2021年度・九州大学文藝部・学祭号

九大文芸部

アンバーブライト 作:有明榮


 わたしは彼の絵を二度、見たことがある。一度目は彼の泊まっていた部屋で偶然見かけた、娼婦か貴族の娘か、ともかくどこかの美しい女の、王室書記官(スクリーヴェ)の帳板くらいの大きさをした肖像画だった。そして二度目は、彼が皇子の御抱え画家(ピットーリ)になることが決まる時の、静物画である。最初にそれを見た時――つまり持ち込みのイーゼルにかけられた肖像画を見た時――、ひどい動揺を覚えたことを今でも鮮明に記憶している。なにしろ当時では考えられないような技法で描かれていたのである。

まず、その画面には像主の女のみが描かれているのだ。ふつう肖像画というと、我々のあいだでは長方形のカンヴァスの上に、像主の全身を側面から見たように、或いは四分の三正面から見たようにして描き、その背後には彼の――大概の像主は王族とか貴族とか、あるいは国を乗っ取った傭兵隊長とか、すなわち男だった――偉業を讃える様々なものを添える。

例えば、彼とも皇子の御抱え画家の座を争ったフィリップがかつて描いた先王アビアタルの肖像の背後には、王国と国境を挟んで北東に跋扈する遊牧民の酋長――通称蛮勇王(イル・バルバロイ)と呼ばれた馬乗りである――の侵攻を跳ね返した後に復興した東の都ボルネー郊外の、黄金色に波うつ穏やかな麦畑と、その遥か彼方に薄らと見える国境警備のための石造りの要塞が、中央の王宮から窓越しに見えるようにして描かれている。

わたしの度肝を抜いたのはそれだけではない。絵が黒いのだ。像主の女がはっきりと描かれているその周りは、黒色の顔料でこれでもかと塗りつぶされている。まるで彼女が、新月の夜に丁度明かりを灯したばかりのランプのように、今しがた闇からぼんやりと浮かび上がったような具合なのだ。このような技法は未だかつて目にしたことはなかった。

王宮学芸係として、わたしは巨大な壁画(アッフレスコ)から、遥か東に浮かぶ絹の国(ヤムタル)よりもたらされる磁器に描かれた細密な陶彩まで、少なからぬ数の絵画を見てきた。だがこれほど見る者の眼を撃つ絵画もそうそう存在しないだろう。それほどに物珍しく――いや、そのような生易しいものではない。真新しすぎたのだ。見る者の眼を楽しませ、世界に満ちる光の中に像主を美しく描き出す。それが本来の肖像画の在り方であったはずだ。

だが彼の描く絵から放たれるのは、美しきものも、醜きものも、その両面を真正面から覚悟を決めてとらえる、ありのままの世界。対象のみを純真な目で捉え、そのほかの世界を闇のなかに葬り去る、人間の視覚にもっとも肉迫した、それでいて観念的な世界。その二つの世界が、肖像画でも静物画でも、見事に一つの世界に融合されていた。人物の顔のしわから傷跡から、静物であれば果物の傷んだ部分に枯れかけの蔓と葉、そうした『目を覆いたくなる部分』を臆することなく描いていたのだ。

当時文化の最先端を走っていた王都、ロムルスの知識人階層にあったわれわれは、自分たちの眼のご都合主義に対する批判をまざまざと突き付けられることになった。あるものは彼の絵画に唸り、またあるものはこんな絵画は画学に対する冒瀆とさえ批判した。われわれでさえ、正当な評価を下しえなかった……。

そういえば、わたしが彼を一目見た時、ある確信に近い直観があった。

「彼のような芸術家はきっと生きてはゆけまい」……

今となってはこれがまったくの見当違いだったわけだが、彼を一目見た者は大抵、まさか王宮に仕える芸術家たりうるだろうとはつゆとも考えなかった。ロムルスよりさらに北、モンテ・アルピの麓にあるクラヴァト村から出てきたとき、彼は二十歳にもなっていなかった。ひげはきれいに剃られていたものの、癖の強い黒髪が肩にかかっており、服装もロムルスにおいてはかなり見劣りするさまだった。袖口を絞った長袖シャツに色褪せた褐色のズボン、よれて繊維が所々ほつれている焦茶色のブーツ。確かにこの社会における芸術家の服装としては一般的なのだが、それでもロムルスの芸術家たちはもう少し色鮮やかな印象がある。

彼は魔法が使えなかったので、王宮そばの宿舎には荷物は所有の黒毛の馬に括りつけてきていたわけだが、それも質素な麻袋二つと革袋一つにまとめられていた。革袋の方はかなり年季が入っていて、中には画材をまとめていたらしく、わたしが馬から荷物を外そうとすると、

「いや、それは自分で外すよ」

と言って馬との間に割り入ってきた。やんわりとした口調だったし、見た目に反してかなり社交界に浴してきた言い方だったのだが、底知れぬ怒気が両の眼から一瞬零れたのをわたしは見逃さなかった。その分野においては、確固とした自分の領域をもっているらしかった。

なんにせよ、いくら身の振り方に磨きがかかっていたとしても、言ってしまえば『田舎者』然とした格好で出てきた、このロレンツォ・グイドバルドという若者が、王宮という社交と思惑の坩堝の中で生き延びていけるなどと、誰も考えもしなかったのだ。……



第一幕


 わたしは赤いローブのぐあいを整え、暖炉に扉飛び粉(プードル・ポルタ)を撒くと、青色の炎の中に飛び込んだ。飛び込んだ炎から滑り出た先に、深緑と群青色の鮮烈な幾何学模様(モザイク)が目に飛び込み、一瞬視界をくらませる。わたしと同じ格好の男女が両壁の暖炉から三三五五姿を現し、今年の天候がどうだとか、麦の収穫量が減りそうだとか、娘の嫁ぎ先がどうだとか言い合う声が、革靴の音と共に天井の高い廊下に反響する。

五人の魔法師が王国の出発と共に百年の歳月をかけて建てたと伝えられている、エートル王国の大聖王宮(カステル・サンティ・マッジョーレ)。

エートル王国と聞いて、訪れたことのない者はいるにしても、その名を知らぬ者は世に存在しないであろう。大陸を東西に横断する交易路の出発点――或いは終着点であり、世の理をなす魔法の源泉でもある。北の山脈モンテ・アルピより流れ落ちるアプニーノ川が、アルナス、タヴィラという二つの河川に分岐する位置に築かれた王都ロムルスには古来精霊(アニモ)たちが集い、彼らの導きに従って優秀な魔法師が育っていった。彼らは精霊と共に森を拓き、荒野を越え、河を渡って、エートル王国を築き上げた。この国の民は非常に強かで、かつ野心的だったので、魔法師の次は強き意思を持つ商人が中心となって交易路を伸ばしていった。その交易路は今や、大陸の東端を挟んだ島国の絹の国(ヤムタル)から、西端のガリリア王国まで、馬より速い魔法師の箒で太陽の出ている間じゅう走ってなお、横断に二週間かかるとさえ言われる長さを誇っている。経済と文化と、王国の名。名実ともに栄華を極めた国が、確かに存在している。

最新の統計帳簿を参照すると、今や魔法師とまではいかずとも、魔法を操る民は人口の半数程度にまで達しているらしい。魔法はこの国の廻転になくてはならぬ存在となり――食事の準備から、傷薬の生成、庭球技(パローネ)、住居の建築にいたるまで――規模の大小はあれど、民の生活を支えている。

一方で魔法を操ることのできない者の存在を忘れてはならない。わたしたちのような王室に仕える者は、国を統べる立場として、多くの民の幸福に気を配る必要がある――魔法を使えるか否かで、民の暮らしに不平等があってはならない。その意味で、先王アビアタルは随分と心を砕いていた。かねて王室公認組合の一つであった職人組合を、自由組合に加えたのである。王室公認組合の多くは、農業組合、漁業組合など、魔法を使えぬ者達の組合。対する自由組合は、占星学組合、医師組合など、魔法を使う者達の組合だった。それだけに、職人組合が自由組合に組み込まれるのは当然、異例のことだった。さらに先王は、その際にある条件を加えた。


――原則、組合員は魔法を使えぬ者であること。


かの老人は、芸術に並々ならぬ関心を抱いていた。いや、その可能性を信じていたという方が正しいだろう。それが美しい見た目を誇るというだけでなく、それが、魔法を使えぬ者達が生み出す、魔法に勝るとも劣らない技量の結晶であるという点において。

そしてアビアタルの独特の感性は、その子サムエル王を飛ばして、孫に引き継がれるかたちで発揮されることとなった。

王宮学芸係のわたしは、ある特別な任を負って、休日にも関わらず王宮に――正確には、その離宮、葵離宮(パラッツォ・マルヴァ)に足を運んでいた。その名の通り、尖塔、正門など建物の一部が葵色の石材で装飾されている。この離宮を捧げられたこの国のある皇子の、アビアタル先王から受け継いだ芸術への関心が、これから結実しようとしていた。

ローブから取り出した杖を軽く振ると、謁見の間の扉が開く。メンバーはほとんど揃いつつあった。私が席についてしばらくすると、扉から二人の老人を控えた少年が入って来る。アビアタル先王の孫にして、サムエル五世の次男、葵離宮の城主。ヨシュア皇子である。


「――面を上げよ」

臙脂色の玉座についたヨシュアが、落ち着き払ったよく通る声で言う。二年半前に成人の儀を終え、幼名レビから改名した皇子は現在十七歳。父である国王サムエル五世に似ず、身体が弱く武芸は専ら不得意である一方、兄弟の中では随一の切れ者の彼は、魔術にも長けていながら「純粋な人の手」が生み出すものにも強い関心を抱いていた。おそらく彼の祖父であるアビアタル先王の影響が強いのだろうが、そんな「軟弱者の」皇子に対し、父サムエル五世は疎ましさを拭いきれないらしい。

そういったこともあり、皇子は成人してから王宮から少し離れた専用の離宮で比較的悠々自適な生活を送っていた。わたしを含めた王宮学芸係と宝物庫の品々を品評したり、異国から訪れる骨董屋と彫刻の話をしたりしている時間が長い。もっとも、仕事が保障されている上に皇子の慧眼には常々驚かされているので、わたしもそのような生活になんらの不満も抱いていなかった。


ヨシュアが御抱え画家(ピットーリ)の制度を提案してきたのは、昨年の秋のことである。王国を南東に進んだところに位置するテルク帝国からの画商を見送った後、皇子はわたしたちを呼び寄せた。机に羊皮紙が散らばっているあたり、内心興奮冷めやらぬ様子なのだろうが、皇子はあくまで平静を装い、自室に集まったわたしたちを見て言った。

「テルク帝国の王室には直属のモザイク職人がいるという話を聞いた。我々の王宮でも直属の芸術家を雇えないものだろうか」

「王室直属の芸術家、でございますか?」

豆鉄砲をくらった鳩のようにぽかんとしてわたしは訊ねた。

「そうだ。思えばロムルスは『天地開闢以来都であり続けた世界の中心』――建国神話の語りに劣らず、実際にこの街は東西の交易路の終着点だ。それはお前たちもよく知っているはず。しかし歴史がいくら長かろうと、文化はどうだ。たしかにおじい様は――アビアタル王はよく芸術を好み、王室の財産をしばしばロムルスの画家たちに投資してくれていた。簡素になり過ぎないこの王宮の美しさと、街中のよき雰囲気は正にその結実ともいえよう」

「ええ、まさにその通りです」

うなずくわたしの解答に満足げな様子で、ヨシュアは話を続けた。

「だが今の国王はどうだ――父上は巧みな武術と強さ以外の何物にも興味を抱かない。まさに武人たるお方だ」

「わたくしが申し上げるのもおかしな話ではございますが」と、同じく学芸係で最年長のヨセフが静かに進言する。

「サムエル王の質実剛健な性格で、この国の財政が持ち直したのも事実でございます……もっとも、先王のご治世におきましてボルネーを襲った旱魃、それに伴う飢饉と財政難、そして蛮勇王の侵攻は不運としか申し上げようがございませんが、それを考慮してもなお先王は多少気の大きなお方でありましたゆえ」

 なるほどヨセフの進言は否定しようがないものだった。いくら魔法が世界に存在するとしても、それが大規模な飢饉や旱魃に太刀打ちできるわけではない。先だっての飢饉で確かに彼らは活躍した。が、国中の国家魔法師を総動員して、ようやく被害を受けた水田の五分の一を涵養することができたのだった。加えて、異民族の侵攻を撃退するために急きょ編成された軍の補給のためにも、食糧は確保されている必要があった。したがって、エートル全土で穀物を中心に食料価格が高騰。いたる街から届く困窮の声に対応すべく、王家は一時的に麦と米を買い上げ、それを民に再分配するほかなかった。王家に協力的な貴族のいくつかの家が買い上げを担ってはくれたものの、この出費が王家にとってかなりの痛手だったことは間違いない。

 そしてアビアタル先王の死後王位を継いだサムエル王は、辣腕の宰相と共に逼迫した国の財政の立て直しに着手。貴族、農民、市民にそれぞれ応じた税を適用して国家の収入を増やし、さらにボルネーとその南の港町シェスリィに要請して工芸品の生産を拡大させ、財政難で失職した市民に雇用を開くことに成功したのである。

「うむ……それはわかっている」とヨシュアが言う。思考を巡らせるときに頤に親指を当てるのは、彼の癖であった。

「されどロムルスは先程も申したように、あらゆる国々の人と物が行きつく場所。財政が持ち直した今であればこそ、芸術に投資するべきであろう。既に先王の時代に活躍した画家たちは今や立派な工房主になっているはず。ここで渋れば、後々の文化が廃れてしまうこともあり得る。それだけは避けたいのだ」

「しかし皇子、なぜわざわざ御抱え画家という位階を設けるのです? 単に芸術を興すのであれば、現状の画学院(アカデミア)を拡大すればよいかとも思うのですが」と口を挟んだのは、アビアタル王の頃から画学院長を務めているジョルジュである。

白髪が目立ってきた初老の男のことばは、恐らく彼の野心からではなく、単純な疑問からだろう。もっとも、年一回の総覧会でしきりに画学院生の作品を称讃し、工房の徒弟たちが作る作品に対して辛口になるという彼のあからさまな態度を知っている者は、野心故の発言であると思っただろうが。

我々の勘繰りを他所に、ヨシュアは口を開いた。

「確かにその通りだ、ジョルジュ。しかしこれには二つの訳がある。一つはそなたの画学院、こちらも重要だが、それだけでもいけない。画学院には画学院の目指す芸術の姿がある。だが王都に――いや、王国に存在する工房にはその工房が目指す芸術の姿があるのだ。数多の芸術家たちの切磋琢磨、相異なる芸術の百花繚乱。これこそが我が国にあるべき芸術だと私は思っている」

 王国内の有力な工房から集められた芸術の精鋭たち、その凝縮した空間としての王宮――それが王都を中心に新たな芸術の波を起こすだろうということだった。ジョルジュは些か不満げであったが、それは間違いないことです、と理解を示していたのは、やはり彼も一介の画家であるがゆえだろう。

 ところでもう一つの理由はどのようなものです、とわたしは尋ねた。ヨシュアの頬がわずかに赤らんだのは、窓から差し込む夕日のせいだけではなかった。

「一度は私も持ってみたかったのだ……直属の臣下というものをな」

 やはり彼も、王家とは言えひとりの少年なのであった。


 この試験のために特別にイーゼルとカンヴァスが並べられた謁見の間には、予選を通過した二十人の画家が一列に並び、跪いていた。ヨシュアの声を合図に、各々が顔を上げる。そのうちの一人から発せられる『あの怒気』を含んだ視線は、わたしを一瞬捉え――次に皇子に注がれた。皇子もきっと、それに気づいていただろう。

 皇子の脇に控える審査員の列から、ジョルジュが一歩進み出て縦長の羊皮紙を拡げると、中空にそれを留まらせる。彼は国家魔法師の職を辞し、画学院を起こしたのだった。

「それではこれより、エートル王国ヨシュア皇子御抱え画家のための最終選抜試験を執り行う。受験者、第一番ロレンツォ・グイドバルド、第二番フィリップ・ブリューナレスク……」

 豊かな銀色の髭を揺らしながら、年の割にのびやかな声でジョルジュが試験規定を読み上げた。この試験で、選ばれた二十人の画家のうち、更に三人のみが最終的な「御抱え画家」の位に就くことができる。皇子の前に整然と並ぶ、老いも若きも腕に自信のある者達は、粛々と読み上げられていく規定にじっと耳を傾けていた。

 正式な『御抱え画家』の位に就くのは僅か三人――千五百人を超す応募者の中から、書類審査、一次試験、二次試験を勝ち抜き、そしてこの最終試験を潜り抜ける、いわば精鋭中の精鋭、王国の芸術家の中の芸術家である。この試験を勝ち抜くというのは、その証明をも意味していた。もっとも、その地位を得られずとも、一次予選を通ったというその時点で、その者の実力が十分であることは証明されたに等しい。だが芸術家というものは、往々にして野心的なものだ。そのような『生温い』想いと意気込みで挑んでいる者は一人としていなかっただろう。

「試験時間は二時間、画題は事前に通告した通りである。下絵(カルトーネ)や静物の持ち込みおよび使用は許可している……これは君たちもよく知ってのことだろうが。それから、制作、或いは他人の妨害などを目的とした魔法の使用は厳禁だ。我々審査員の中にも国家魔法師の資格をもつ者がいる。不正のなきように――注意事項は以上。おのおの、割り当てられた席につきたまえ」

 ジョルジュが羊皮紙を巻き終わるのを合図に、二十人の受験者が次々にイーゼルと机の前にすわっていく。一次試験、二次試験はどちらも完成した作品の審査を基に合否を判定した。だが、やはり自らの眼で『直属の臣下』を見極めたいという皇子の意向もあり、最終試験は皇子の目の前で執り行われた――ここに座っている者達には、画家としての裁量だけでなく、王家の者を背後に控えてなお動じぬ胆力と、幾重もの重圧の中で裁量を遺憾なく発揮しうる強い精神が、意図しない形で求められることになった。

 ちなみに御抱え画家であれば、大画面を構成する技量、細部を適切に描き出す描写力がどちらも求められるであろうということで、一次試験は風景画、二次試験は動物画が課された。最終試験の主題は静物画となった――神話画や肖像画を含めない点が気にかかってはいたが、試験理事の判断らしいので、わたしはあまり考えないようにしていた。

 最後の一人が椅子に座ると、謁見の間の緊張が最高潮に高まった。王宮の外でさえずる鳥たちの声が、いやというほど広間に入り込んでくる。張り詰めた沈黙を突き破るように、ジョルジュが試験開始の合図を告げる。同時に象嵌と蒔絵で装飾された絹の国(ヤムタル)渡来の大きな砂時計がごとりと音を立てて上下を反転し、真っ白い砂がゆったりと零れ落ちる。弾かれたように画家たちが一斉に下絵を開き、木炭やチョークを思い思いにカンヴァスに走らせていくのが背中越しに見えた。

――ただ一人を除いては。

 そのただ一人である彼は、――ロレンツォは、イーゼルの隣の机に行けられた花瓶を二、三度回し、満足のいく角度に設えられたと見るや否や、カンヴァスを茶色に塗りつぶし始めた。流れるようなペインティングナイフの動きが、淡い色の麻布をみるみるうちに強烈な褐色に塗り替えていく。ロレンツォはわたしたちから一番離れた位置に、受験者たちの集団では最前列の一番左の席に位置していたので、彼らの中にはその技法に驚き、手が止まってカンヴァスに釘づけになっている者もいた。彼らはもちろんすぐに自分のカンヴァスに向き直ったが、どうにもロレンツォが気になって仕方のないように見えた。その様子を彼の後方からわたしたちは、声を上げずにはいられなかった――もちろん今は試験の真っ最中であるし、皇子の前ということもあり声を抑えていた。が、驚愕と怒りは隠し切れなかったようだ。

「なんということだ、あのような制作はまるで絵画に対する冒瀆ではないか……!」

と苦虫を嚙み潰した顔で低く唸ったのは、画学院長のジョルジュである。この老人は皇子を挟んで反対側に立っていたのだが、あまりにもとげとげしい調子だったので、ざわめきの中でも一際鮮明に聞こえた。

 一次予選と二次予選で作品を見ているはずの彼らがロレンツォの技法を見て不快感を抱くというのは些かおかしな話のように思われるかもしれない。たしかに、皇子、ジョルジュ、ヨセフの三人は試験理事として、二回の予選で提出されたすべての作品を観ている。だが、その制作過程まで目にしたわけではない。つまり、ロレンツォがあくまで正統な技法と手順で、かの真新しい絵画を制作したものだと思い込んでいたのだった。そういうわけで、ジョルジュまでもが、いきなり塗りつぶされるカンヴァスを見て驚愕したということだった。しかしながら、ジョルジュがロレンツォの技法を『冒瀆』と評したくなるのは、何も理解不可能なことではない――画学院(アカデミア)で採られる『正統的な』手法に全くもって対抗するものだからである。


 エートル王国に油彩(オーリオ)という技法が伝わってきたのは、およそ二百年前と言われている。当時はモンテ・アルピのどろりとした瘴気を祓う道具や魔法すら、まだ確立されていなかった――一つ吸えば目が眩み、二つ吸えば正気を失い、三つ吸えば命はなしと言われたものだ。そのような時代にわざわざ命の危険を冒してまで、さらに凶暴な獣人族の族域を掠めない可能性に賭けて黒々とした山脈を越えるような連中は、命知らずの学者か、国家魔法師の資格を求める見習いの魔法使いか、ヤンと名乗ったその放浪の画家くらいだっただろう。

 そのヤンという画家について、わたしは詳しいことを知らない。何しろ、王国最北西の街メディオラからほど近い何とかという村に暫く留まり、ロムルスに出てきたときには彼の名を知らぬ画家はいなかった、とだけ語り継がれているのだ。作品はいくつか残っているものの、文書がないので――聞いたところによると彼が構えていた郊外のアトリエが全焼したらしい――ほとんど伝説とか作り話に近い存在だと言ってもいい。

 ヤンはまったく弟子をとらなかった。ただ一人、ボンドという画家にのみ、その技法を教えた。ボンドは、ジョルジュの曽祖父であった。つまりジョルジュにしてみれば、誇りあるエートル王国を訪れた伝説の画家から賜り、先祖代々受け継いできた『正統な』油彩の手法こそ、魔法に劣らぬ力を持つ絵画を作る唯一の手法だったのだ。だからこそ彼は画学院を起こしたし、そこで正統な絵画技法を教授することによって、画学院は王国の芸術を権威あるものにする最善の場所となると信じていた――『雑多な』輩が世に蔓延っていては、美しき芸術など在り得ようはずもなかったのである。

 

 そうこうしているうちにも、ロレンツォは筆を進めていった。カンヴァスを丹念に塗りこめ、顔料のこびりついたナイフを脇の机に置くと、次にこれまたかなり年季が入っているように見てとれる、いたって簡素な作りの尖筆を手にした。右手で数度しなやかに弄ぶと、それをカンヴァスについと突き立て、地塗りの層を削って線を引いていく。その所作には一切の迷いがなかった。課題の静物を見たのは間違いなく初めてのはずだった。しかし彼のその天性と、これまで描いてきた中で培われた経験とが、まっさらな布の上に線を浮かび上がらせている――食い入るようにロレンツォの一挙手一投足を見ていたわたしたちは、きっとみなそう思っていたことだろう。相変わらず苦々し気な顔をしていたジョルジュだったが、今ではロレンツォがどのようにしてああいった絵を作り上げるのか、逆に興味津々といった様子であった。ヨシュア皇子もまた、少しばかり年上の、田舎から出てきた天才的な青年が、見たことも聞いたこともない方法を使って絵画を描いているという事実に、かなり興奮している様子だった。

 謁見の間には、カンヴァスに走る木炭とチョークの乾いた音、絵具の層を削るロレンツォの尖筆の硬い音、それらには無関心にひたすら時を刻む砂時計の音が混じり合っていた……。



第二幕


 半年ほど、時はさかのぼる。

 沈丁花の淡い色が家々の庭を飾る春先に、ロレンツォはロムルスに現れた。その時には既に、王宮の間でちょっとした話題に挙がっていた。何せ、ふた月ほど前に届いた自薦状の消印がクラヴァト村になっていたのだから。

モンテ・アルピ周辺の街とか村というと、わたしたちは僻地という考えばかりを持っていた。王国北部で最大の街メディオラの半数が狩猟民だと思い込んでいる者さえいるほどだ。それもあって、羊皮紙を開くと流麗な筆記体が現れたという二つの事実が、宮廷に珍奇な噂をばらまいたのである。

「北の国に、洗練された田舎人がいる」

多くの者が口々にそう言った。いくら自薦状の文字がきれいだからといって、ちょっとばかりませただけの田舎者に違いあるまい、その程度の認識だったのである。

 時を同じくして、ロムルスに集まる御抱え画家(ピットーリ)志望の者たちの世話担当が振り分けられた。千五百枚を超す自薦状、推薦状の中から選ばれた三百人が、王宮周辺に集まることになる。王都で暮らしている者もあれば、ロレンツォのように田舎から『わざわざ』出てくる者だってある。彼らのために宿舎を用意し、また彼らの世話をしてやる必要があった。

建築組合もこのところ多忙を極めている様子だった。魔法師が監督をしているとは言え、三百人の客人を住まわせられる数の宿舎を用意するのは、厖大な資材と資金と人員と、宿舎を建てるだけの場所が必要になる。組合頭は結局、  『巨人の小さな家(カーサ・ピッコロ・ダル・ギガント)』方式をとることにしたらしい。建物の内部の空間を魔法で大きくするこの手法は、幾つかの魔法を強力に重ね掛けする必要があるが、その他の点を考慮するとこれが最適だという結論に達したらしい。

とにかく、街に集まる画家たちをもてなすための人員を、王宮から出さねばならないことになった。王宮に努める者達の数を勘案して、一人で画家五人の世話をするのが良かろう、ということになった。まずは、学芸係長ヨセフを除く九人の王宮学芸係――ヨセフは試験理事だったからだ――を、次に葵離宮に努める宮仕を三十人あてがった。最後に、国王サムエル五世のもとから二十一人の宮仕を、ヨシュア自ら父に頼み込んで連れて来た。彼の神経の図太さというか、胆力には学芸係一同舌を巻いた。それで人員が集まったので今度は部屋の割り振りとか誰が誰を担当するとか言う話になったのだが、多くの者が好奇心から、というか野次馬感覚から例の田舎人の担当を申し出てきたので、これもかなり大混乱に見舞われたらしい。最終的には、年が一番近いからという理由でわたしがロレンツォの世話役にあてがわれることになった。


陽の落ちかかった頃合いに、黒毛の馬に乗った見るからに粗暴そうな若者が王宮を訪ねて来た、という報告があった。わたしはもしやと思い、正門に飛んで行った。そこには、厚紙にペンでスケッチをしている男がいた。

「もしかしてあなたは、御抱え画家を志望されているロレンツォ殿でしょうか」

「いかにも」

彼はにこやかに答えた。北部特有の訛りがなかったことにわたしは少し面食らったが、すぐに宿舎に案内した。

彼はかなり気さくだった。どうして今回の選抜に挑戦しようと思ったのかとか、故郷の話、友人の話、自分の絵画の話……。私が訪ねると、彼は軽快な口調で答えた。王宮の者はあなたを『ませた田舎者』と思っているようです、と私が言うと、

「まったくもってその通りですよ」といって笑い飛ばした。

 宿舎の前で馬を下り、扉の内側を見た彼は『小さな家』の様子にかなり強い興味を示したらしい。扉から出たり入ったりして、そこに掛けられている魔法に感心しているらしかった。

 だが馬に括り付けてあった、しなびた革袋にわたしが手をかけたのを、彼は見逃さなかった。鋭い視線が向けられた気がして彼の方を見るのと、燃え盛るばかりの怒気が瞳から消えたのは、殆ど同時だった。

「いや、その袋は自分で外すよ。中には画材が入っているんだ。十年以上使っている大切な画材がね」

「それは……失礼しました」

「まあいい、気にしないでくれ。俺も言っていなかったし、お互い様ということにしておこう。それから君、見たところ俺と年が近いだろう」

「ええ、ふたつ上です。今年二十一になります」

「ならば年は誤差だ。敬語など使う必要はない。それから敬称もなし、ロレンツォと呼んでくれ。俺の方が慣れないんでね。お偉いさまの間じゃあ言葉遣いには大層気を使うのだろうが、最終試験までの期間とその後を考えると長い付き合いになる。ここではそういった気遣いはナシだ」

「わかった。じゃあそうしよう、ロレンツォ」

 話が早くて助かるよ、と真っ黒な髪の毛が揺れた。わたしは彼の尊大なさまにかなり動転していた。最終試験までの期間とその後――つまりこのロレンツォという男は、書類審査を通った時点で、御抱え画家の地位を確信していたのだ。大層な自信家と言うべきか、あるいは単なる傲慢のか……。

この若者の性格を図りかねながらも、わたしはある確信に近い直観を持っていた。彼は社交性に溢れているとはいったものの、王宮で活躍するほどの芸術家にはなれまい――話しぶりとしては申し分なかろう。だが会話の途中途中からにじみ出る言葉遣いの粗さと無教養は隠し通せるものではない。

加えてロムルスにあるべき画家としては、彼は些か見劣りするところがある。無精髭こそないが、癖の強い黒髪が肩まで伸びきっている。服装も簡素なシャツと色褪せたズボン、そして履きつぶしたブーツと、まさに農夫とか労働者然としたものだ。王都の芸術家たちは、職人という比較的低い地位にありながらも、社交の場にはそれなりに整った服装で出入りしている。この男が今のままの服装でその場にゆこうものなら、たちまち陰口と嘲笑の的になるだろう。

よくいえば純朴だが、それは王宮では粗野と受け取られかねない。もし皇子の下で働く身分を得たとして、それがいつまで続くだろうか。

一次試験の作品提出〆切を改めて確認した後、私はその場を辞した。王宮の星読塔(アストロトッレ)の窓から明かりが漏れている。既に陽はとっぷりと暮れていた。


それから三か月が過ぎた、ある満月の夜のことだった。宿舎の庭先で、三人の画家が何やら議論している――或いは言い争っているらしいのが聞こえた。その声の主の一人がロレンツォと分かったので、わたしは近くから様子を窺うことにした。もちろん、何か暴力沙汰になりかけた時に止めに入れるよう、杖は懐から出しておいた……。


「だからさっきから何度も言っているだろうに。俺は弟子などとらねえって」

 うんざりしたように頭を掻きながら言っているのはロレンツォである。彼と向かい合っているのは、同じく試験に挑んでいる二人の画家らしい。

「なんとか考えていただけないか。このニコラスの頼みは、何もおべっかとかご機嫌とりとか、断じてそういうものではない。純粋に、君の芸術に対する感動ゆえなのだ」

「感動だと?――あんた、俺の絵を見てそう思ったのか。ならばますますお断りだね。第一、俺とあんたは生まれと育ちが真逆だ。それに絵に対する態度も真逆だし、出来上がる作品の雰囲気(アーリア)だって真逆だ。何もかもが違う奴を崇めるのは、ただのないものねだりだぜ」

ロレンツォの言い分はあながち間違っていなかった。師事を請うているらしいニコラスはボルネーの豪農の生まれであった。雄大な自然に慣れ親しんだ彼は、父の理解と兄の薦めによってロムルス随一の工房に入り修業を積んでいる。一方ロレンツォは、今の今までクラヴァト村で暮らしていた。父親が金細工師ということであったが――しかしそれほど「真逆」と言える程だろうか。それに「絵に対する態度」が真逆であるとは?――私は彼の発言の真意を図りかねた。

「いや、真逆ではありえない。表現の方法が異なるだけで、君とわたしが目指すものは同じだ」とニコラスがなお食い下がった。束ねたブロンドの柔らかい髪が、馬の尾のように揺れる。

「自然を清澄に見つめ、そのありのままを描き出すのが君だ。対する私は、生命に真直ぐに愛情を向け、彼らの歓びを描き出すのだ。私たちは、美しき世界を描き出すという野心の上でまさしく一致しているのだ」

「清澄……清澄ねえ。あんたにはそんな風に見えているんだな」

途端、ロレンツォの声が低くなった。

「ニコラス、この際だから言わせてもらうが、俺はあんたが嫌いだ。二次試験通過者の発表の後、俺に話しかけてきたときからな」

 ニコラスの顔がさっと白くなるのが遠目に見てとれた。ロレンツォの両目にあの時の怒気が滾っているためではない――ニコラスの性格と生い立ちからして、正面から拒絶されるのに慣れていないためだろう。

「ニコラス、あんたは何のために絵を描くかと問われればこう答えるよな――『真の美を追うため』とか『美しい世界を描きだすため』とか『いのちの歓びを分かち合うため』とかな。言っておくが、俺はそういうご都合主義で夢想的な、理想家の戯言(ドランマ)が大嫌いなのさ。反吐が出る程にな。

 教えてやるよ、ニコラス。あんたが荷物をまとめて宿舎を出てった後、俺に二度とそのツラを見せないように。俺が絵を描く理由――俺自身のためだ。誰のためでもなく、俺自身の名誉と名声と、地位のためだ。どうだ、あまりにも俗的だろう? あんたと俺は、見ているものが違う。この世で得られるありとあらゆる富のために、俺は絵を描くのさ。豊かな都会でそこそこの注文を受けては絵を描き、魔法使いや金持ちに媚びへつらって、ぬくぬくと自分の理想に浸っているやつらなど、皆くたばっちまえばいいのさ……。フン、あまりに衝撃的すぎたんで、どうやら言葉も出ないか」

 突き放すように鼻で笑うロレンツォを前に、ニコラスは目を白黒させて反論のことばを探していた――が、何も言えなかった。無理もないことだ。ニコラスはロレンツォより五つ年上だが、歩んできた方向がまるで違う。自分の知らない世界を前に、ニコラスは閉口するよりなかった。

「俺から言わせれば、君も十分理想家だよ」と口を挟んだのは三人目のフィリップである。

彼もまた選抜試験に臨んでいた。そして、二次試験を通過し、最終試験に挑む二十人のうちの一人でもある。パイプをくゆらして、鷹揚に笑っている。

「まあそう睨むなよ、少年(ラガッツォ)。俗な人間はそもそも、芸術に身をやつすことすらない。どういう仕事をして、どういう人間と結婚し、家庭を持つか――それを真剣に考えるのが、人間というものだ。いくら君が名誉だとか名声だとか富だとかいう俗的なものを目的にしていたとて、やはり君はそれを、絵を描いて成し遂げようとしている。君は理想家さ、十分にね」

「……フィリップ、俺はあんたのことはそこそこ尊敬してたんだぜ。描くものも立派だし、口達者で話していると面白いからな。だが今、それも終わりだ。その理想論をこねくり回しながら、自分の事を棚に上げて俺を批評しやがる。一番こすいやり方だよ――結局あんただって理想主義のままじゃあないか」

「そうかもしれんな」

「いいだろう、俺が真に俗の人間であって、あんたたちとは違う世界に生きていることを証明してやる。誰にも話したことのない事だ――名誉とか名声とか富とかは、通過点に過ぎない。俺は俺のために絵を描く。俺に対する復讐のために、憎悪を以てカンヴァスに臨むんだ」

 俺に対する復讐ということばをやけに強調しているので、またもわたしは彼の発言に戸惑いを覚えた。ニコラスもフィリップも、おそらく同じ気持ちだっただろう。

「この名前は聞いたことがあるだろうさ――『酒の子ロレンツォ(ロレンツォ・ディ・バッコス)』ってな」

 瞬間、二人が息をのんだのがはっきりと分かった。芸術家の間では相当有名な名前なのだろうが、わたしはすぐには思い当たらなかった。『酒の子』とは……。

「親父は金細工師だった。一流の奴には劣るが、それでも北部の方じゃ腕は悪くなかったさ。絵画も良く描けたもんだ。俺の技法は、仕事が忙しくてたまにしか帰ってこない親父にせがんで教わった、あいつ直伝のものさ。……だが酒癖がひどかった。そいつがあのクソ爺の、唯一にして最大の欠点だった」

 今や、あの気さくなロレンツォの姿はなかった。彼はことば通り、憎悪と怒りに燃えている――彼の父と、彼自身に対するそれらのために。

「俺が十二のときだ。親父は仕事がちょいと捗らなかったんで機嫌が悪かった。まあ、それだけでむしゃくしゃしてるような、ケツの穴の細けえ老人といえばそれまでだが――兎に角、ワインを瓶ごと呷ると、お袋に何やらグチグチ言い出した。いつものことだと思って、俺もお袋も相手にしなかった。でもそれが間違いだった――あいつはあろうことか、思い切り殴ったんだよ、お袋を。皿を片付けてたお袋を、後ろから……しかもワインの瓶で! 当然、お袋は死んだ。頭を割って即死だ。医者を呼びに飛んでいったし、医者も飛んできた――でももう、遅かったのさ」

 まさか、という驚愕がふたりの顔に浮かんでいるのが見えた。一方のわたしは、彼のこれまでの言動について、一人でなるほどと納得していた。

自分の絵に対する誇り、それは苛烈なまでの怒りの感情ゆえのものだった。同時にそれは、誰にも明かしたくない、もっとも繊細で傷つきやすい、自分だけの内なる聖域だった。だからこそ、わたしが迂闊に触ろうとしていた画材と彼自身の絵に対して異常なまでの執念を燃やしているし、見た目には良く振舞っているが、どこかよそよそしいという矛盾がある。そして、『試験の後のこと』への言及――あれは驕りでも自信でもなく、彼自身の強い決意と本心から出てきたものだ。彼は、皇子の下で描き続ける自信があったし、何としても描かねばならなかった。このロムルスという街で。

ロレンツォは自分を憎み、自分に怒り、絵を描いている。しかも敢えて、彼の父親直伝の手法で。それは、母を失ったあの日の、自分自身の弱さと、父の弱さに向き合うという、彼が彼自身にかけた呪いなのだ。

そして、御抱え画家という地位とか、ロムルスで働いているという実績とか、それについて回る名誉とか富は、その一生消えない呪いの気休めになる。それらが周囲の記憶から『酒の子ロレンツォ』の忌み名をかき消すことで初めて、彼は戦うことができる。だから彼は、描き続けねばならないのだ。

「それ以来俺は、他でもない俺自身のために絵を描いた。もちろん、あんな家にはいられなかったから、近くの工房でな。でもそこでも俺は、『酒の子ロレンツォ』呼ばわりされた。あくまで、あのトンマでろくでなしの親父の息子だった。それに耐えるよりなかった。何とかして、俺を俺と認めないクソどもを見返してやりたかった――その復讐心と憎悪が、俺をますます絵に向かわせた。

俺の絵に対する原動力は、本来あってはならないもんさ。なぜなら絵画は、目を喜ばせるものだから――絵を見る眼のあったお袋の受け売りだけどな。俺は、俺の過去と戦わなくっちゃいけない。だがそのためには、俺を認める奴らの存在が必要なんだよ。だから俺は今、ここにいる。

理解できただろう、ニコラス。あんたは俺の対極にいる。俺は嫌いだが、あんたは十分立派な画家さ。俺みたいなのには目をくれず、光の照らす道を歩けばいいんだよ――フィリップ、あんただって同じさ。立派な工房の親方(マエストロ)なんだろ」

 さっきまでの烈火のごとき口調は既に消えうせ、代わりに零れてきたのは弱弱しい、優しい声だった。まるで神に救済を哀願する、憐れな信徒のような。あるいは審問官に悪事の許しを請う、身寄りのない孤児のような。

「いや、俺だって同じようなもんだよ。もちろん、立派な親方なのは間違いないが」

 と相変わらず軽口を叩けるのは、フィリップならではだろう。

「じゃあこの際だから俺も言おう。俺が絵を描くのはな、ロレンツォ、君と同じ理由からだ。俺自身に対する復讐のため――まあちょいとばかりその経緯は違うが。俺はこう言っちゃなんだが、結構いいとこ出なんだよ。親父は公証人だったし、お袋も図書館に足繫く通うような、所謂知識階級ってやつさ。

でもそれが裏目に出た。お袋はとにかく、俺に偉くなってほしかったらしい。家庭教師をつけて、とにかく勉強させた。ほとんど一日中さ。俺の唯一の楽しみは教師が帰って次の奴が来る間のほんの短い時間だったよ。妹と喋って、勉強に使った紙を引っ張り出しては裏に落書きして……裏庭の木や、花や、鳥たちを……」

「……ふうん。いいとこの人間といっても、苦い過去があるってわけだ。で、そんなあんたでも耐えきれなかったってか」

「さすがにな。当時の俺には重かったのよ、お袋の過度な期待は――俺は家を飛び出した。十四のときだ。それまでずっと家にいるような人間だったから友達はいねえ、外の世界なんて全然わかんねえし、身体も大して強くない。幸いにも親父にロムルスの話を聞いていたから、親父の名前を使って工房に転がりこめた。俺はやっと解放されたと思った……」

そこでフィリップはパイプを吹かした。煙草の煙が夜風に乗って、私にも流れてきた。

「五年の後だったかな。妹が死んだという報せがあった。瞬間、俺はすべてを悟り、後悔した。なぜ親父とお袋は俺を探さなかったのか、便りの一つすら寄越そうとしなかったのか。妹にすべてが向いたんだ。彼女は俺の殆ど唯一の話し相手だった。俺は妹の世話すら放り出して、俺自身が逃げるためだけに、逃げていたんだって思い知らされた。あいつがどうやって死んだのかは分からず仕舞いだ。病気か、事故か、自殺か……でもそれは俺にはどうでもよかった。その時から、俺にとって絵は、過去の後悔を思い出させる鎖なんだよ。

 俺も君と同じように、描き続けないといけないんだ。過去と戦う、それだけじゃあない、俺は贖罪の義務がある。絵を描くことに、その二つを俺は背負っている」

「私はそのような話、まったく知りませんでしたよ。まさかそのような過去を背負っていただなんて……私にとってあなたは、博識で頼りになる兄弟子でしたから」

「おいおい、今更歯の浮くようなこと言うんじゃねえよニコラス。俺にゃ似合わんことばだ」

 むずかゆいと言わんばかりにフィリップは短く整えた頭をガリガリ掻き、その様子にニコラスとロレンツォは顔を見合わせて笑っていた。

 ――どうやら三人の間で理解が深まりつつあるらしい。わたしはそっとその場を離れようとした。満月も天上に昇っていた。

「しかし、いくらお世話人さんとはいえ立ち聞きはよくねえぜ」と言ったのはフィリップである。わたしをその場に押しとどめるには十分なことばだった。いつから気づいていた、とわたしが言うと、いいや今さっきだ、といつもの調子で嘯いた。ロレンツォがあの社交的な顔で笑い、ニコラスも苦笑顔だったので、わたしはかなり赤面した。

 最終試験の日程と画題が受験者に通告されたのは、その翌朝のことだった。



第三幕


 謁見の間から中庭を挟んで反対側に、皇子の自室――ほとんど書斎も兼ね備えていた――がある。皇子は芸術に対しかなりの関心を抱いているが、それがこの部屋の設えにもはっきりと表れている。東の海運国アティナスから買い取った大理石の彫刻、テルク帝国特産の幾何学模様を呈した綴織(タピスリー)、細密な絵が描かれた絹の国(ヤムタル)の大皿、そしてエーテル王国の名だたる親方たちが制作した大小さまざまの絵画。この部屋ひとつがちょっとした宝物庫になる程の、芸術作品の数々が収められている。

 その小宝物庫に、七日前に運び込まれた二十枚のカンヴァスが、部屋の周囲をぐるりと囲んで立ち並んでいる。かろうじて両手で抱えられる程度のカンヴァスが二十枚もあれば、それだけでも十分壮観な眺めだ。ふつうであれば、ゆっくりと時間をかけて堪能することだろう――だが今その絵画の壁の内側にいるのは、これから御抱え画家(ピットーリ)を本格的に決定しなければならないという任を背負った、皇子とジョルジュ、それから十人の学芸係だった。重要な任務であるだけに、皆腕を組んだり顎をさすったりして、眉間にしわを寄せている。

 最終試験はいたって滞りなく進んだ。試験会場の重圧からして、一人くらいは途中で退室する者が出てくる可能性はあるだろう、とわたしたちは言っていたのだが、それも結局は杞憂に終わった。流石、最終試験に選抜されるだけの実力を具えた画家が揃っていたということだろう。

ロレンツォは相変わらず、試験時間のほとんどを彼の独壇場にしていた。茶色に塗りこめたカンヴァスに、尖筆で数本の線を引くと、その次に白色で花びらとか白磁の花瓶とかをかたどった――それも圧倒的な速さで。色を変え、筆を変えながらみるみるうちに課題の静物をカンヴァス上に描き上げると、最後にあの黒色で、周りを沈み込ませにかかった。黒は、あらゆる色の中で最も強く、最も重い色だ。置き方を少しでも間違えると、その黒色に画面の印象全てが引きずり込まれてしまう。だがロレンツォは、大きい丸筆をためらいもなくカンヴァスに走らせた。中央を占める静物に被ることなく、その周囲のみを正確に画面の奥へ奥へと誘うさまは、まさに神がかりとしか言いようがなかった。

あまりにも筆の運びが早いので、その過程は遠目からすると、粗雑に描いているようにしか見えないという者もいるだろう――だが、近くでそのカンヴァスを見れば、その筆致への計算高い気配りが明らかになる。花のおしべとかめしべ、果実の細い筋、或いは葉脈の陰影が面相筆で細やかに描き込まれる一方で、花瓶や大きな花びらといった大きい要素は、大きい筆で軽やかに描く。筆痕を見せない伝統的な手法を踏襲しつつ、彼独特の小気味よい筆致の強弱が画面内にうねりをなすことで、彼の静物画は見る者をいつまでも飽きさせない、そんな不思議な印象をわたしたちに与えた。

ロレンツォの絵画は二十枚の作品の中でもっとも異彩を放っていた――それだけではなく、見る者を不思議と絵の世界に引きずり込むような、ずば抜けて強い引力のようなものがあった。精緻な筆遣いと鮮やかな色彩が暗闇の奥から放つ光は、他のどの絵画にもまして強烈だ。一次、二次試験の作品ではそれほどなかった気迫が急激に増大し、われわれを飲み込もうとしている――きっと、あの夜の会話が彼に限界を超えさせたのか。そうではない。この程度が彼の限界ではないはずだ。単に技法全てに一段の磨きがかかったに過ぎないとすると……今後ロレンツォが生み出す作品から放たれる印象を想像すると、背筋が薄ら寒い。

世話人だったからという贔屓目はなしに、彼は御抱え画家の位置に相応しい、いや、そこにいなければならないと考えた。彼の強烈な手法は、王宮だけでなく、王都全域に新たな芸術の風を送り込んでくれるに違いない、という確信めいたものをわたしは持っていたのだ。しかし問題は、ロレンツォが仮にその地位を得たとして、誰が彼とともに王宮に仕えるのかということだ。彼の手法は斬新で、だから彼は王国全土の画家――のみならず彫刻家や金細工師、陶工など、あらゆる芸術家たちに刺激を与える存在になりうるだろう。そうなったとき、他の画家たちはどうなるだろうか? わたしはロレンツォに大いなる期待を抱きつつも、ある懸念を拭えないでいた――「この画家はロレンツォに比べると古臭いんだよ」「ロレンツォに比べて真に迫るものがないよな」といった評価が主流になると、この国の絵画の基準がロレンツォに定まってしまう。多くの画家が次々に彼の手法を学び、採り入れ始めると、ロムルスの絵画が――ひいてはエートル王国の絵画が、ロレンツォに学んだ絵画になってしまう。それは皇子が目指す、「数多の芸術家たちの切磋琢磨、相異なる芸術の百花繚乱」とは正反対の芸術の在り方だ。

そうならないようにするためには、伝統的な手法をとりつつ、ロレンツォの絵画がもつ斬新さに対抗できるだけの画面を構成できるだけの画家を選出しなければならない。唯一それに見合うとすれば、伝統的な線描を使いながらも、柔かな光で空間を包み込み、見る者を優しく照らすフィリップと、あとは二人いるだろうか……。

思った以上に審査が難航しそうだな、と同じように難しい顔をしているのは、皇子ヨシュアである。数々の芸術作品を見、商人と議論し品評してきた彼ですら、今日は作品の評価の歯切れが悪い。なにせ一日の午後をまるまる費やして作品をあれこれ議論していながら、すでに七日が経っている。学芸係にも、画学院長のジョルジュにも、ヨシュアにも、さすがに疲れの色が顔に浮かんでいる。

「皆さん、これは私の推測にすぎないのですが……」とやおら口を開いたのはジョルジュである。疲弊だけでなく、苛立ちの色が顔ににじみ、いっそう老け込んだように見えた。

「もしや、誰がロレンツォに見合うかという観点で画家を選ぼうとしておりませぬか。確かに彼の絵画は目を見張るものがある。この斬新な画風は間違いなく、王都に新たな道を開くでしょう。ですがそれが逆に問題なのです。彼は新しすぎます。彼に対抗できる画家は、この中にはいないに等しい。

 ならば逆に考えるのです――ロレンツォを抜きにしてはどうかと」

「待て、ジョルジュ」と後方から鋭い声を飛ばしたのは、意外にも、いやははりというべきか、学芸係最年長のヨセフだった。

「ヨセフ……まさか君が反対するとは夢にも思わなかった。いったい何故だね」

「君の意見は間違いなく正しかろう。ロレンツォは新しすぎるが故に、逆に皆の行きつく先になるかもしれんという見方はな。だがだからといって排除していては、この国の芸術は先には進まん。乗り越えられるか否かの壁があってこそ、芸術というものは進歩するのだ――『越えられる壁』しかそこになければ、我らが後にみるのはおままごとじみた稚拙なものになることだって、考えられないことではないのだぞ」

「なるほど、それも一理あろうよ……が、何も劇的な変化こそが進歩ではない。既存の集団の中に微かに現れる小さな光、たったそれだけであっても十分変化となり得るのだ。確かに壁は越えるためにある。だが越えられなければ意味はない。

かつての画学院においても、絹の国(ヤムタル)とか海を下った南の柯沙珠(カサージュ)とかの、この国にはなかったまったくに新しい芸術手法を取り入れようとした生徒がいた。何人もな。若さゆえの柔軟さというべきか、或いは無謀というべきか……彼らは最終的に、従来の手法すら見失ってしまった。十分に成熟した者がもの好きでやるのなら結構、だが本来の手法をすら身につけていない若者にはあまりにも危険極まりない」

 なるほどジョルジュの視点はもっともなものだった。かつて東方の文化について読んだとき、絹の国(ヤムタル)には「守破離」という芸術を学ぶ筋道の概念があるとあった。最初は師範や親方、流派の手法を確実に身につけ、次に他の師範の教えを取り入れて己の中で発展させ、最後は己の属する流派を離れて独自に新しいものを生み出す、というものだ。ことばで説明するのは簡単だが、実践するのは困難を極める。たゆまぬ努力と厖大な時間、そして常に己を冷静に見つめ続ける別の自己を抱き続けねばならないからだ――したがって最後の「離」を実現した者は往々にして「名人」となり、その数は全体の一握りにもならないという。

 もし今ロレンツォが御抱え画家となれば、すでに工房を構えている親方とか独立した画家にとってはとても刺激的で有益なものになる。しかし徒弟からしてみると、修行の途中で無視するにはあまりにも大きく、魅力のある別の世界が視界の端に開かれるようなものだ。彼らはいずこへ進むべきか迷い、中には親方に隠れてその世界を覗く者も現れよう――そして戻ってこれなくなるかもしれない。或いは、その世界に魅了された親方を見て、自分たちの行く末を不安に思う者も現れるかもしれない。そうなれば、これまで画学院で伝えてきた油彩の手法が――或いは街中の工房で継承されてきた絵画の方法が――一挙に崩れ落ちる。この国の栄華の一翼を担ってきた芸術は凋落の一途をたどり、国内はおろか国外にも芸術の買い手がつかなくなることもあり得る。

 文化の凋落は国の運営にも大きな影を落とす。経済と文化という二本柱の片方が折れれば、周辺諸国はエートル王国の没落に乗じて、この国を内部から喰らっていくこともあり得るのだ――そうなったとき、国家崩落の責任は誰の背に終われることになるだろうか。そう、ヨシュア皇子である。彼は文化凋落の責任と、大衆から売国奴の烙印を押され、短い生涯を閉じることになるだろう。

 しかしあまりに考えすぎか、と思いつつも皇子の方をちらりと見やると、頤に片手を添えて冷静を装っているが、顔が蒼い。彼もわたしと同じように、ロレンツォの登用がもたらすおそれがある最悪の事態を想像していたのだろう。しかし――

「しかし、その危険性を孕んでいてもやはり、ロレンツォは候補に入れられているべきだと思うがね」ヨセフがなお食い下がった。

「もちろん、皇子の御身を軽視しているとか、そういったことではない。劇薬は時に毒だが、ならばその毒を打消すだけの別の劇薬があれば問題はない。毒を以て毒を制すというわけではないのだが。君は長年画学院長をしていながら、わが国に彼に匹敵しうる画家が存在しているのを忘れたかね――この二十枚のカンヴァスを見たまえ。ロレンツォの作品に比べれば皆似たり寄ったりで凡庸に見えるところもあるが、フィリップ・ブリューナレスクは一味違う」

 ヨセフは、ジョルジュに向けた強い視線を外すことなく、部屋の隅から強烈な異彩を放つロレンツォのカンヴァスの隣に立つ、フィリップの絵画に歩み寄った。いつもの粛然としたヨセフからは想像もつかない、力強い足取りで。たしかにフィリップの絵画は、左隣の鮮烈な油彩画に比べると、大きく見劣りする。だが他のカンヴァスも合わせて考えると、ロレンツォに対抗できそうなのはフィリップくらいだ、という私の考えと、ヨセフは同じものを抱いていたらしい。

「彼は従来の手法を生真面目に踏襲しつつ、彼独自の要素も見いだせている。明瞭な線描とか筆致の見えないつややかな画面はジョルジュ、君の教育の賜物だろう。しかしよく見てほしい――画面全体を明るく照らしつつ、色彩によって沈むような陰影をなしている。いいかね皆さん、これはこれまでの手法では出来なかったものだ。これまでの絵画では浮彫(リリエーヴォ)のような陰影をつけるので精いっぱいだったのだ。そうだな、七番の彼と対比すれば一目瞭然だ……花瓶の右端に薄く影をのせ、その方法はほかの静物も同様だ。

 さて、フィリップの絵画に戻ろう。花々は奥に行くにつれて色を落とし、光を失う。花瓶の口の辺りをよく見ていただきたい。葉も茎も、光が届かないのでほとんどが暗い灰色に覆われているが、とてももっともらしいじゃないか。どうだね、これほど斬新さと伝統的な手法を見事に併せ持つ者がいるだろうか」

 ヨセフはまるで伝道師のように演説した。彼のことばに納得した学芸係もいたようで、なるほど、とか確かに、とかぼやき、周りの者と顔を見合わせている。先ほどまでは青ざめていたヨシュアだったが、今はすっかりいつもの調子を取り戻し、満足気に窓のそばに立ち、夕暮れの外を眺めている。

「ふん、それほど嵩じるとは、皆には魅力的に見えるらしい――私にはまったくもってそうは映らないな。普段は保守的な君が相当に熱を入れて語る程というのは興味深いが、誰かの差し金なのかね」

「聞き捨てならんぞ、ジョルジュ。私が純粋に批評しているというのに、君のねじ曲がった性格はこういう場でいつも水を差す。私が高く評価すれば批判し、私が判断を保留すれば見る目がないのなんだのと言う。昨年の総覧会のときもそうだったな」

「まあ落ち着いてくれ、二人とも。他の者の意見も聞いてみようではないか」

 険悪になりつつあった雰囲気をいち早く察して、ヨシュアが話題の転換を試みた。周囲の空気に戸惑わず流れをつかむ賢明さは、敏腕の父親譲りのものだろう。そうだな、と周りを見渡したヨシュアの目は、わたしをとらえた。

「君はどう思う。君はロレンツォの世話人だったはずだが」

「しかし皇子、かの者はロレンツォの絵を近くで見ておりますゆえ、公平な判断はできかねるはず。他の学芸係に尋ねるべきでは」

「まあそう急くでない、ジョルジュ。確かに世話人としてロレンツォの絵をよく見ているだろうが、だからこそ他の者にはない眼を持っていることも考えられよう。さて、君の意見を聞こうではないか」

 ヨシュアに促されたので周りを見渡すと、三種類の視線がわたしに向いている。一つは、ジョルジュと彼の主張に賛同する者たちからの、敵意とか嘲りに似たもの。一つは、ヨセフと彼に賛成する者たちからの、期待がこもったもの。あと一つは、なんでもいいから早く終わらせてくれという無関心なものだ。

 正直に言うと――

「正直に申し上げますと、私は彼を御抱え画家に推薦したいと思っております。否、さらに申し上げれば、彼はその地位にあるべき者です」

 部屋の向かい側のジョルジュが鬼のような形相で私を指さしながら批判しているが、皇子は腕組みをして軽くうなずき、わたしに続きを促した。皇子とは司会の反対側にいたヨセフは、すでにいつもの聡く静かな老人に戻っていた。

「たしかに彼の絵は非常に斬新です。それはもう、ロムルス中の皆がこぞって模倣するような人物になるでしょう。ですが、王都の芸術家は彼だけではありません。現時点でも、彼に匹敵する画家は大勢いるでしょう。ヨセフ殿も申し上げましたが、フィリップ・ブリューナレスクもその一人であるとわたしは思います。

 それから惜しくも二次試験で落選しておりますが、ニコラス・ドナルド・バルディも彼に比肩しうるでしょう。彼は今回、画題によって落選であったといっても過言ではありません。彼の本領は神話画で発揮されます――むろん、それだけに留まらないのが好ましいですが。量感のある人体と力強い線描において右に出るものはありません。メディオラの大聖堂(ドゥオモ)に描かれた壁画は皆さんご存じでしょう……。

 とにかく、ロレンツォを登用したとして、我が国の芸術がそう簡単に打撃を受けるとは思えません。むしろ一人の画家の影響を大きく語るのは、時を同じくする他の芸術家たちを見くびった浅はかな判断と言えましょう――僭越ながらわたくしはかように思っております」

 ヨシュアは常のように頤を支え、ゆっくり、だがしっかりと頷いた。


「……でも俺は、選ばれなかったってわけね」

「私の力不足だった。申し訳ない――ヨセフの配慮がなければ、わたしは画学院と離宮への出入りまでも禁じられていただろう」

「あんたは悪くねえよ。審査にあたったやつらの頭が古かったってことさ」

「でも――」

 でも、ヨシュア皇子は認めていらっしゃった。わたしはそう言おうとして思いとどまった。彼は彼自身のために絵を描く。その究極の戦い、究極の目的の中では王族とか金持ちとか、「お偉いさま」の人々など取るに足らない通過点に違いないだろう。

 御抱え画家が正式発表されたのは三日前。宿舎にいる画家たちには、選抜者の名前と、それ以外の者に対して今後一週間の宿泊の権利が、飛び手紙(ヴォラーレッテラ)で通知された。選抜者の中にロレンツォはいなかった。三人目に、フィリップ・ブリューナレスクの名があった。

「でも、何だ」とロレンツォが馬上から訝しげな視線を投げかけた。

「いや、何でもない。君はたとえロムルスでなくても、すぐにその名をその街で高くし、王国中に響かせるだろうと思って」

「ああ、言われなくともそのつもりだ――だができることなら、ロムルスにとどまっていたかったよ」

 王宮から、王立管弦楽団(オルケストラ)の合奏の音色が聞こえる。それに遅れて、謁見の間に響き渡る拍手と喝采が聞こえ、わたしたちはそちらの方を振り返った。ちょうど、御抱え画家に選ばれた三人の画家が、皇子から徽章を受け取っていることだろう。少しばかり名残惜しそうなロレンツォはわたしにとっては物珍しく、おかしかった。

「まさか君ともあろう無頼の芸術家が、そんなふうに感傷的になるとはね」

「ここにきて半年にもならないが、良いものを得たからな。この街はいい。クラヴァトとは違って通りが賑わっているし、店の者たちも陽気で気前がいい。少し離れた丘からの景色は北部の冷たいものとは違って暖かく優しいからな。

それから画家の連中も面白いのが多い。ヘタクソも多いが、上手い奴は上手い。特にフィリップは俺の数少ない友人になりそうな奴だと思ったよ。叶うならば、一緒に仕事をしたかったものさ――ニコラスは駄目だな、あいつと俺はまったくもって反りが合わん」

「おや、彼の弟子入りは結局撥ね退けたのかい」

「あいつは俺ではなく、これまで通りフィリップの下で力をつけるべきだ。あの二人の絵画は表面の雰囲気こそ違うが、その内部は同じものを持っている。もっと言えば、あの二人の眼だ。あいつらは奥行きのある世界を、光の中でとらえる目を持っている。闇の中にとらえる俺とは真逆だ」

 なるほどそういった見方もあるのか、とわたしは独りごちた。初秋のひやりとした冷たい風が、イチョウの葉をざわつかせる。それじゃあ俺はそろそろ故郷に帰ることにしよう、といってロレンツォは馬の首を門の外に向けた。

「いつか、ロムルスで仕事をしてくれ。君は王都の喧騒に相応しい画家だ」

「もちろんだ。あのジョルジュとかいう、頭の凝り固まった老人を今度は俺の絵で殴り飛ばしてやるさ」

「……ところでこれは野暮な質問なんだが――君の部屋で見かけた肖像画、あの像主は誰だったんだい」

 ああ、あれか、と彼は麻袋を軽く叩いた。あの絵は彼が肌身離さず持ち歩いているらしい。彼の顔は今までに見たことのない、社交的な笑みとは違う、本物の優しさをたたえていた。

「俺のお袋だよ。俺の知っている中で、世界で一番美しい女だ。お袋を超えるほどいい女は、さすがにこの王都といえどいなかったらしいな」

「君は随分手厳しいようだね」とわたしはやや呆れ顔で言った。

 こいつは俺の趣味だ、あんたにとやかく言われる筋合いはない、と彼がまくしたてるので、まあそれもそうだ、とわたしはその場を取りなした。

「いずれまた会おう。あんたはきっと、俺の成功のために必ず必要になる存在だ――この半年で俺はそう確信した」

「それは大層光栄でございます、親方(マエストロ)」

 ロレンツォはあの社交的な顔でわたしの茶々を笑い飛ばした。そして、黒毛の馬の腹をご機嫌に軽く蹴ると、王宮から続く大通りに駆けだしていった。

 ロレンツォの姿が見えなくなるまで、わたしは彼の後ろ姿を見送っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る