第1話 ハク・アイザック
春の穏やかな気候が流れる日
桃花島にある緑豊かな鼠村では一人の少年が友人を引き連れ海に出かけようとしていた。
「行こうぜ! 海!」
意気揚々と話すこの少年の名前はハク・アイザック。
まだ10を過ぎたばかりの幼さの残る顔をした村一番のガキ大将だ。
「やめておこうよ。みんな絶対に子どもたちだけでは海に近づくなって言ってるじゃないか」
そう止めるのは、いつもハクに振り回され、苦労の絶えないアイラ・ノード。
子どもたちだけで海には行くなと村の大人から再三言われている。
海に近づくのはまだ早い、海は子どもが好きだからひきづりこまれて死んじまう、海には恐ろしい化け物がいるんだ、などなど……。
理由は人それぞれだが行ってはいけないということだけは耳にタコができるほど言われている。
だが、未だに海を自分の目で見たことがないハクは、大人たちからの言いつけよりも好奇心が勝ち、村人に黙って見に行こうとしていた。
「ちょっとぐらいなら平気だって!」
「平気なもんか。絶対碌なことにならないよ。
ハクはいつもそうだろう? この間なんて今みたいに平気だって言ってムーラおばさん家のみかんを食べて僕だけが怒られたんだ」
「アイラは足が遅いんだよ! もっと早けりゃ怒られなかったってのに。バカだな」
「ハクが盗み食いしたから怒られたんだよ!僕はみかん食べてないのに!」
「あ」
「鼻くそ投げるな!」
「悪い悪い、よし! 行こう!」
「僕の話聞いてよ!! はぁ、もう海に行くなら一人で行きなよ。僕は帰る! ハクには付き合ってられないよ」
あまりにも身勝手な発言に加え、しまいには鼻くそを飛ばしてくるハクに怒るアイラ。
怒られようとケラケラ笑いながらアイラの手を引き村の外へと出ようとするハクに痺れを切らし、その手を振り払い背を向け帰ろうとしたその時、アイラの視線にある人物が目に入った。
「あ、おじさん」
「げっ!父ちゃん⁈」
「やぁアイラ、ハク。迎えに来てくれたのかい?」
ハクの父親であるホンランだ。
彼は漁師として働いており、たった今仕事を終え村に帰宅したようだ。
アイラの声を聞き振り返ったハクはヤバいとでも言うように顔を歪めた。
「おじさん聞いてよ! ハクが」
「父ちゃんおかえり!! 帰ってくるって聞いて迎えに来たんだよ! いっぱい釣れた⁈」
さっきの態度とは一変して告げ口をしようとしたアイラの口を塞ぎながら焦ったように話すハク。
「うん。大きな魚も大量に釣り上がったんだ。今日の夕飯は豪華だぞ?」
「うぉー!すっげぇ!」
その様子を見て穏やかに笑いながら、魚の入った袋の中を見せるホンラン。
大きな魚に興奮しながら覗き込んでみるハクと、いい加減手を離してくれとハクの腕を叩くアイラ。
「どうだろう、アイラも今日は夕飯を一緒に食べないかい?」
「いってぇ!」
「いいんですか?」
「もちろんさ」
一向に離す気配のないハクの手を抓り口から退かしたアイラは、ホンランの言葉に目を輝かせながら聞く。
アイラの両親は、アイラが赤ん坊の頃に亡くなっており、祖母と二人で暮らしている。けれど、最近は足腰が悪くアイラが家事をしていた。
アイラは料理などやったこともなくいつも微妙な味のものが出来上がっていたのでおいしいご飯が食べられることが嬉しかったのだ。
「父ちゃん! アイラが抓った!」
「それじゃあお婆さんを迎えに行こうか」
「はい! 僕先に行っておばあちゃんに伝えてきます!」
「転ばないようにね」
「父ちゃん! アイラが! 抓った!」
言いつけるも相手にされず二人で会話が進んでいくことに不満げなハクとは対照によほど嬉しいのか駆け足で家に向かうアイラ。
その背中を微笑ましく見送ったホンランは、未だむすくれているハクに向き直り一言こう言った。
「ハク、海に行きたいのなら強くなってからにしなさい」
アイラに抓られたことなど頭から吹っ飛び思わず父親の笑顔を見て固まるハク。
そんなハクの頭を撫でたあと、アイラの家へと歩き出すホンラン。
その場に取り残され父親の遠くなっていく背中を見ながら、怒られなかったからセーフか?とも思ったが、瞬時に思い出した。
父は日頃から穏やかで怒ることどころか、声を荒げるところさえも見たことがない。
ハクがどれだけ悪さをしようと今のように穏やかに諭すだけで深くは言わない。
そのかわりいつだって怒るのは、鬼のような母親であると……
このまま母親にチクられたら夕飯をぬかれるかもしれない可能性に気づいたハクは、急いで追いかけた。
「父ちゃん! 母ちゃんには言わないで!」
「今日の夕飯は何にしようか」
「父ちゃん! 今日せっかくでかい魚が食えるのに飯抜きになったらどうするんだよ!」
「味噌煮はどうかな」
「美味い! 好き! 俺も食いたい! だから父ちゃんお願い!」
「お刺身でも美味しいかもしれないね」
「父ちゃーん!!」
ゆっくりとした歩みを止めず穏やかに答えながらも、決してわかったよ、とは言ってくれない父親に、助けを乞うようなハクの声が村中に響いたのであった。
◇
決死の説得も虚しく、夕飯抜きは免れたものの、ハクの頭には立派なたんこぶが一つ。
帰宅して早々、ホンランは穏やかに流れる川の如くハクが海に行こうとしていたことを話した。
笑顔で迎えてくれた母親こと碧みどりの顔が般若に切り替わった瞬間、ハクは本気で自分の母親は鬼なのではないかと疑った。
「兄ちゃんバカだな」
「あん⁈」
ハクの二歳下の弟であるミルキーを含む6人で食卓を囲む。不貞腐れていたがいつもよりちょっと豪華な夕飯に治りかけていた機嫌も、弟の一言ですぐに火がつきミルキーに凄むハク。
そんなハクに怖がる素振りもなく、ニヤニヤしながら味噌汁を啜るミルキー。
それに余計にイラつき、隣に座るアイラの刺身を勝手に食べようとするも、母に見つかり、たんこぶが二つになるハク。
「いてぇ……!!」
「行儀が悪い! 全く、海に行っちゃいけないってあれほど言ってるでしょ。アイラにまで迷惑かけて」
「……だって」
「だっても何もありません」
「なんで海に行っちゃいけないんだよ」
「危ないからだって何度も言ってるじゃない。何回言ったらわかるのさ」
「父ちゃんは毎日海に行ってんだろ!」
「大人と子どもは違います」
「んだよ、子ども子どもって」
ゲンコツを喰らったところを抑えながら反論するも、母に勝てるわけもなく不貞腐れるハク。
その様子を見て、アイラの祖母であるマーシーがゆっくりと口を開いた。
「海が危ないんじゃない……人ならざるものが、海を好むから危ないんじゃ」
「人ならざるもの?ピアサのことか?」
マーシーは目を瞑り動きを止めた。
みなマーシーに注目し次の言葉を待つ。訪れる静寂。
「ばあちゃん?」
動く気配がなくあまりの返事の遅さにハクが名前を呼ぶが反応はない。
「死んだ?いてっ!」
思わずそういえば無言で演技でもないことを言うなとでも言うように、碧に頭を叩かれるハク。
「……そうじゃ」
「そこで返事したら死んだことになっちゃうよ、おばあちゃん」
そう言ってまた目を開きゆっくりとご飯を食べ始めるマーシーと思わずツッコむアイラ。
ピアサ、人の形をした化け物ということは知っているが、実際に見たことはない。見たことがある人の話を聞いたこともあれど、ハクにとっては絵本の中の妖怪や幽霊と同じ、空想上の生物でしかない。
むしろ本当にピアサがいるというのならあってみたいくらいだ。
「本当にピアサなんているのか?」
「いるよ」
「父ちゃんも見たことあるのか⁈」
「あぁ」
「どんなの⁈」
「鱗があるって本当ですか?」
「羽が生えてて飛べるやつもいるってほんと⁈」
ハクの質問にホンランは表情を変えずに答えた。
ホンランの発言に見たことのない子どもたちは興味津々で問いかける。
「ピアサは人を食べるんだ」
ホンランの一言にさっきまで前のめりで聞いていた子どもたちの時が止まった。
人を食べる?絵本の中のピアサは人を襲う化け物ではあるが、そんな話は聞いたことがない。
大概の絵本が、人を襲い怪我もするが最後はみんなで戦って勝つ。
それが王道のストーリーであり、ハクのよく知る物語だ。
「人を、食べるって」
「僕たちが魚や肉を食べているように、ピアサのご飯は、僕たち人間なんだよ」
「あなた」
驚きで声が詰まりながらも問うアイラに、いつもと同じように穏やかに答えるホンラン。
子どもたちが固まっているのに気づき、止めるようにホンランを呼ぶ碧。
「でも、俺たちの方が強いんだろ?ピアサは人間より弱いからな」
得意げにそう言うハクに、ホンランは首を横に振り答えた。
「何人もの人が食べられて、ようやくピアサを倒せるんだ。多くのものを失って、ようやく勝つことができる」
父親にそう言われようともやはり実感はわかない。
ハクの中でどれだけ化け物であっても人を喰らう想像がつかないからだ。
父を疑っているわけではない。
むしろ父の目は真剣だ。
「だから、海に行きたいのなら強くなってから行きなさい。森のクマにも山の狼にも負けないくらいにね。わかったかい?」
3人はただ黙って頷いた。
「さっ、この話はおしまい。早く食べないと冷めちゃうわよ?」
「そうだね。ママのご飯は冷めても美味しいけど」
「もうパパったら」
手を叩き空気を変えるように言う碧。
子どもたちの前であろうと関係なくイチャつく夫婦を尻目にピアサはとても怖いものなんだと実感するアイラやミルキーとは違って、ハクは一人、御伽噺を聞いたあとのような気持ちに陥っていた。
◇
その日の夜、ハクはベッドに寝転びながら3年前のことを思い出していた。
「ピアサを見たことがない?そりゃこの島がずいぶん平和だって証拠だな。がーっはっは! いい島じゃねぇか」
酒を豪快に飲みながら笑ってそう言ったのは頭領と名乗るガタイのいい大柄な男。
歳は40代後半辺りで、背中に藤の紋章の入った服を着ていた。まだ幼いハクが見てもこの人は強い人だとわかる出立ちの男だった。
そんな男の隣にはハクと同じくらいの少年が一人。名は
二人は親子で、火の国に用があり、ここから遠く離れた風の大陸から船に乗ってやってきたそうだ。
しかし、途中で天候が荒れ、紫苑が海に放り投げ出されてしまい、それを追いかけ頭領が飛び込み助けるも船は見失ってしまったらしい。
紫苑を背負いながら頭領が泳いでいたところをホンランが乗っていた漁船が発見し、そのままの流れで家に連れ帰ってきたのだ。
後日談だが、シャチのようなスピードで人間が子供を背負い泳いでいたため、一瞬助けるのを躊躇したそうな。
笛を吹き呼んだ鷹の脚に紙をくくりつけ飛ばしたあと、仲間が迎えに来るまでの間2週間ほどおいてもらえないかと言われたホンランと碧は、二つ返事で了承した。
頭領は風の民であり、ウィスタリアと呼ばれる戦闘民族の頭領だと言った。
ハクは、頭領の強くなるために武者修行の旅に出ていた時の冒険の話を聞くのが、楽しくて仕方がなかった。
全てが新しくハクにはどの話も輝いてみえたのだ。
そんな頭領にある日、ピアサを見たことがあるかと質問をした時、当然の如くあると答えた。
俺は見たことがないというと、すごく驚いた顔をしたあと、あぁ言ったのだ。
その時は、笑われ、紫苑にもないのか⁈と驚かれたことでバカにされたと思い、怒って紫苑と取っ組み合いの喧嘩になったのだが、数分後には二人で仲良くオレンジジュースを飲んでいた。
何がどうなってそうなったのかは正直覚えていない。
そんなこんなであっという間に2週間が経ち頭領の人柄あってか、村人達に惜しまれながら二人は仲間のもとに帰っていった。
紫苑とは親友になり鷹伝書での文通は今も続いている。
文通といってもいつのまにか絵しりとりに変わり、お互いに絵が下手なのでもはや当人含む誰も理解できない暗号文書となっているが。
頭領の言葉を思い出し、俺は平和ボケしているのか?とも思うが、この村で、いや、この島でピアサを見たことがある人間の方が少ない。
アイラだって、ムーラおばさんだって、八百屋のおっちゃんも村医者の先生も、みんな見たことない。
人を喰らうピアサ、都市伝説のようなその存在に、会ってみたいような会ってみたくないようななんとも言えない気持ちだ。
頭を使うのは向いていない上に疲れると考えることを放棄し、ハクは眠りについたのだった。
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