猿の内政官 零
橋本洋一
猿の内政官 零
暗闇の中、男が二人、駆けていた。
月明かりのない山道だというのに、つまずくこともよろけることもなく、一定の速度を保ちながら走っている。それでいて、木や岩を利用して立体的に移動していた。常人にはおよそ不可能な動きだった。
それもそのはず、彼らは――忍びだった。
しかも日の本に名を轟かす伊賀の忍びだ。
「良秀さん、今日も仕事上手くいきましたね」
先頭を走る忍びが、振り返ることなく、後ろを守りつつ走る忍びに話しかけた。
「無駄口を叩くな。まだまだ里まで遠い」
良秀と呼ばれた忍びは素っ気ない返事をする。すると「いいじゃないですか」と明るい声が返ってきた。
「ここまで来れば、追手なんて来ませんよ」
「油断大敵だ――お前の悪い癖だぞ、山風」
先頭の忍び――山風は「良秀さんは慎重ですねえ」と言う。
「数か月かけて盗んだ、六角家の箕作城の見取り図。こいつを件の依頼者に渡せば、頭領から報酬が山ほどもらえるんですよ。そりゃあ気分が――」
そこで山風は言葉を切った。
それどころか、足を止める。
良秀も同様に止まった。
「……あちゃあ。追手ですね」
「お前の予想、外れたな」
「前々から思っていましたが、良秀さんの言ったことが本当になりすぎですよ。予知でもできるんですか?」
良秀は苦無を取り出しながら「さあな」と冷静に答えた。
「もしそうなら、忍びなどやっていない」
「あー、そうですか。さて、とりあえず、撃退しますか」
「足音から推測すると、敵は五人だ。やれるか?」
良秀の確認に山風は「やるしかないでしょう」と苦笑した。
「頼りにしていますよ、良秀さん」
「……来るぞ」
良秀と山風が構えると同時に、五人の忍びが降りてきた――
◆◇◆◇
良秀は伊賀者の中忍である。
元来、伊賀国の者ではなかった。おそらくは西国から流れたのだと彼は考えていた。
というのも、彼は物心つくかどうかのときに、母親に連れられて伊賀国に来たのだった。
父親の顔は知らない。
母親も死んでしまった。
伊賀国の上忍の下で育てられた彼は、幼い頃から訓練を受けていた。
それ以外の選択肢は無かった。気が付いたら忍びとして周りから見られていた。
里を抜けることもできない。抜け忍となった者は殺させるからだ。
また忍びでしか生きる道は無いと彼自身思っていた。
武家奉公できるほど器用ではない。
商売できるほどの学も無い。
だから忍びとして生きるしかなかったのだ。
「いやあ。一時はどうなるかと思いましたが、何とかなりましたね」
頭の後ろに両手を置いて、のんきに言う隣の山風に、良秀は「そうだな」と端的に言う。
彼は無口では無かったが、決して言葉数の多い人間ではなかった。
「なんです良秀さん。もっと喜びましょうよ。頭領からお褒めの言葉と銭、貰ったんですから」
「喜ぶ、か。一体いつまで、仕事をしなくちゃいけないんだろうな」
珍しく感傷的になっている良秀。
怪訝な顔で山風は「まあ、ずっとじゃないですか?」と答えた。
「少なくとも、上忍になれば現場で働かなくて済みますし」
「…………」
「良秀さんならいずれなれますよ。出自が不明な余所者じゃないんですから」
その出自が不明な余所者とは、山風のことである。
彼も西国の出身だった。
だから良秀と気が合うのだろう。決して人付き合いの得意ではない良秀が、下忍だがどこか人懐っこい山風と友人のような関係なのは、境遇が似ているからだった。
「そう、だな。もうひと踏ん張りだ」
「そしたら上役として楽な仕事、振ってくださいね」
山風の笑みに、良秀は口元を歪ませた。
彼なりに笑ったのだった。
◆◇◆◇
良秀に殺しの仕事が来たのは、それから数日後のことだった。
頭領直々に「失敗は許されない」と念を押された。かなり重大な仕事だと分かったので、流石の良秀も緊張を隠し切れなかった。
「了解しました。それで標的は?」
「うむ。山科言継の子、巴だ」
山科という公家に恨みを持つ者の依頼らしい。
何故、山科言継ではなく子を狙うのかは分からない。
しかし良秀にはどうでもいいことだった。
ただ殺すだけ。それ以外考えない。考える必要もない。
「期限は七日までだ。すぐに出立せよ」
良秀は黙って頷いた。
頭領の屋敷を出ると、男の悲鳴が聞こえた。
これは痛みと恐怖の声だと良秀には分かった。
悲鳴のするほうへ足を向けると、その途中で山風と遭遇した。
「うん? 良秀さん。どうかしたんですか?」
「いや。悲鳴が気になったのでな。お前こそどうしてここに?」
山風は肩を竦めて「頭領からお呼び出しです」と言った。
「何の仕事か分かりませんけどね……ああ、悲鳴のことなら気になさらずに。抜け忍の処刑をしているんです」
「そうか。随分、痛めつけているみたいだな」
「逆さ吊りにして、子供たちに手裏剣投げさせているんですよ。まったく、残酷ですね」
良秀はそのくらいなら軽いほうだと思っていた。もっと酷い処刑を知っているからだ。
山風も当然知っていた。だから残酷と言ったのは、彼なりの冗談だった。
「しばらく仕事で里を留守にする」
「そうですか。お気をつけて」
少し会話を交わして、良秀と山風は別れた。
悲鳴はいつの間にか、聞こえなくなっていた。
◆◇◆◇
京の山科家の屋敷。
良秀は既に天井裏へと忍び込んでいた。
時刻は深夜である。標的は寝ているはずだと彼は考えていた。
深草兎歩という、足の裏に手を付けて歩く音を消す歩行術をしつつ、標的の部屋を探す良秀。
天井の隙間から下を覗く――見つけた。
頭領から聞いていたのと加えて、屋敷の下男から聞き出した――無論、始末した――人相と同じ女。部屋の中央の布団の上で寝ている。
音も無く部屋に降りて、苦無を以って標的の女の喉を掻っ切ろうとした――
「――――っ!?」
勢いに任せて殺そうとしたのに、できなかった。
思わず止まってしまった。
何故なら、巴が美しかったからだ。
今まで見たことのないほど美しい。
以前、盗んだ絵に描かれていた菩薩様のような――いや、それ以上だった。
艶やかな黒髪。今は閉じられているが、開けば黒真珠のような瞳だと分かる瞼。頬は少しだけ赤いが、雪と間違える白い肌。上下する胸。静かに寝息を立てている。
どうして山科本人を殺すように依頼しなかったのか、良秀は理解できた。
この娘を殺せば、山科自身も死ぬだろう。
死なないにしても、まともに生きることはできない。
宝物と評すべき、実子だからだ。
「……うん?」
巴が目覚めようとしている。
殺すなら、今しかなかった。
だけど――
「あら……こんな時間に、目が覚めちゃったわ」
巴がのんきに欠伸をしているとき、良秀は既に屋敷から脱出していた。
◆◇◆◇
期限の七日が過ぎた。
良秀は巴を殺すことができなかった。
篠突く雨の中、良秀は京の山に潜んでいた。
遠目から山科家の屋敷が見えるほどの距離。
「…………」
良秀は迷っていた。
巴を殺すことではない。
己の進退のことだった。
「ああ。良秀さん。こんなところにいたんですね」
不意に声をかけられる――山風だった。
「……殺しに来たのか?」
「ええまあ。頭領からお手伝いするようにと」
自分をという意味だったが、山風はそうとらえなかった。
良秀は「期限は過ぎたのだぞ」と静かに言った。
「それでも許されるのか?」
「一介の下忍に聞かれても……とにかく、巴を殺しに行きましょう」
山風が促しても、良秀は動けなかった。
「……良秀さん?」
「駄目だ。殺せない」
良秀は山風に言う。
振り返らずに、言う。
「あの娘を殺すぐらいなら、死んだほうがましだ」
「…………」
「だから――」
それ以上、言葉は続けられなかった。
「残念ですよ、良秀さん」
するりと入った刃。
「本当に、残念です。『僕』はあなたを殺したくなかった」
良秀の胸に忍び刀が生えた。
背中から突き刺した――山風が。
「う、が……」
「頭領から言われたんですよ。もし殺せなかったから、殺すか生け捕りにしろって」
前のめりに倒れる良秀に、山風は酷く冷えた声で言う。
「でも、殺したほうがいいですよね。だって、生け捕りにしたら、酷い処刑が待っているんだから」
「…………」
「さようなら、良秀さん――僕の友」
良秀はそのまま何も言わず、何も語ることなく、絶命した。
山風が殺したのは、彼なりの『優しさ』からだった。
友人としての情けでもあった。
◆◇◆◇
二年後。京の大きな橋の下で子供が溺れていた。
「だ、誰か! あの子を――」
公家の娘、巴が大声で助けを求めた直後、達者な泳ぎで子供を救助した男がいた。
男は優しい顔をした、優男としか表現できない、穏やかな男だった。
「もう大丈夫ですよ」
男は子供を落ち着かせて、それからいずこかへ行こうとした。
「お待ちください! あなたは……」
「通りすがりの浪人です。大した者ではありませんよ」
男は目の前の巴を見た。
この女が、自分に友人を殺させて、里を抜けるきっかけになった、原因――
「せめて、お名前だけでも、教えてください」
巴は自然な笑みを浮かべて、男の名を問う。
男は一瞬、考えて。
そして答えた。
「良秀と言います」
不思議とそれは、誰かを偲んだように、巴には聞こえた。
猿の内政官 零 橋本洋一 @hashimotoyoichi
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