【3巻10/6発売】後宮灼姫伝 ~妹の身代わりをしていたら、いつの間にか皇帝や将軍に寵愛されています~【コミック1巻同日発売!】

榛名丼

第一部

第1話.依依の日常

 


「――はい、今日も私の勝ちね」



 手に持っていた、自分の背より高い棍棒を軽く回すと。

 楊依依ヤンイーイーは、勝ち誇るでもなくそう宣言した。


 すらりと伸びた手足をした少女である。

 炭のように黒く長い髪を、頭の上で馬の尻尾のように結っている。

 顔立ちは整っているが、艶のある赤銅色の目が何よりも強く人目を惹く。


 女性らしさには些か欠けるものの、若々しく瑞々しい肢体からは、漲るほどの生命力が躍動するかのようだった。


 そしてそんな依依に見下ろされた砂だらけの少年は、ごくりと喉元に込み上げた唾を呑み込む。


「――やっぱやべぇ、小猿シャオユェン!」

「みんな逃げろ、殺されるぞ!」


 叫びながら、依依によって伸されていた少年たちが次々と路地を逃げ出す。

 そしてこちらを振り返る彼らの口からは、悪しきあだ名が口々に聞こえてきて……。


「……あんたたちねぇ……」


 十六歳を迎えた花の乙女に向かって、なんという口を聞くのか。

 こめかみを押さえた依依は、ギロリと彼らを睨みつけると。


「そこに直れっ! 全員、仲良く背骨を叩き切ってやる!」


 棒を振り回して悪餓鬼たちを追いかける。ますます大きな悲鳴がそこかしこから上がった。

 周囲の大人たちは、仕方なさそうな、あるいは微笑ましそうな目でそんな依依たちを見守る。数少ない旅人は目を丸くして、何事かという顔をしていたが。


 これが辺境の小さな村でしょっちゅう見られる光景で、おなじみの日常でもある。





 依依の暮らす国は、その名を香国きょうこくという。

 香り立つほど優れると謳われし、華やかなる国――しかし田舎に住む依依は、国の名前なんて意識したこともない。


 というのも都からは遠く北に離れた、大した実りもなければ景勝地もない寂れた土地。

 そこで依依は、母親代わりの若晴ルォチンと二人で暮らしているからだ。


 依依は毎日畑仕事をして、ときに日雇いの用心棒を請け負うこともある。

 若晴は畑で取れた野菜を売りに出たり、同じく育てた薬草を煎じることもある。

 互いの稼ぎは微々たるものであるが、女二人が暮らしていくには、十二分とは行かずとも十分である。


 持ち手の一部が欠けたお椀の中身をもぐもぐと頬張りながら、依依はそんなことを考えている。

 猪の肉と野菜の端っこ、それに刻んだ生姜をグツグツと似た吸い物に、麦飯。それと近所のおばちゃんが分けてくれた沢庵が、本日の夕食の献立だ。


 大根の漬物は味が濃く、麦の飯でもよく食が進む。

 しかし少しだけ贅沢を言うならば、久方ぶりに白飯が食べたいものである。

 お椀に真っ白い、香り高い誉れある山を盛りつけて。

 ほかほかの湯気を吸い込みながら、顎が外れるほどに口を大きく開いて――。


(うっ……お腹空いてきた)


 きゅるきゅると鳴りそうになる胃袋を慰めるため、麦飯を咀嚼する。


 すると向かいに座った若晴が、細めた目を向けてきた。

 年老いた皺だらけの女は、背に板でも入れているようにぴしゃんと背筋を伸ばして、厳しい目を向けてくる。

 その目で見られると、反射的に依依も姿勢を正してしまう。


「聞いたよ依依。あんたまた、棒を持って子どもたちを追いかけたんだってね」

「あいつらが、鍛えてほしいって言うからよ」


 言いわけめいてはいるが、紛うことなく真実である。

 しかし途中からは、悪鬼の形相をした依依に追いかけ回され、地面を転がりながら涙と鼻水を垂れ流す子どもたち――という悲惨な絵面になっていたことを、依依はまったく自覚していなかった。


 それを聞いた若晴は、やれやれと言いたげに溜め息を吐く。


「どうして、こんなにお転婆に育ったんだか」

「何言ってんの。私に武術を仕込んだのは若晴でしょ」


 箸を止めて依依が言い返せば、じっとりとした目つきのまま押し黙る若晴。


 そう、目の前に座る若晴こそ、依依に武芸を叩き込んだ張本人である。

 見た目は単なる老女。十数年前からその見た目はあまり変わらない若晴なのだが、恐ろしいほどに武器や武術に精通している。


 振り返ってみると、幼少の頃。箸よりも早くから、依依は木刀を握らされていた気がする。


 若晴の教育はそれはもう厳しかった。

 日の出前の薄明の中、村の周りや森を走った。

 木刀を持ち何百回と素振りをした。ときには滝に打たれ、山に籠り、凶暴な獣と戦ったこともある。

 現在進行形で、これらの修行は自主的に続けている依依である。現に、本日の食卓を彩っている塩漬け肉だって、元は依依が狩った猪なのだ。


 そして依依は、未だに喧嘩――この場合、なんでもありの殴り合いのことを指す――で、若晴に勝利したことが一度もない。

 数年前に若晴は足を痛めてしまい、それ以降は一度も殴り合っていないのだが、今戦っても勝てるかどうかは微妙な線である。


 武芸だけでなく、依依は文字の読み書きについても若晴から教わった。

 他にも野菜の育て方、薬草の煎じ方と、挙げればきりがないのだが、生きる上で必要なことも、そうでないことも、多くを若晴が教えてくれた。


 そうして多岐に渡る教育を施された依依だったが、結果的に村娘らしさは皆無。

 身軽で飄々とした佇まいからか、村の人々からは"小猿"などと不届きなあだ名をつけられる始末である。


 しかし依依自身は、若晴によって鍛え上げられた己をそれなりに気に入っているのだ。

 この村に住む者には、男だろうと依依の敵は居ない。

 特に手足の長さを活かした棍棒術が得意な依依は、他にも刀剣、弓矢、槍や鎌に斧に鍬など、一通りの得物は使いこなせるまでに成長した。


(武器としてより、主に畑仕事で使ってるんだけど……)


 時折、わけありらしき旅人に短期の用心棒を頼まれることもあり、怪しい追っ手やら盗賊やらと相対することもあるわけで、そういう意味では貴重な能力である。

 ただし最近は、少々筋肉がつきすぎたような気がしなくもない。

 同じ年頃の村娘たちと比べ、どうにも依依は。性格や勘の話ではなく、体格の話だ。


 十五歳を迎えたというのに未だ浮いた話のひとつもないのは、少なからず、そこに原因があるような気もする。

 そう、たぶんそこが理由だ。

 女らしさの欠片もない性格だとか、豪快な気質だとか、そこらへんのせいではない。……たぶん。


(でもまぁ、いいか)


 向かいの若晴と、偶然同時にお椀を傾け、ずずっと吸い物を飲み干しながらそう思う。


 このまま自分は、若晴と共に小さな田舎村の片隅でのんびりと暮らしていくのだ。

 恋や愛だのは、依依には理解にほど遠い感情。別に無理に理解したいとも思っていないのだから、それでいい。


 家族のこともよくは知らない。

 幼い頃に、若晴と血の繋がりがないことは彼女によって聞かされていた。

 ならば本当の家族は誰なのか、今はどこに居るのか。


 そう訊きたかったが、若晴が暗い顔をしていたから、その先を問うのを依依はやめたのだ。

 それを訊けば、若晴は自分自身の身の上も、依依に語らなければならないだろうから。


 ――若晴がどうして武術に通じているのか。

 村でたったひとりだけ文字の読み書きができるのか。


(若晴が何者かどうかだって、別に、どうだっていい)


 依依にとっての親は、家族は、若晴ただひとりだけだ。


 だから寝る前に毎日、長生きしてね、と若晴の背中に両手を擦り合わせて念じ――そのたび気配に気がついた老女がすごい目つきで振り返るので、笑って誤魔化している。


 しかし依依の思い描く他愛ない将来は、その数日後に崩れ去ることとなった。

 若晴が病に罹り、倒れたからである。



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