【3巻発売中】後宮灼姫伝 ~妹の身代わりをしていたら、いつの間にか皇帝や将軍に寵愛されています~【コミック2巻8/6発売!】
榛名丼
第一部
第1話.依依の日常
「――はい、今日も私の勝ちね」
手に持っていた、自分の背より高い棍棒を軽く回すと。
すらりと伸びた手足をした少女である。
炭のように黒く長い髪を、頭の上で馬の尻尾のように結っている。
顔立ちは整っているが、艶のある赤銅色の目が何よりも強く人目を惹く。
女性らしさには些か欠けるものの、若々しく瑞々しい肢体からは、漲るほどの生命力が躍動するかのようだった。
そしてそんな依依に見下ろされた砂だらけの少年は、ごくりと喉元に込み上げた唾を呑み込む。
「――やっぱやべぇ、
「みんな逃げろ、殺されるぞ!」
叫びながら、依依によって伸されていた少年たちが次々と路地を逃げ出す。
そしてこちらを振り返る彼らの口からは、悪しきあだ名が口々に聞こえてきて……。
「……あんたたちねぇ……」
十六歳を迎えた花の乙女に向かって、なんという口を聞くのか。
こめかみを押さえた依依は、ギロリと彼らを睨みつけると。
「そこに直れっ! 全員、仲良く背骨を叩き切ってやる!」
棒を振り回して悪餓鬼たちを追いかける。ますます大きな悲鳴がそこかしこから上がった。
周囲の大人たちは、仕方なさそうな、あるいは微笑ましそうな目でそんな依依たちを見守る。数少ない旅人は目を丸くして、何事かという顔をしていたが。
これが辺境の小さな村でしょっちゅう見られる光景で、おなじみの日常でもある。
依依の暮らす国は、その名を
香り立つほど優れると謳われし、華やかなる国――しかし田舎に住む依依は、国の名前なんて意識したこともない。
というのも都からは遠く北に離れた、大した実りもなければ景勝地もない寂れた土地。
そこで依依は、母親代わりの
依依は毎日畑仕事をして、ときに日雇いの用心棒を請け負うこともある。
若晴は畑で取れた野菜を売りに出たり、同じく育てた薬草を煎じることもある。
互いの稼ぎは微々たるものであるが、女二人が暮らしていくには、十二分とは行かずとも十分である。
持ち手の一部が欠けたお椀の中身をもぐもぐと頬張りながら、依依はそんなことを考えている。
猪の肉と野菜の端っこ、それに刻んだ生姜をグツグツと似た吸い物に、麦飯。それと近所のおばちゃんが分けてくれた沢庵が、本日の夕食の献立だ。
大根の漬物は味が濃く、麦の飯でもよく食が進む。
しかし少しだけ贅沢を言うならば、久方ぶりに白飯が食べたいものである。
お椀に真っ白い、香り高い誉れある山を盛りつけて。
ほかほかの湯気を吸い込みながら、顎が外れるほどに口を大きく開いて――。
(うっ……お腹空いてきた)
きゅるきゅると鳴りそうになる胃袋を慰めるため、麦飯を咀嚼する。
すると向かいに座った若晴が、細めた目を向けてきた。
年老いた皺だらけの女は、背に板でも入れているようにぴしゃんと背筋を伸ばして、厳しい目を向けてくる。
その目で見られると、反射的に依依も姿勢を正してしまう。
「聞いたよ依依。あんたまた、棒を持って子どもたちを追いかけたんだってね」
「あいつらが、鍛えてほしいって言うからよ」
言いわけめいてはいるが、紛うことなく真実である。
しかし途中からは、悪鬼の形相をした依依に追いかけ回され、地面を転がりながら涙と鼻水を垂れ流す子どもたち――という悲惨な絵面になっていたことを、依依はまったく自覚していなかった。
それを聞いた若晴は、やれやれと言いたげに溜め息を吐く。
「どうして、こんなにお転婆に育ったんだか」
「何言ってんの。私に武術を仕込んだのは若晴でしょ」
箸を止めて依依が言い返せば、じっとりとした目つきのまま押し黙る若晴。
そう、目の前に座る若晴こそ、依依に武芸を叩き込んだ張本人である。
見た目は単なる老女。十数年前からその見た目はあまり変わらない若晴なのだが、恐ろしいほどに武器や武術に精通している。
振り返ってみると、幼少の頃。箸よりも早くから、依依は木刀を握らされていた気がする。
若晴の教育はそれはもう厳しかった。
日の出前の薄明の中、村の周りや森を走った。
木刀を持ち何百回と素振りをした。ときには滝に打たれ、山に籠り、凶暴な獣と戦ったこともある。
現在進行形で、これらの修行は自主的に続けている依依である。現に、本日の食卓を彩っている塩漬け肉だって、元は依依が狩った猪なのだ。
そして依依は、未だに喧嘩――この場合、なんでもありの殴り合いのことを指す――で、若晴に勝利したことが一度もない。
数年前に若晴は足を痛めてしまい、それ以降は一度も殴り合っていないのだが、今戦っても勝てるかどうかは微妙な線である。
武芸だけでなく、依依は文字の読み書きについても若晴から教わった。
他にも野菜の育て方、薬草の煎じ方と、挙げればきりがないのだが、生きる上で必要なことも、そうでないことも、多くを若晴が教えてくれた。
そうして多岐に渡る教育を施された依依だったが、結果的に村娘らしさは皆無。
身軽で飄々とした佇まいからか、村の人々からは"小猿"などと不届きなあだ名をつけられる始末である。
しかし依依自身は、若晴によって鍛え上げられた己をそれなりに気に入っているのだ。
この村に住む者には、男だろうと依依の敵は居ない。
特に手足の長さを活かした棍棒術が得意な依依は、他にも刀剣、弓矢、槍や鎌に斧に鍬など、一通りの得物は使いこなせるまでに成長した。
(武器としてより、主に畑仕事で使ってるんだけど……)
時折、わけありらしき旅人に短期の用心棒を頼まれることもあり、怪しい追っ手やら盗賊やらと相対することもあるわけで、そういう意味では貴重な能力である。
ただし最近は、少々筋肉がつきすぎたような気がしなくもない。
同じ年頃の村娘たちと比べ、どうにも依依は
十五歳を迎えたというのに未だ浮いた話のひとつもないのは、少なからず、そこに原因があるような気もする。
そう、たぶんそこが理由だ。
女らしさの欠片もない性格だとか、豪快な気質だとか、そこらへんのせいではない。……たぶん。
(でもまぁ、いいか)
向かいの若晴と、偶然同時にお椀を傾け、ずずっと吸い物を飲み干しながらそう思う。
このまま自分は、若晴と共に小さな田舎村の片隅でのんびりと暮らしていくのだ。
恋や愛だのは、依依には理解にほど遠い感情。別に無理に理解したいとも思っていないのだから、それでいい。
家族のこともよくは知らない。
幼い頃に、若晴と血の繋がりがないことは彼女によって聞かされていた。
ならば本当の家族は誰なのか、今はどこに居るのか。
そう訊きたかったが、若晴が暗い顔をしていたから、その先を問うのを依依はやめたのだ。
それを訊けば、若晴は自分自身の身の上も、依依に語らなければならないだろうから。
――若晴がどうして武術に通じているのか。
村でたったひとりだけ文字の読み書きができるのか。
(若晴が何者かどうかだって、別に、どうだっていい)
依依にとっての親は、家族は、若晴ただひとりだけだ。
だから寝る前に毎日、長生きしてね、と若晴の背中に両手を擦り合わせて念じ――そのたび気配に気がついた老女がすごい目つきで振り返るので、笑って誤魔化している。
しかし依依の思い描く他愛ない将来は、その数日後に崩れ去ることとなった。
若晴が病に罹り、倒れたからである。
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