隣人 作:奴
集合住宅のかたちをした学生寮だから、隣人がいるのは何らおかしいことではない。どこの部屋に居住しても右と左とに見知らぬ人が壁を隔てて生活している。角部屋であれば片方だけということになるが、それにしても隣人がある可能性は、空き部屋でないかぎり拭えない。
わたしにとくだん交友があるのでもない。寮の開く交流会に顔を出さなければいつまでも左右の学生は素性のまったく不明な他人のままである。だがわたしは同じ寮の同じ部屋で一年、二年と生活を営むうち、ベランダを通じて彼らのことを断片ばかり知るに至った。
まず、どちらの隣人であれ、一年と経たずほんの半年ほどで寮を出て行ってしまうことがわかった。というのも窓を開けそのそばで本など読んでいると、ベランダから明らかに洗濯物を干す音や電話する声やたばこだの蚊取り線香だの煙を焚いている香りが我が身に届く。その無数の社会的行為の痕跡のなかには各人さまざまの特徴があり独特の生活様式がある。それをひとつごと挙げていけば寸断なく列挙できるが、数日静かになったと思うとつい先週とは明らかに異なる生活形態の人間の生きる音が聞こえる。
わたしが大学に入学してすぐにこの部屋に入ったのだが、最初の一年は隣同士の関係にあった、ベランダ向かって右側の某は早朝六時ごろから動き出して夜九時には寝る。遊びたい盛りの精力のあり余る齢の者がこうした規律のある生活を送っているのはすこし意外であった。わたしは彼の就寝時刻と起床時刻を、徹夜した結果発見した。わたしがさあ寝ようという時間に彼はがなる時計を止めてカーテンを開けていた。
その彼も一年経って次の春、わたしが長い帰省から帰ってくるといなくなっていったようだ。それがわかったのは、やはりベランダを通じて耳にする生活音であった。わたしが故郷から部屋へ帰り、しばらくの休暇を置いてまた新学期というころ、深夜であるのに右の部屋からは人の声がしていた。以前の彼ならきっと眠っている時分だが、昼夜問わずいろいろのときに電話で話す声が右の部屋から絶えなくなった。むろん笑い声がうるさいというのではない。春や夏、網戸だけを閉ざして窓辺で午睡していると、右の部屋のほうで明らかに会話する声がある。そうして電話越しの人の声もぼんやり聞こえた。今ここで思い出して書けるほど厄介事を話したことは記憶のかぎりない。些細なことを静かに話していた。おそらく真顔か、心を許す者に向ける平和的の微笑を浮かべた顔であったろう。この新たな隣人はときにラジオでニュースを聞いていた。とくに夜七時ごろになれば低く明瞭な声色のアナウンサーが時事を伝える粛々とした報道が耳に入る。わたしは勝手にそれを盗み聞きして、時勢を知った。わたしにあるのはただ本ばかりであった。
だがこの隣人も数か月で消えてしまって、ふとするとまた右のベランダから材木をいじる音がする。鋸で切ったり金槌で釘を打ったりする高く響く音が、以前の通話の声よりもラジオの声よりも鋭く激しくわたしを揺すった。ときにその日曜大工の音に叩き起こされ閉口した。
しかし彼もじきに出て行った。
このようにして誰も彼も長くは住まなかった。ひとつには大学から近いという以外の好条件がないからだろうが、わたしは本さえあればいいと居座った。だからこそ次々移り変わる隣人の生活模様を知られたのだった。
しかしベランダの方角を見て左の部屋に住む者のことはいかに書くべきだろう? わたしには一度としても、左の部屋に人の住んでいる気配が感じられなかった。右側では種々の音がして、先週聞かなかった音が聞こえる、どうやら生活習慣の違う者がまた入ってきたらしいなどと思っていたが、左側にはいっさい関心を呼び起こすことがなかった。これでもう三年目も半年過ぎてしまった。わたしはそれに寂しさを覚えていた。ただしこうした季節の変化のごとき人の活動様相を夙夜、右でも左でも感じ取るのは、神経質のわたしにはすこし酷であったろうけれど、と今になって思う。
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