第20話 真田幸村と志賀親善と柴田礼農

 江戸幕府はキリシタンを禁止し、それでも信仰を捨てない者を隠れキリシタンと呼び、処刑するほど危険視していた。

 そんな時代に、キリスト教徒を英雄視するのは自殺行為、下手をすれば親類縁者も監視対象となり8代後まで身内にキリシタンがいたと書かれる有様だった。

「そんな危険な人物を、いくら世話になってるとは言え書く事は出来ぬ」

 杉谷は断言した。

 下手をすれば危険な書として大友興廃記をも焼かれるかもしれないのだ。

 そんな人間を甚吉は書いてくれと要求したのである。

「無理!無理じゃ!」

 杉谷は寸毫の躊躇いもなく却下した。


 甚吉の祖父の実家。志賀家は少数で大敵を討つという劇的な戦いが多い。

 だが初代志賀甚吉 改め吉岡甚吉の兄 志賀太郎親善はキリシタンであったのだ。

 その信仰心は厚く、家督と信仰なら信仰を選ぶと言って祖父を困惑させたり、信仰の為なら秀吉の命令にも従わず宣教師を竹田にかくまったりと苛烈な逸話も多い。


 大友宗麟はまだ理性的で、キリシタン信仰は貿易などの利益を求めた節が見える。

 だが志賀親善の場合は誠の狂信者。

 想いが強い故に大業を成せたが、キリシタン関連の話によって、とても書けない人間だった。

 フロイス日本史8巻やイエズス会報告集に書かれた彼の偉業を挙げてみると


 ・バテレン追放令の後でもコンタツ(キリシタンの数珠)をつけて羽柴秀長(秀吉の弟)の前に現れた。

 ・領内の寺院の全てを破壊し、余所の領主との境界線上にあった寺はちょうど半分だけ破壊した。

 ・この破壊行為に怒った大友義統が「信仰は隠居してから。今は領主の責務に集中せよ」と伝えるが、親善は使者の居る時にわざと寺に放火した。


「書けるわけ無かろうが!こんな狂信者!」

 杉谷は眉を吊り上げた。大友宗麟などメではない。ここまでガチガチのキリシタンを称賛すれば命だって危ないだろう。

「そこを何とか!肥後から豊後に侵入した島津軍は、親善様が守る岡城を落とせなかったからこそ侵攻の勢いが弱まったのですぞ!いわば大友家の守護者!かのお方を書かずして豊後の歴史は語れませぬぞ!」

 と甚吉も粘る。

 名曲「荒城の月」のモデルの一つと言われる岡城がある竹田は大分の南西に位置する地域である。

 熊本と大分をつなぐ肥後街道の途中である竹田は島津の侵攻の途中に当たり、豊後へ流れる河川の集積地でもある。水手を中心に進軍する兵士たちにとって避けては通れない拠点だ。

 その要所を守っていたのだから島津は思い切った進軍ができなかった。

 豊後防衛一番の功労者だったのは確かだろう。

 もう一人の柴田礼能も劣勢となった大友家で『豊後のヘラクレス』と呼ばれる程の活躍をし、大友家の家紋の使用を許され大友家一族と同等に扱われる程の抜擢を受けている。

 が、その活躍は英彦山との戦いや宇佐神宮などの寺を焼いたものも含まれ、仏教関係者からは嫌われている。

 それを差し引いたら書けるものではない。


 特に親善が布教した岡藩ではキリシタンが多く1641年1646年1654年にキリシタン改めを行っている。

 そんな時勢でキリシタンだった彼を称揚するような文を書けば幕府からお咎めを受けるのではないだろうか?

 そんな恐れがあった。

 それは甚吉も分かっている。

 しかし、そのためにたった2000人で25000人の敵に攻められ、父や祖父からも裏切られた若干18歳程度の若者が命がけで豊後を守り抜いた功績までもが消されるのはあんまりではないだろうか?

 

 大友家の軍記で戸次道雪や高橋紹運の活躍は書かれても、佐伯・志賀や柴田の功績はまったく登場しない。

 そんな不遇なまま埋もれた佐伯家を書くのが大友興廃記の後半だ。

 杉谷が書かずして誰が書くと言うのか。

 大友宗麟をキリシタンとしなかった、その小賢しい悪智恵で何とか彼らを登場させてくれ。

 そう甚吉は説得し、ダメ押しとばかりにもう一つ情報を明かす。


「それに佐伯様と志賀様は#義兄弟だったのですよ__・__#」


 宣教師フロイスは日本史で志賀親善と佐伯惟定は義兄弟だと書いている。

 伝承では志賀親善の妻は田北家の娘と言われているので、惟定の妻が志賀氏の娘だったのかもしれない。

「なんと」

 系図と言うものは男性中心の目で見がちだが、女性の側からみると面白い発見が有るものである。

 大恩ある佐伯家の親族ならば話は別である。

 いくらでも筆を折り曲げて活躍させねばならない。

 さて、どうするか?


「いっそのこと、志賀様も柴田殿も儒教の崇拝者だった事にしてしまうか」


 そうは言ったものの、売れ行きよりも名を惜しむようになった今の杉谷は気の乗らない案であった。

 堂々と嘘をつくのは一度だけでたくさんだ。

「キリシタンの事を書かず、功績だけを書いて頂ければ、当家としては十分で御座いますが」

 と甚吉も譲れるラインを提示する。

 この容貌を満たすにはキリシタンであったことは削除する。それは大前提だ。

 その上で、幕府の追及をかわすにはどうするか……

 しばし黙考して杉谷は言った。


「名前を変えよう」


 キリシタンであった二人の武将。杉谷はこの二人の名前を書き換えた。

 柴田礼農は柴田礼能、志賀親善は志賀親次 と

「親」の字は志賀家の通字である。祖父は志賀親守、父は志賀親教と代々の志賀氏は親の字が名に入っている。

 柴田家はあまり知られていないが農よりも能の字の方が見栄えも良い。

「つまり、興廃記で登場するのは架空の人物。講談の坂上田村丸(坂上田村麻呂)みたいなものにすれば良いじゃろう」

 と言いのけた。


 この手法は1672年に難波戦記という本でも使われる。

 大阪の陣で徳川に抵抗した日本一の兵、真田信繁。

 彼は徳川家に弓引いた罪人として英雄視を禁じられたが、民衆は別の名前を与えることで別人とした。


 其の名を真田幸村という。

 

 徳川幕府に最後まで刃向かった重罪人だが、架空の別人ならいくら称揚しようが取り締まれないだろう。

 そんな言い訳じみた設定の先取りを杉谷は行ったのだ。

「漢字は違うが読みは同じでもあるし別にも読める。もしも幕府に咎められたら似た名前の別人ですと言えばよいだろう」

 ぬけぬけと杉谷は言った。

 そして、抜け道として阿蘇に攻め込んだ話の際に

『岡城の雑兵が神前を恐れず釣鐘を損ない狛犬を焼き、社壇を破り鳥獣を殺して肉食した。ここのため前夜神前を汚した者は戦場で目に霧が襲い、草木も敵のように見えて刀を振るい、自分から首を差し出しているようだった。雑兵150人討死した』

 と不届きな兵士が神社を破壊し、天罰が当たったと言う事で志賀親善の破壊行為の罪を転嫁し、神社仏閣は大事にしないといけない」という話にした。

 読む人が読めば『志賀様のキリシタン信仰をこう変えてきたか』と納得するだろう。


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 このため大友興廃記では19巻に志賀親次の活躍を描き、20巻では女性ながら島津の大軍相手に城を守り抜いた女傑、吉岡妙林尼の活躍を書き記している。

 このような活躍をした幼い城主と、女性の逸話は大友記・九州治乱記をはじめ他の軍記物には一切登場しない。

 初期の大友軍記で二人の名が登場するのは大友興廃記だけであり、この本で登場しなければ名は埋もれたままだっただろう。

 この記録を元に鶴崎では彼女の顕彰運動が起こり大分では吉岡長増以上の知名度が生まれ、鶴崎踊りと並んで石像まで作られた。

 志賀太郎親善も戦上手の名将としていくつかの書籍で取り上げられ、ゲームなどにも登場して若者でも名が知られるようになる。

 多くの現存する書状では『志賀親善』とかかれているが、今伝わる彼の名は親次である事を見ると、大友興廃記がなければ彼は名が埋もれたままだったかもしれない。

 なお昭和に発行された大分歴史辞典では志賀親善の項目はあるが佐伯惟定の項はない。

 柴田礼農も作家の赤神諒氏が『豊後の聖将』の名で小説化し、後世に名を残した。

 志賀・吉岡・柴田の名は鶴崎、いや大分県人に今も伝わっている。


 甚吉は投資に成功したのである。

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