光の国の伝説

白兎

第1話

 どこまでも続く広い草原に吹く風が、走るように僕の前を通り過ぎる。

「君は……誰?」

 一人の少年が、僕に背を向けて立っている。年の頃は僕と同じくらいだろうか? 若草色の異国の服を身に纏い、一つにまとめた長い黒髪を風になびかせている。

 そんな夢をここ最近は何度も見ていた。少年は常に僕に背を向けている。何かの物語だっただろうか? どこかでこんな風景を見た覚えがある。夢の中じゃなくて……。


 目が覚めると、僕は現実の中にいた。ベッドから起き上がり、机の上の時計に目を向けた。

「あっ、また遅刻だ」

 急いで着替えをして、髪をとかし、身なりを整え食堂へ向かって走り、静かにドアを開けた。

「すみません。今朝はどうしても起きられなくて……」

 僕がそう言うのを遮るように、

「言い訳は聞きません。早く席に着きなさい」

 シスターが強い口調でピシャリと言った。僕はまた、小さな声ですみませんと言って席に着いた。

「さあ、お祈りをしましょう」

 ここには、僕を含めて十二人の子供たちがいる。何らかの事情があって、親と暮らすことができない子供たちが、この『もみの木』に連れてこられるのだ。『もみの木』というのは、聖マリア教会の児童施設のことだ。

「天にあらします我らの父よ。今日もあたたかいお食事をありがとうございます」

 声をそろえてそう言ったあと、アーメンと唱えてから食べることが許される。僕は神が存在しているとは思わない。キリスト教を信仰しているわけでもない。しかし、これは食事を得るための儀式なのだから仕方がないのだ。食事を終えると、それぞれ食器の片づけをする。先週は食器洗いの当番だった。今週は早百合が食器を洗うことになっている。僕は部屋へ戻り、洗面台で歯を磨き、身なりのチェックをした。この部屋は、僕と一つ下の裕也と二人で使っていた。だが今、裕也はいない。先月の終わりに、両親そろって引き取りに来たのだ。どんな事情で裕也をここへ預けたのか知らないが、子供の気も知らないで、大人は勝手なことをする。でも、親元へ帰れたことが、裕也にとって幸せなことならそれでいい。ここは規律が厳しく、嫌な奴もいる。僕は生まれてからここしか知らないが、きっと両親と暮らすことが一番幸せなのかもしれない。他のみんなは、本当の親とか、親戚にここへ連れてこられてきた。しかし、僕は十一年前の十月十二日に『もみの木』の門前に置き去りにされた。素性の分かる者は一切無かったらしい。


「太郎、今日は学校の始業時間に遅れてはいけませんよ。先週は担任の先生に注意されたのですからね」

 僕に太郎と名付けたのはシスターだ。そして僕は、シスターの養子になった。

「はい、シスター。行ってまいります」

「気を付けていってらっしゃい」

 シスターが玄関で子供たちを見送る。門の左にあるもみの木の手入れをする男。彼は庭師兼、力仕事の雑用係で藁科という。藁科は僕に敵意のある視線を向けてきた。シスターは彼を信頼しているようだが、とんだ食わせ者だ。


 『もみの木』の子供のうち、小学生は僕を含めて五人。六年の僕、五年の辰輝、三年の麻衣に、一年の沙智と学だ。中学生は、早百合が一人。残る六人は就学前で、シスターと、二人の保育士と一緒に施設の中で一日過ごすのだ。保育士は通いで来ている。


 登校時は、年長の僕と辰樹が下級生を連れて行く役目になっている。食器洗い当番は、早百合と僕と辰樹で、一週間ずつの交代だ。学校までの道のり、下級生たちはとても行儀よく並んで歩く。ほとんどしゃべらないし、列を乱すこともない。この時間には、ばらばらと同じ小学校に通う児童らが登校を始める。みんな底抜けた明るさで、元気よく駆けてゆく。僕はふと、沙智と学を見た。同年代の子たちは、友達同士つつき合い、楽しげな声を上げて走っている。『もみの木』でのしつけは厳しく、たとえ幼くとも、大きな声を上げてはしゃぐことは許されないのだ。僕らはまるで、葬式の行列のように陰気に歩いている。けれどシスターは、しつけの行き届いた子供たちだと、世間に思われていると勘違いをしている。


 校門まで来ると、僕は役目を終え、下級生たちは校舎へと入っていった。

「それじゃ」

「おう」

 僕と辰樹も教室へと向かった。今日もまた、学校での一日が始まる。とても憂鬱だ。クラスメイトは、僕らのような親なしを受け入れてはくれない。幼いころはそれでもよかった。友達になることは難しくはなかったのだが、最近では彼らの親が友達を選ぶようにと言っているらしいのだ。それで、それまで友達だった子も、僕と距離を置くようになった。ここでは僕は孤独だ。教室に入ると、自分の席に着き、始業のチャイムが鳴るまで小説を読むことにしている。こうしていれば、自分が孤独で淋しいとは感じない。教室は次第にざわざわとして、ほとんどの生徒が登校したようだ。本に目を落としているから、周りは見ていない。チャイムはまだ鳴っていないのに、急にシーンとした。担任が入ってきたのだろう。


「おはよう」

 担任があいさつすると、日直当番が『起立』と号令した。みんなが一斉に立ち上がり、僕も本を閉じ、それに従った。『れい』という号令で、

「おはようございます」

 と声をそろえてあいさつをする。『着席』と言われれば、みんなが一斉にイスをガタゴトさせて席に着く。これも毎朝の儀式だ。今日はなんだか担任の顔がこわばって見える。何か嫌なことが起こるに違いない。

「今日は、みんなに聞きたいことがある」

 そう言って、僕らの顔を窺うように一巡した。

「昨日、榊原の財布がなくなった。教室を探したが、見つからなかった。この件について、誰か知っている者はいないか?」


 急に教室がざわめいた。みんなが小声で、となり同士、前後の友人と言葉を交わしている。僕だけはじっと黙って黒板を見つめた。

「はい、先生」

 手を挙げたのは、このクラスの学級委員を務めている斎藤頼子。

「斎藤、何か知っているのか?」

「そうじゃありません。学校の規律に、特別な場合を除いては現金を持ってくることを禁ずるとあります。榊原さんは財布を持ってくる特別な理由があったのですか?」

 そう言われて、榊原さんはうつむいた。


「まあ、そのことは本人ともよく話したから。必要がないのに持ってきたことは反省しているんだ。それより、今、問題なのはそのことじゃない。財布の行方だ。疑うわけじゃないが、このクラスで財布がなくなっていることは事実だ」

 そう言って、僕を見た。

「何が言いたいんですか? まさか、このクラスに財布を盗んだ犯人がいるとでも?」

 すかさず、斎藤頼子が問いただした。

「だから、もしかしたら誰かが持っているかもしれないと……」

 教師のくせに、彼女の強い態度にたじたじのようだ。


「俺らのクラスの中にそんなことをする奴がいるとしたら、一人しかいねーじゃん」

 横峯渉はそう言って僕を見た。

「小遣いをもらえない奴がさ、人の財布を見たら欲しくなるんじゃねーの?」

 クラスのみんなは、くすくす笑ったり、何かこそこそと話している。


「それって、僕のことだよね。君は間違っているよ。小遣いはもらっていないけれど、不自由はないよ。シスターは親切だし、必要なものは何でも買ってくれるもの」

 僕の言葉は理解してもらえただろうか? ときどき聞こえていないんじゃないかと思うことがある。


「そうね、私も太郎君がそんなことするとは思わないわ。きっと、どこかにあるはずよ。誰かが取っただなんて決めつけるのはどうかしら?」

「ちぇっ」

 学級委員の言葉には説得力もあり、横峯も黙るしかないようだ。

「財布の行方が問題なら、みんなで探せばいいよ」

 僕の言葉には彼女以外、誰も反応しない。


「そうね、教室を探したとおっしゃいましたけど、案外、彼女の部屋にあったりするかもしれないですよ。灯台下暗しというじゃないですか」

 担任も困ったようすで、

「まだ、確かめてはいないんだが、榊原は学校でなくしたと……」

 またもやしどろもどろとなり、結局、斎藤さんの言うとおり、担任は榊原さんの家を訪問することとなった。僕のような親なしは、こういう時は真っ先に疑われる。もう慣れっこだ。


 施設に帰り、シスターに帰宅のあいさつをしたが、その日の出来事は、彼女の耳には入っていないようだ。何かあれば、必ずシスターの部屋でお説教だ。声がかからなかったことに少しほっとした。もみの木に帰れば、僕らには仕事が待っている。庭掃除に、トイレ掃除。洗濯物の取り込みなど分担してやっている。仕事を済ませると、夕食までの時間があれば、宿題をやる。外へ出て遊ぶ時間など、ほとんどない。小学生になれば、たとえ一年生でも仕事が与えられる。ここはまるで、監獄のようだ。シスターは僕らのような親なしを育ててくれているが、とても厳しく、母親という存在とはほど遠い。


 夕食の時間も、例のお祈りがある。そして、食事が済むと、報告会だ。

「さあ、今日の学校でのことを聞かせてもらいます」

 シスターが言うと、一年の沙智と学、次に麻衣という順番で報告する。下級生は何も問題はなかったようだ。

「さあ、辰樹あなたはどうだったのかしら?」

 そう言われて、辰樹はビクンッと立ち上がった。何かあったのだろうか?

「今日、体育の時間に、僕の投げたボールが、クラスメイトの山瀬さんの顔に当たってしまいました」

「そのようですね。相手の方には謝罪の電話をしておきました。これからは気を付けるのですよ。このことはもういいでしょう。許してもらえたのですから」

 「はい、シスター。ありがとうございます」

 辰樹は深く頭を下げて席に着いた。こんな些細なことでも、学校から知らせてくるなんて……。

「太郎、あなたはどうでしたか?」

 報告するべきなのだろうか。なんて話したらいいのだろう?

「太郎、何かあったのですね」

「はい、シスター。今日、僕のクラスで榊原さんの財布がなくなりました」

「そう、あなたが関係しているわけではないのでしょう? 学校からは報告がなかったのですから」

「もちろんですとも。僕はまったく無関係です」

「ならば、あなたがここで話す必要はないのでは?」

「それがあるのです。担任教師が僕を疑ったのです」

 シスターはそれを聞いて、立ち上がろうしてまた、ぐらりと崩れるように席に着いた。軽くめまいを起こしたようだ。それまで黙って見ていた、給仕のおばさんが思わず駆け寄った。


「大丈夫です。ご心配なく」

 シスターは給仕の差し伸べる手を丁重に押し戻した。

「なんてことでしょう。教師ともあろうものが、罪のない者を疑うとは。太郎、もちろんあなたは本当に知らないのですよね?」

「はい、シスター。神に誓って」

「分かりました。このことは心配しなくてもいいですよ。辛かったでしょう? でも、明日には解決しますから」

 早百合の報告は、いつも通りの生活を送ったということだけだった。


 報告会が終わると、それぞれ自室に戻った。小さなバスルームが部屋にあって、いつでも入ることができる。今日はもう少しあとでシャワーを浴びよう。宿題も済ませていたので、僕は今日の出来事を日記につけた。

「五月二十五日 今日、朝一番に担任が、榊原さんの財布がなくなったという。犯人はクラスの中にいるのではないかと疑った。横峯はすぐ僕を見て、小遣いをもらえない奴が取ったんだと言った。僕はもちろん取っていないから、それを否定した。斎藤さんは、僕がそんなことをする人じゃないとみんなの前で言ってくれた……」

日記を書いているうちに、眠気に襲われ、これ以上書けなくなった。なんとか、ベッドにたどり着いて、布団にもぐりこんだ。今日はきっと、気疲れしたんだろう。


 草原に立つ少年が、どこかへ向かって走り出した。彼の向かった先は街だった。白い石造りの建物が通りに並んで建っている。店屋の立ち並ぶ広い表通りを抜けて、狭くて小さい店舗がひしめいている裏通りに入った。

「やあ、ヤマト。今日も蒼の草原に行っていたのかい?」

「ええ、あそこの風は特別に清らかですからね」

 ヤマトは、汚いひげ面でこげ茶色の髪の、まるで浮浪者のような男に愛想よく言った。その裏通りも抜けると、店はほとんどなく、長屋のような建物が見えてきた。そこは貧しい人々の住居区らしい。表の建物とは違い、土くれのような粗末な材質でできた長屋には、やはり粗末な服を着た人たちがいた。ヤマトの服装を見る限り、このあたりの人々とは身分が違うと思われる。それなのに彼らとも分け隔てなく言葉を交わす。


「シンシン。今日は顔色がいいようだね」

 ヤマトが話しかけたのは、幼い男の子だった。

「うん。今日はもう二回もご飯を食べたんだ」

 とにっこりほほえんだ。

「そうか、よかったね」


 彼らは相当貧しく、まともな食事をとることもままならないのだろう。ヤマトが顔を向けた方向には、高くそびえ建つ城があった。立派なその城を建てるために、国民から搾取した莫大なお金が想像できる。ここにいる貧しい人々に救いの手が差し伸べられることはないのだろうか?

「これから仕事かいね?」

 長屋の前にイスを置いて座っている、頭のぼさぼさな汚いなりのおばさんが話しかけてきた。ここにいる人たちもまた、髪の色はこげ茶色だ。ヤマトの髪は彼らと比べると美しかった。


「ええ、カリナさんとこの鎌の切れが悪いそうでね」

「そうかい。あたしらのはさみもちょいと見てくれんかね」

 その女は、服の仕立てを生業にしているらしく、きれいな生地を縫っていた。自分では着ることのない服なのだろう。

「ええ、いいですとも。あとで、取りに伺いますよ」

「あたしらが持っていくで」

「そうですか。助かります」

 ヤマトは長屋の一つの部屋に入った。そこはとてもシンプルなつくりで、家具はほとんどなく、粗末なベッドが奥にあり、仕事に使う道具と窯があった。彼は鍛冶屋らしい。

「さてと」

 彼はさっそく仕事にとりかかろうと、冷えた窯に火を入れて、鞴で風を送った。それから、預かっていた鎌の刃を柄から外した。


「ヤマト! 大変だ」

 そこへ飛び込んできたのは、さっきのシンシンと呼ばれた男の子だった。

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