ハルキストの憂鬱な宴

Hiro Suzuki

第1話

 ポイントは四つ、と。あと、あれか、『僕は・君たちが・好きだ』のとこ、何ページやったっけ…。真夜中の薄暗い少しひんやりした階段でiPhoneとランニング好きの大衆文学作家の本を数冊交互に見ながら、僕はその作家の1番好きな作品の感想文を追記していた。僕の柔らかい場所の記憶から消したはずの作家だった。


 数ヶ月前に、僕はチェコ人のエロい本を書く作家に恋をした。プラハの春のことを丹念に調べてみたり、彼の書いた文学や音楽の評論を読んでニヤニヤしながら、彼の産み落としたビーナス、アニエスの仕草を妄想して、感想文の材料を揃えることを楽しんでいた。そうして材料を揃えていた真夏の蒸し暑い夜、チェコの男が薦めてくれた透明の靴下を2足、風船みたいに膨らませて、お手玉をし、娘(生後8ヶ月)と遊んだ。キャッキャと手を叩きながら笑い続けていた娘も流石に遊び疲れ、やがて彼女は眠りについた。2足の透明の靴下は最後の貴重な2足だった。連日の猛暑でそれを買い溜めするだけのためにドラッグストアに寄るのも億劫だった。それが最後の2足だったと膨らませていた時に気付いた。けれども、素敵な小さな女の子の期待に満ちた満面の笑顔の前では無力になるしかなく、彼女の期待に応えたのだった。僕は透明の靴下を履かずに妻と国際運動会の練習をした。出場は新種目のセックスダブルスだ。僕と妻は優勝を狙っている。全力疾走で見えないゴールを目指していると、パジャマ汚さないでね、と資本主義の声で喘ぎながら妻は言った。珍しく妻が先に寝息をたてて、僕は宇宙で1番孤独な惑星になってしまった。薄暗い部屋の中でスマートフォン片手に何気なくSNSを眺めていたら、懐かしい本、それもとびきり僕が好きだった本、のタイトルと短い感想が流れ星のように僕の目の中に飛び込んできた。


 気付いたら僕はベッドではなくて、階段の隅でその本を開き始めていた。


 作者のハイパーミラクルランニングマンのことを僕はできる限り、あまり好きではない素振りを滑稽なほどにしてきた。僕自身、どうしてそんなことを僕がしなくちゃいけないのか理由を見つけられなかった。とにかく、数年前のある日、目が覚めたら僕は少し世界の見え方が変わっていて、その男の書く本が1ミリも読めなくなったのだった。はじめは体調が悪いだけだと思い、何度も読もうと試してみた。けれどそのたびに、文字が読めなくなる原因不明の症状に悩まされた。文章と文章、文字と文字のあいだが伸びたり縮んだりするのだ。遂には、その男の幻影を裏庭の井戸の底に置き去りにした。夕暮れになるとほんの短い間だけオレンジの線がその井戸の底に差し込む。


 僕は、ある夕方、一度だけ井戸の底を覗きこんだことがある。男の幻影はモーツァルトのオペラを口ずさみながら、ギャッツビーみたいな白いフォレスターに乗った男と商業画家の話を井戸の壁に向かって話していた。僕の方を振り向いた気がした。僕はその幻影がだんだん群青色に溶けていくのをぼんやりと眺めて、何かを思い出そうとした。すると、強度の斜視の老人が、意志の強そうな夫人とともに、実存が本質に先立つ、ねばねばからは逃れられない、スズメバチには気を付けなければならない、と僕の肩に手をぽんぽんとしながら言って、僕の家の裏庭を通り過ぎていった。それで僕は井戸の底に座り込んでいる幻影を外に出してやるのをあきらめた。家の中に戻り、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を妻と観た。そうして、またしばらくの間、僕はあの男のことをすっかり忘れてしまった。

 最近ずっとあなた様子がおかしいわよ。まるで中ニ病みたいなことを言うときもあるし。どうかしたの?何か悩んでるの?、と妻が5日ほど前に聞いてきた。その話は前にしたと思う。僕は取り憑かれたかのように、意味不明な言葉とも言えない言葉を書き続けてきた。大体は妻や娘の惚気だったり、長崎出身のイギリス人のノーベル文学賞の作家のことだったり、とっくの昔に死んだフランス人の斜視の哲学者のことだった。ほとんどは誰にも読まれることのない分厚い赤い表紙のノートに小さなミミズが這うような文字でびっしりと書き込まれ、インターネットに垂れ流すのはほんの一部だった。ほぼ毎日朝は4時半には目覚め、7時には家を元気に行ってきます、と妻の作った弁当を持ってトラックに親父と乗り込み、夕方6時近くに家に戻る。妻と仲良く国際運動会の練習をして、大体は透明の靴下をきちんとつけて、汗を流し、本を読んだり、ミミズの文字を書いて眠る。大会の開催は中止派と開催派がSNSで静かに戦っていた。惑星デルタから強力な電波が発信されているのは誰もが知るところだった。けれども帝国陸軍参謀総長ヨーダにみんなで回れ右して従い、楽しくおうちで新種目の練習をするしかなかった。反対する人びとも、たまにいたけれども、みんな無関心に近い。去勢をきちんと政府がしたおかげでもある。大昔まだこの国が去勢されていなかった頃のようにバリケードを作ったり、デモをするとか古臭く、面倒なことをするのは馬鹿げた妄想でしかなかった。大体、電波に当たったら、大変だから外には行きたがらないのは当然だし、他人といちいちコミュニケーションとる必要もない。みんな自分のことで精一杯なのだ。あるいは、自分以外どうでもよかった。それに何かを意見するなんて学校では習わない。そんな事を考えていると、すぐに再教育クラスに行かされ、落ちこぼれの烙印を押される。そうするとその情報はきちんとIDカードに載せられて、選別され、朝のラジオ体操をしなければならない人生に突っ込まれるシステムだ。何を考えているか、何が好きなのか、何が流行っていて、何が善なのかは、大昔とは違い、地球公社ゴーグルらのデータマイニングとアルゴリズムによって画一的に決められている。特に考える必要がなく、効率が良くできている。僕らの時代では、トレンド以外は悪なのだ。イイネがつけられたら1ポイント承認が貰えて、100ポイント貯まると、クラフトビールと交換できる。特に、考えを持つことは暗黙の了解で禁じられているし、誰もそんな事に興味はない。惑星デルタや大会、ましてや地球公社らビッグデータ管理会社などに関係なく、僕は妻との練習が好きだ。ともかく、このように僕は規則正しい生活をしている。そこには1ミリもあの男のことを懐かしむ余地はなかった。

 けれども、あの日、階段で昔読んだ本をまた手にし、階段に映る僕の影に手を振った。それはとても自然な仕草だった。ビーナスのアニエスが若かった頃、デートの帰り際に手を振るのと同じくらいに無垢で自然な動作だった。開いたページの文字たちを僕は注意深く観察してみた。伸びたり縮んだりしないのを確認したかった。父親殺しの15歳の少年とゴマちゃん(一歳 猫)を探してカワムラさん(猫)に手こずりながらミミ(猫)と出会う愛すべき少し変わった老人の話だった。下巻を読み始めた頃には、僕はいつのまにか涼しい井戸の底にいた。少し休憩しようと目を閉じた。隣でランニングマンが丁寧に白いTシャツにアイロンをかけ始めて泥棒かささぎを口ずさむのが聴こえてくる。悪くない。そう男はいった。悪くないね。僕もそう繰り返した。全部読み終えて、男にさようならをして、僕はアニエスを思い浮かべながら手を振った。

 裏庭で一人ぶつくさと独り言を言いながら、感想文を書き始めていると、老婦人に脇を支えられながら斜視のいつもの老哲学者がやってきた。こんばんは、今日は少し涼しいね。、と老人は挨拶した。そうですね。、と僕は答えると、老哲学者は、上手くやれてるかい?、と聞いてきた。僕は、ええ、多分上手く行くと思います。と答えた。なら良い。ところで君はどっちを信じるんだね?、と老哲学者は唐突な質問をしてきた。僕が、何をですか?、と尋ねると、老哲学者が、ルカーチか私かだよ。、とメガネをクイっとしながら言ってきた。僕は、僕と妻と娘と親父とオカンと、あとじーちゃんと兄貴二人しか信じません。、とキッパリと答えておいた。すると、老哲学者は、よくわからないな。、と言って夫人と共に夜の海岸へと向かって行った。彼らを見送ると、今度は白い髭を生やした日本語が凄まじく美しい老人が一人、ステッキを振り回しながら僕を通り越していこうとした。僕の頭にステッキが刺さり、脳みそが飛び散った。僕はいささか腹立たしく思った。すると、老人は綺麗なお坊さんの頭のような形をした瓢箪を撫でまわしながら、僕にそれを差し出して、ステッキのことを謝った。すまないね、ずいぶんと、君が薄くてわからなかったんだ。、と老人は言った。イライラしながら僕は、でしょうね。、と短く端的に答えた。すると、老人は、ところで、君はどうして主語を抜かしてしまいがちなんだ?、と割とまともな疑問をぶつけてきた。わかりませんし140字じゃ省けるだけ省いたほうがいいって話ですし、強烈な言葉こそがバズるって誰かが言ってました。、と僕はやや長めに答えてしまった。私には君の言ってる事がよくわからない。けれども、まあ、そうした時代の流れも淋しいものだねぇ。、と悲しそうな目を僕にむけた。僕は、そうかもしれません。、と同意した。すると、さらに老人は、聞いてきた。誰も彼も自分の言葉で自分の意見を言わないなんて、いつからなのだろう?僕は、ありのまま答えた。僕は定時高校しか行ってませんし、今は歴史の本は古本屋でも置いたら罰金です。すると、老人は、今のことを聞いてるんだよ、私は。、と半ば呆れながら、そう僕に言った。ステッキを来た時よりも勢いよく振り回しながら清兵衛!と叫びながら、スキップして庭を出て行った。ちょうどそこに、ランニング中の男がやってきた。すれ違いざまにそのステッキが男の尻の穴に刺さったのにも気付かず、老人は海岸へと向かった。ランニングシューズの紐を締め直しながら、やれやれ、と言って男は尻を少し気にしながら去って行った。

 彼らを見送って家に戻ると、読み返し終わった本の中で登場した写真と油絵のことを僕は書きたくなった。それで僕はまた付け足し、記事の投稿告知をSNSで手短にした。僕は、イイネじゃなくて、あの本の意見を聞きたかった。意見じゃなくてもよかった。あの本を読んでどうしたか知りたかった。何歳の時に読んだとか、どう思ったのかとか、泣いたのかとか、笑ったのか、とか、なんでもよかったのだ。それで僕は、はっきりとした意志をもって、きちんと、ハルキスト、とタグを付け足した。けれどいつも通り誰も僕の問いかけを気にする人なんていなかった。きっと僕はもうハルキストなんて誰も気に止めないんだろうな、と思うことにした。ハルキストなんて大昔に流行ったタグだ。

 翌日、僕は全宇宙ハルキスト協会のイタリア人タブッキ会長との会合に招集されていた。タブッキ会長の住む獅子座へ向かうため、朝一のロケット、ペソア号に妻と娘と乗り込んだ。運悪く、隣の席は太宰だった。少し顔色の悪い太宰を励ましてあげようと咄嗟に思い、『嫌われる勇気』を渡しながら、太宰さん、ニーチェさんの隣の方が景色いいっすよ、と遠回しに言った。すると、そんな事言って君、本当は僕のこと好きなんだろう?とか言いながら、僕の渡した本を小脇に抱えてニーチェの隣に行った。彼らの向かい側には志賀直哉先生が座っていた。ステッキは折り畳み、きちんと座席の脇にテーピングされている。瓢箪は席に着く時、僕の妻のシモーヌ仮称大佐に見つかり、瓢箪は持ち込み禁止です!、とぴしゃりと言われ没収された。僕は横目でニーチェと志賀直哉先生にお説教される太宰の綺麗で優しい横顔をチラ見しながら、シートベルトを付け、歯磨きをした。ロケットが発射します、皆さまGにお気をつけください。大佐がアナウンスすると、宇宙服を着込んだ娘が敬礼をした。大佐はそれに合わせて、またアナウンスを流す。男性全員起立!僕も歯ブラシを口に突っ込んだまま、起立し、窓の外に向かって敬礼する。僕らだけではなく、客室全員が起立をし、直立不動で敬礼している。轟音と共に、僕ら3人は国際宇宙ステーションを光の速さで追い越し、妻のフルフェイスのヘルメットに僕の歯磨き粉がすこし飛んだ。僕が大佐に、失礼しました、けれども、これだけは、大佐に知っていただきたいのであります。僕は・君たちを・愛している!、と言いかけると、娘が、パパ!こら、サルトル仮称!シー!、静かに…。と目で諭してきた。僕は口をつぐみ、妻、シモーヌ仮称大佐の真剣な眼差しの先を追いかける。丸い地球がそこにはあった。台風もどきが四つほど日本列島の真上に見える。ところどころ禿げかけた青と緑と氷山が溶け出して疲れていそうだ。轟音はもう聞こえない。ファーストクラスの席に座っている宇宙服を着せられたカラヤンが、大佐への敬意を表してマーラーの交響曲第5番アダージョを流してもらえないか?、とロケットの船長、大江さんに囁いた。大江さんが頷くと、Tシャツと短パン姿の乗組員のハルキがレコードをかけた。同僚らしきカズオがにっこり微笑む。さっきパラシュートで国際宇宙ステーションから落下してきたクンデラと老哲学者夫婦が敬礼中の乗組員の西村さんに社員証を見せながら、窓の外に向かって敬礼した。ちなみに西村さんは、僕の仕事仲間だ。大江さんがクンデラに操縦を代わってくれと囁いたが、今飛んできたばかりなのに、と不満げに囁き返す。ビルエバンスのワルツフォーデビーが流れてきた。再び、そこで大佐が号令をかける。

 地球に向かって礼!勃起!

と大佐の最後の号令が終わると、娘は遠ざかる大地と海を見て無邪気な笑顔を振り撒いた。大佐がそこに重なって、ふたりの優しい横顔越しに、僕は壊れかけの丸が次第に点になるのを眺めていた。

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