3-1 新しい生活

 伯爵邸で迎えたはじめての朝。

 セレストはバターと香ばしいパンの香りで目を覚ます。


「いけない! フィル様より早く起きなきゃだめだったのに」


 将軍職に就いたばかりのフィルは多忙で、結婚休暇は一日だけだった。今日は朝から軍の司令部に行くと言っていた。

 今のところ仕事をしていないセレストには家事を担う義務があった。

 それなのに、明らかに朝食の支度がされている気配がした。


 セレストは急いで着替えをしてから一階のキッチンへ向かった。


「おはようございます。……ごめんなさい、寝坊をしてしまいました」


 フィルが手際よく調理をしている。

 ドウェインの姿は見当たらないから、夜遅くに帰ったのだろう。


「まだ六時だから寝ていればいいのに」


 季節は秋で、だんだんと日の出の時間が遅くなっている。外はまだ薄暗く、空気がひんやりとしていた。


「使用人の方が来てくださるまで、家事は私の仕事ですから」


「そうか。……じゃあ、皿を取ってくれ」


「はい」


 セレストは早速、食器棚にしまわれている平皿に手を伸ばす。


(……と、届かない。この体、不便すぎるわ)


 つま先立ちをすると届きそうな高さだった。台を探すのが面倒でセレストはそのまま背伸びをしたのだが――。


「ほら、届くか?」


 ふいに体が浮き上がる。フィルがセレストをひょいと持ち上げたのだ。

 彼が直接皿を取るのと、セレストを担ぎ上げて取らせるのと、どちらがフィルにとって負担になるのだろうか。

 これはつまり、セレストに仕事をさせてあげるための配慮だ。


 セレストはとりあえず皿を取り、まもなく目玉焼きができあがりそうなコンロの近くに並べた。


「よくできました。偉いぞ」


 皿を取ってきて並べるという簡単な仕事すら、満足にできなかった。それなのにフィルは心からほめている。

 仕事をさせてもらっている・・・・・・・・・という状況だった。


「……ムッ!」


「なんで怒っているんだ?」


「怒っていません! ……ただ、私はフィル様が思っているほど子供ではないと知ってほしいのです。背は低いですが、なんでも一人でできますから」


 自分の周囲でなにが起こったのか正確にはわからなくても、十八歳までの知識を持っていることはたしかだ。以前のセレストはフィルの弟子か後輩という関係ではあったものの、星獣使いとしては頼りにされていた。

 今は、本当に守られるだけの子供扱いだ。それがセレストには不満だ。


「悪かった」


「や、やっぱり嘘です……。ごめんなさい、一人でなんてできません」


 なんでも一人でできるというのは嘘だ。一人で現状をどうにかできる強さがあったのなら、そもそも彼と家族になる必要などなかった。虚勢だという自覚があるから、不甲斐なく、自分自身に腹を立てている。フィルの態度に憤るのは八つ当たりだった。


「素直なのは、君のいいところだ」


 そう言って、フィルはまたセレストの頭を撫でる。

 見た目ほど子供ではないという部分は覚えていてほしかったセレストだが、それは今後の行動で示さなければならないだろう。

 今度はあきらめて、素直に受け入れた。


 パンとチーズと目玉焼き。飲み物は温かい紅茶というメニューが出来上がり、ダイニングで食事をとる。侯爵家にいたときは、いつも私室で食事をしていたから、こんなふうに家族でテーブルを囲むことが当たり前になっていくのが、セレストには嬉しかった。


 食事が終わると、フィルは軍服に袖を通し、出かける支度をはじめた。


「いいか。君は大人びていてもまだ子供だ。……外出するときは必ずこの用心棒と一緒にな。夕方には帰るから」


 出勤前に、フィルが用心棒なるものをセレストに押しつけてくる。


「用心棒……?」


「ワンッ!」


 それはふわふわの小型犬――スーだった。

 用心棒としては役に立ちそうもない。あるとしたら、あまりの可愛さにやられて敵が戦意喪失することを期待する程度だろう。


「スーはふわふわでもふもふの手触りだけの犬じゃない。……人や動物を見た目で判断するのは一流の星獣使いとは言えないぞ」


 たとえば、セレストの星獣だったはずのスピカは、速く走れそうにないのに馬並みのスピードで大地を駆ける能力を持っていた。見た目で判断するなという言葉には一理ある。

 けれど、セレストのことを子供扱いしているのだから、フィルのお説教には説得力がない。


「キュン!」


 考えていることが顔に出ていたのだろう。フィルは大変不服そうな顔をしているし、スーも鳴き声で不満を示した。セレストはスーのプライドを傷つけてしまったようだ。


「わかりました。よろしくね? スー」


「ワォォン」


 任せておけと言わんばかりの吠え方だった。


「それから大金は持ち歩くんじゃないぞ。ここに小銭を用意したから、出歩くときは必要最低限の金だけを持っていくように。履き慣れた靴にしないと危ない。……あとは……知らない人についていくな」


「大丈夫ですよ! 私、年の割にはしっかりしていますから」


「過信もよくない」


「早く屋敷を出ないと遅れてしまいますよ。日中は買い物をして掃除をして、夕食の支度もお任せください。ほらほら、いってらっしゃいませ」


 フィルは子供と動物には優しい人だから、セレストに対しかなり過保護で心配性になっているようだ。セレストの心は十八歳で、この国では立派な成人女性だ。迷子になどならないし、悪い人にはついていかない。

 セレストは半ば追い出すようにフィルを送り出した。


 一人になって最初に取りかかったのは掃除だ。

 引っ越しをしたばかりだから、木箱の中に開封されていない荷物が放置されている。フィルの私室以外は自由に出入りしていいと許可を得ている。素敵な屋敷にするために、まずは箱の中身を使いやすいように片づけていった。


「本が多いのね……」


 積まれている箱の中身の大半は本だった。フィルは軍人だが、読書家で博識だ。


「せっかくだから浮遊の術を使ってみましょう。スーは危ないから離れていてね?」


 十歳のセレストが書庫まで本を運ぼうとすれば、一度に持てるのは十冊に満たない。それでは日が暮れてしまう。

 こういうときこそ星神力を使った術の出番だ。

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