第41話.白くて丸い、もふもふの

 


 依依は清叉寮の庭に向かっていた。

 純花チュンファはどこに居るのか宇静ユージンに訊いたところ、そこで大事な役割の真っ最中だと言われた。それがなんなのか訊く余裕はなく、執務室を飛び出していたのだ。


 洗濯場が近いため、物干し竿には所狭しと洗濯物が干されている。

 男所帯ゆえか荒れた庭には雑草が生い茂っている。その中を、何かが縦横無尽に駆け回っていた。

 ようく見てみると。


「……犬?」


 見下ろす依依の足元に、はっはっと荒い息を吐くもふもふとした獣の姿があった。

 白い毛に覆われた小さな犬だ。人懐っこいのか、足首にすりすりとまとわりついては、伸ばした舌で服の裾を舐めてくる。

 野犬と格闘したことはあっても、家庭で飼われるような愛玩動物は高級で、見てもどういう犬種なのか依依には分からなかった。


 抱き上げてみても、犬はまったく暴れない。


豆豆ドウドウ、どうしたの?」


 困っていると、ひょっこりと現れたのは武官の格好をした純花だった。

 とたんに、豆豆と呼ばれた犬が依依の手をすり抜けた。突進された純花は尻餅をついたが、楽しそうに笑っている。


 それから彼女は、立ち尽くす依依にやっと気がついた様子で。


「あら、依依じゃない」


 依依は目を丸くした。


「よく分かりましたね。一目で私だと」

「分かるわよ。でもその変装はいただけないわね」


 豆豆を抱っこしたまま寄ってきた純花が、厳しく眉を寄せている。


「あなた、わたくしにちょっと似て顔は可愛いじゃない? それなのにひどい。ああっ、もう、近くで見ると本当に悲惨。なんて不細工なのかしら」


(不細工って)


 歯に衣着せぬ物言いに依依は苦笑いした。

 ところで、と気になっていたことを訊いてみる。


「その犬は?」

「豆豆? この子はわたくしのお友達よ。昨年の冬に、後宮に迷い込んだのを見つけて……それからずっと、内緒で外飼いしているのよ」


 くぅん、と豆豆が鳴く。

 どうやらこの犬のお世話というのが、純花の仰せつかっているお役目らしい。

 宇静も知っているのだから、清叉寮の全員で飼っているのだろう。


 豆豆の差し出した頭を撫でてやってから、純花が鋭い目を向けてきた。


「ねぇ、それでわたくしを狙っていた犯人は? 四夫人の中の誰かだったでしょう?」


 意気込んで尋ねてくる純花に、依依は首を横に振る。


「いいえ。彼女たちは違います」

「そうなの? てっきりあのいけ好かない三人の中に、犯人が居るものと思っていたけど」


 純花は意外そうに目を見開くと、ほっそりとした指を唇に当ててみせた。

 男の格好をしていても愛らしいその仕草は、彼女がここに居るべきではない貴人なのだと教えてくれるようだった。


「それなら、彼女たちの女官はどう? 主人のためにわたくしに悪さをしたのかもしれない。それか他の妃嬪たちかもね。その線でもう一度、探ってみてくれないかしら?」

「灼賢妃」


 矢継ぎ早に話す純花の言葉を、依依は遮った。



「あなたは、最初から犯人が誰か分かっていたんですね?」



 前置きなく、単刀直入に問うと。

 純花は赤銅色の瞳を、大きく見開いていた。その唇が震えていた。


「……どうして、そう思うの?」

「命を狙われていると恐れていたあなたが、自分からひとりになるのはおかしいからです」


 純花が顔を俯ける。

 細い腕に抱きかかえられた豆豆が、不安そうに鳴く。純花の頬のあたりをぺろぺろと舐めている。


「私と灼賢妃が初めて会ったのは、春彩宴の当日でした。あの日は、武官である私もそうですが……宮廷官吏を始めとして、楽士や踊り子など、外部の人間が大量に後宮の中に入っていましたよね。つまり、これ以上なく危険な日です」

「…………」

「そんな日なのに、あなたは宴の席をひとりで抜け出していた」


『人は何かに縋らないと生きていけないもんだ。みんながみんな、強いわけじゃないからね』


 若晴の言葉を思い出す。


 純花もきっと、何かに縋りたかったはずだ。

 でも彼女は後宮内で、呪われた妃だという心ない噂を流されていた。

 皇帝である飛傑の足は遠ざかり、妃嬪や女官たちにも距離を置かれていたのだ。


『初めて、目を合わせて呼んでくださいましたね』


 貴妃である桜霞は、賢妃を演ずる依依にそう言った。

 純花は他の妃たちとまともに話したこともないのかと、驚いたのだったが――でも、それは依依の誤解だ。


 なぜなら先日、来充容はこう言っていたから。


『呪われた妃と会話すると、呪いが移るという噂なのですわ。その他にも、呪われた妃と同じ空間に居たり、呪われた妃と同じ物を食べたりすると、すっかり呪われてしまうのだとか!』


 そんな風に言われてしまった純花は、もう、誰にも頼ることができなかったのだ。

 できるわけがない。話しかけるだけで、同じ場所に居るだけで相手も呪われてしまうのだから。

 それが真実でないと、本人はいちばんよく知っていただろうが――だからこそ、純花は孤独になってしまった。


 だが、そうした状況下だからこそ、本来なら頼るべき相手も居たはずだ。


 それは林杏や明梅たち。純花専属の女官だ。

 しかもあの二人は、純花の周りで次々と起こる事件を恐れた四人の女官が後宮を去っても、ずっと純花の傍に留まっていた。最も信頼の置ける相手だったはずだ。


 しかし春彩宴の日、純花はそんな林杏たちも振り切って姿を消した。

 その理由は、たったひとつしかない。



「あなたは、自分の女官が犯人だと分かっていたんですね」



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