第2話.灼家の姫

 


 冬の間、依依は看病に明け暮れた。


 若晴ルォチンは高い熱を何度も出した。

 数日で下がっても、またぶり返すのを繰り返す。


 依依は過去に若晴本人から教わった薬草を煎じ、消化の良い食事を作り、丁寧に身を清めてやった。

 しかし若晴の体力は落ち込むばかりで、回復の目処が一向に立たない日々は、明るさばかりが取り柄の依依の心境さえも、出口のない闇の中に追いやるようだった。

 それでも、伝染る病でなかったのは不幸中の幸いだと、そう思うことでなんとか気を保たせた。


 そんなある日のこと。

 病床の若晴が数日ぶりに、はっきりとした言葉を口にした。


「依依。……いえ、依依様」

「はぁ?」


 依依はきょとんとしてしまった。弱気になった若晴がふざけていると思ったのだ。

 しかし痩せ衰えた老女は、鋭い眼光で依依を見ている。落ち窪んだ眼窩の奥に嵌った目は、ギラギラと輝いていた。

 ほんの少し腹立たしいことに依依との手合わせのときよりもずっと真剣で、切羽詰まった表情である。


 気圧されながらも依依は、大人しくしょうの横に胡座をかく。

 ついでに布団の位置を直してやる。今や起き上がる体力もないのが口惜しげだったが、若晴は掠れた声で静かに切り出した。


「私はもう長くはないでしょう。今の内に、話しておきたいことがあります」

「どうしたのよ、改まって」


 依依はわざと明るい声を出した。若晴の話したいことよりも、「長くはない」という言葉がずしんと響いたからだった。



「依依様。あなたは、シャク家の姫君なのです」



(……ん?)


 首を捻る。

 今、わりと思いがけない言葉が聞こえたような気がするのだが。


(耳掃除したほうがいいかしら?)


 依依は本気で心配になり、行李こうりを開けようとする。衣類と一緒に耳かきなどの小物はここに仕舞っているのだ。

 と――、相変わらずの目つきで背後から睨まれているのに気がついた。


 振り返った依依は、手の動きを止めてへらりと笑った。


「私が、姫ですって?」

「ええ、依依様。あなたは正真正銘、灼家の姫君なのです」


 繰り返されても、やはり言葉の意味はうまく呑み込めない。


 灼家の名は知っている。南方に広く領地を持つ、香国でも有数の名家である。

 そんな最低限の知識はあるものの、それ故に自分と灼家がまったく結びつかないのだ。


 だが思考が停止する依依に、畳みかけるように若晴は続ける。

 なんせ人の話を聞かない癖のある依依である、これを好機と見た抜け目ない若晴だった。


「あなたのお母君の名前は、灼思悦スーユエ様。灼家直系の姫で、とてもお美しい方で……幼き頃より後宮入りを期待されていました。私は思悦様の乳母であり、護衛でもありました」


 そのあとの若晴の話をまとめるとこうだ。


 依依の母――思悦は、艶めく赤い髪に同色の瞳をした、それは見目麗しい少女だったらしい。

 これは灼家の人間の身体的な特徴だという。香国が成り立つ以前はシュ家の名で通っていた一族は、元は南方の大陸から流れ着いた旅人たちであったという。

 彼らは武勲の誉れ高く、南の大国からの侵攻を何度も跳ね返し、領土を守り抜いて見せた。

 建国時に第一代皇帝より朱改め灼の名を賜ったのは、その激しい気性と忠義の厚さ故だという。


(なら、私もやはりその血を引いているのかしら?)


 年頃の少女らしくなく喧嘩っ早い依依だが、それは灼家の血が流れている戦士だからなのかもしれない。

 依依が真剣に話を聞き始めたと分かったのか、若晴は少しばかり穏やかな口調で続ける。


「その高貴な赤の色が人目を惹くのは、何も戦場だけではありませんでしたがね……」


 歴代の灼家の姫君たちは、後宮にて何より香しい花として咲き誇ってきた。

 当然のことながら、思悦も周囲より後宮入りを熱望された。

 だが、思悦は生まれつき非常に病弱だった。医者からは二十まで生きるのは難しいだろうと言われていたという。


 そんな折に、思悦にある出会いがあった。

 身体の弱い娘を励ますため、両親が朱家の屋敷に呼んだという旅の一座。

 そこに属する青年と思悦は恋に落ち、二人の子を腹に宿した――。


「……その内のひとりが、私だって言うのね?」


 依依が反復すると、若晴が顎を引いてみせる。


「あなた様の本当の名前は、灼依花シャクイーファ。思悦様が自ら名づけられました」

「依花……」


 反芻してみても、実感には乏しい。

 とても信じられない話である。しかし、ひとつだけ納得できる点もあった。


 依依の髪の毛は、炭を垂らしたように黒いとよく言われる。

 というのも、髪を樹液で染めているのだ。材料の植物が採取できない時期は、若晴には叱られるがこっそりと墨汁で染め直すこともある。


 物心つく前は手ずから若晴が、物心ついてからはそうするようにと言い聞かせられ、自分でやっていた。

 染める前の髪色は爆ぜる炎のような赤い色をしている。こんな髪の色をした人間を、依依は他に見かけたことがなかった。


(単純に、悪目立ちするのを避けるためだと思ってたけど……)


 灼家の人間の特徴となるので、依依の身分を隠すために若晴が徹底させていたということだろう。


 そのあとも若晴は、いくつも知らない話を聞かせてくれた。

 依依は何度も相槌を打ち、ときには疑問を挟み、若晴の話を聞いた。耳を傾けた。

 今はそうするべきなのだと依依の鋭い勘は直感していて、だから若晴の枕元を離れようとは微塵も思わないのだった。


 やがて、やり残したことをやり切ったというように目を閉じかけた若晴に、依依はきっぱりと言い放った。


「若晴、前みたいに話してよ」

「……え?」

「そんな、知らない人を見るような目で私を見るのはやめて」


 若晴はまじまじと依依を見つめる。

 依依は胡座をかいたまま、胸を張った。


「私は楊依依よ。楊若晴が育ててくれた依依。私の正体がなんだろうと、その事実は変わらないでしょ?」


 声はどうにか震えずに済んでくれた。

 数秒の沈黙のあと、若晴がふっと笑みを漏らした。

 長い過去を語る前よりも、その姿はずっと小さく見えた。


「……そうだね依依」

「そうよ、若晴」

「あんたはあたしの、自慢の子だもの。あたしだけの……」


 おずおずと伸ばされてきた。

 痩せた皺だらけの手は、依依の頬へと寄せられる。

 水分の不足した乾いた手だが、その老婆の手を依依は何よりも愛おしく思う。


「いい子に育った。まっすぐ伸びた竹のような子だ。思悦様と違って、ずいぶんとじゃじゃ馬だけど……でも、瞳の輝きはあの方によく似ているよ」


 どう呼んだものか少し躊躇ってから、依依はその名を口にした。


「思悦は、赤銅色の目なんてしてなかったでしょ?」

「そうだね、あの方は月の兎の目をしていたから。だけどあたしは、あんたの目が好きだよ。相手を頭っから呑み込んじまいそうな、朱雀の目さね」


 頬を撫でる手に自らの手を重ね、依依は頬擦りをした。


 ――それは、身を切るように冷え込んだ夜のこと。

 しょうに横たわり、若晴にひっつくようにして依依は目を閉じる。


 なるべく分厚い服と布を引っ張り出して、それに獣の毛皮もまとって自分と若晴の全身を巻いている。

 そうしなければ、すぐに凍えてしまうだろう。それほどにこの村の冬は厳しいのだ。


 依依は静かに鼻を啜った。

 情けない嗚咽は、すぐ隣の彼女にも聞こえてしまっただろうか。


 そっと、呟くように呼ぶ。


「おやすみなさい、妈妈マーマ……」


 返事はなかった。

 両の瞳から涙が溢れ出る。

 しかしそれを止める術も知らぬまま、声を殺して眠りについた。


 翌日。

 目が覚めると、若晴の身体は冷たくなっていたのだった。



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