桃源郷

三題噺トレーニング

シュガー・ハイ

玄宗の小さなころの記憶。

ひどい熱病にうなされていたら、父が桃源郷の甘露を飲ませてくれた。

水を飲むことすら苦しかった玄宗の喉をひんやりと通ったそれはこの世のものとは思えぬほど甘く、腹の中ではぽかぽかと暖まった。

玄宗の熱は間もなく引いて、翌朝には熱病の前よりも気力がみなぎるようだった。

あまりにも美味だったその味を、玄宗は今でも覚えている。


桃源郷は玄宗が暮らす村よりもはるか山奥。

きらびやかな御殿と黄金の竹林、沢の清流は極上の甘露であると同時に万病を癒す薬であるともいう。

しかし玄宗たち村の人々は桃源郷へと足を踏み入れたことはなかった。

ふたつの世界は完全に隔離されており、ただ一筋、下界の村の外れにある祠へと流れ込む桃源郷の清流からその存在を知れるのだった。

普段は封印された祠の周囲はとても危険だったが、父は玄宗のために一人、万能薬を汲みに走ったのだった。


そして今、玄宗はかつての父と同じ状況にあった。

玄宗の息子、玄侑が病に倒れた。全身に浮き出た疱瘡は、玄侑が流行病に侵されており、数日と待たずにその命が奪われるであろうことを示していた。

玄宗は幼少のころの自分を思い出していた。

父が飲ませてくれた桃源郷の甘露。

あれを飲ませることが出来れば息子は助かるかもしれない。

玄宗は祠へ向かうことを決心する。

しかし村の人間が曰く、祠の甘露は枯れてしまっていた。

なれば。

玄宗は村で一番の禁忌を犯す決意をする。

もはや桃源郷へと自らの脚でたどり着き、沢の水を汲むしかない。


祠の上流へと水の気配を辿りながら道のない道をいく。

迷うことはなかった。

しばらく歩くとすぐに、甘い香りが漂ってきたのだ。

遠い記憶の中の芳醇なあの香り。

そして匂いをたどれば、まもなく、黄金の竹林がキラキラと見えてくる。

そしてついに玄宗はたどり着いた。

開けた視界に、玄宗は言葉を失った。


きらびやかな御殿、黄金の竹林、むせかえるように甘い香りを放つ沢、そしてそのほとりに群がる、手足の腐れた人間たち……。

沢の甘みに毒された天上の人々。

先端を失った手足と潰れた眼で一滴でも多く甘露を口にいれようともがく様はまるで朽木に群がる蛆のようだった。


なんてことだ、と鼻を覆いながら玄宗は、腐れ人たちのいない上流を探す。

沢を辿っていくと、とうとう岩の隙間からこぼれる湧き水を見つけた。

あとはこれを息子に飲ませればきっと回復するだろう。

一口だけであればあの腐れた人々のようにはならない。それは玄宗が証明している。


ああしかし、玄宗の脳髄がそのままこの場を離れることを許さなかった。

目の前にはあの甘露がある。

蠱惑的な香りを携えて、光を反射する水面は、これを飲めば天上の幸福を与えんと玄宗を誘惑する。

そうだ、村へと持ち帰る前に、一口だけ、これを飲む権利があるのではないか。

ここまで険しい道を歩んできた。脚は棒のようだし、喉は奥の奥までからからだ。

一口だけ。一口だけならば、甘さに毒されることなとないのだ。

一口だけならば。


玄宗は震える両手でその飲み物を汲み上げると、うやうやしく口をつけた。

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