を手探りで進めば、泣き声が聞こえてきた。
好き勝手に生い茂る葉を掻き分ければ、そこでぐすぐすと
見開いた瞳からは滝のような量の涙が流れ落ち、形の良い小さな鼻からは鼻水まで垂れている。
妃とは思えない、情けない有様だ。まるで年端もいかぬ童のようだと思う。
しかしその赤銅色の双眸が、姉の去った方角をいつまでも見つめているものだから、宇静はしばらく放っておいてやることにした。
純花を後宮に連れてきたのは宇静の独断である。
下手人を捕まえるために罠を張るという依依に、宇静は協力した。
その作戦はうまく行ったが、まさか純花まで宇静と共に隠れていたとは、依依も思いも寄らなかったことだろう。
(依依が、灼家の人間だったとは)
しかも純花の姉だという。つい先ほど、依依は……灼
灼家ほどの大貴族であれば、後ろめたい事情はいくつでも抱えているだろうことは想像に難くない。隠された子どもが居ること自体には、別段宇静は驚かなかった。
――なぜなら宇静も、そのように生まれた人間だからだ。
(妹を守るために、依依は武官になったのか)
そして後宮に入り、妹の身代わりとなった。ずいぶんと健気なものだと思う。
今思えば常識外れの発言や振る舞いも、世間知らず故だと分かる。時折、鋭いことを言ったりもするが、依依の言動のほとんどは山奥の小猿のそれだ。灼家とは無縁に育ってきたのだから、と納得する。
その事実を純花も知らなかったのだろう。この様子からして、姉の存在すら知らされていなかったようだ。
いつまでも泣き続ける純花に、宇静は目を向ける。
こんなところに賢妃を放置し続けるわけにはいかない。純花が風邪でも引けば、依依に文句を言われる。
「一度、清叉寮に戻りましょう。灼賢妃」
「…………」
手巾を差し出せば、純花はこちらに見向きもせず慣れた様子で受け取る。
ちーん、と鼻をかむ間抜けな音が響く。宇静は何も言わない。
「……ねぇ。依依は、どうなるの?」
漠然とした問いだったが、純花の言葉の意味が宇静には分かった。
「皇帝陛下がいらっしゃっています」
それだけ返せば、十分のはずだった。
しかし真っ赤に泣き腫らした目で、純花は宇静を見上げてくる。
「わたくしは、ここに戻るべきかしら?」
「…………」
宇静は静かに目を細めた。
依依はただの身代わりだ。
皇帝の妃であるのは純花であり、依依ではない。
であれば純花をここに置いて、依依を連れ帰るべきなのだろう。
――そうしたいという思いが、少なからず宇静の胸にもある。
しかし、答えは決まっていた。
「
宇静の返答に、純花が下唇を噛む。
純花はそれ以上、何も言おうとはしない。また込み上げてきた涙を、力任せに袖で拭っている。
今夜、
皇帝が欲したのは花海棠の娘。春彩宴の儀で見事に舞ってみせた娘。
別の女のところに向かう皇帝に、どうぞと本心から勧めてみせるような風変わりな娘だ。
――『皇帝の許可が下りれば、俺はお前をどうにでもできる』。
先日までは事実だった。
だが、皇帝のお手つきともなれば、宇静にその手段は使えない。
そして飛傑の楽しげな横顔を思い出せば、彼にその気がないだろうということも分かりきっていて。
つい先刻まで掴んでいたはずの手の感触は、とうに去っている。
あのやかましい女の手を、宇静は二度と握ることはできないのだろう。
(初めて会った頃から、おかしな奴だった)
腕っ節が強く、木刀で男たちを滅多打ちにしていた。
腹が減ったから昼餉を食いたいと言い張り、山のような
他の武官と荒っぽく喧嘩もするが、気がつけば懐かれて彼らの真ん中で笑っていた。
自由で、身勝手で、人の目を奪う。
爛々と輝く赤銅色の瞳に、誰もが引き寄せられずにいられない。もちろん、宇静もその例外ではない。
だが今頃、依依は飛傑の腕の中に居る。
それを思うと、冷え冷えとした無力感だけが胸に満ちていく。
(こんなことなら、もっと早く……)
飛傑がその目に捉える前に、隠しておけば良かったと。
そんな風に考える自分の心の動きを、同時に宇静は不可解に思う。
今まで何も、ほしいと思うものなどなかったのに。
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