勝鯉の美酒に酔いたい

羽間慧

1杯目 忘れられない試合

 あの日まで、野球観戦に熱中するとは思わなかった。

 野球のルールを詳しく知らない。応援したい選手も特にいない。


 小学校の修学旅行でヤフードーム(現・福岡PayPayドーム)のバックヤードを見学したり、高校の野球応援でメガホンを叩いたりしたことはあった。だが、どちらも強制参加イベントだったせいか、興味はそこまで持てなかった。家族が熱心に野球を勧めることがなかったからかもしれない。


 広島県出身の父は、子供のころから就職するまでカープファン。就職で忙しくなり、テレビから離れていったことで疎遠になっていた。

 母は昔ヤクルトの選手に推しがいたらしいが、父と同じく継続して応援することはなかった。


 そんな私のターニングポイントは、二〇一五年十月七日の最終戦。広島対中日戦。普段は野球を見ない羽間家のテレビに、珍しく野球中継が流れた。はっきり言うと、父の気まぐれだった。でも、たまたまテレビを見たことが、忘れられない瞬間と出会わせた。


 カープの先発は前田健太投手。のちにドジャースへ移籍することになる、エースの登板だった。

 有終の美を飾りたい一戦。だけど、勝利への闘志はそれだけにとどまらない。


 カープは、勝利すればクライマックスシリーズ(CS)進出が確定。中日にとっては山本昌さんの引退試合で、どちらも負けられない戦いだった。


 試合は、七回まで無失点。八回は前田健太投手から大瀬良大地投手にスイッチした。それまで抑えていた中日打線が二点を取り、大瀬良投手から中崎投手に代えるも三点目が入ってしまう。


 カープの攻撃は残り二回。九回の裏スリーアウトまでに三得点しなければ、負けを覆すことはできない。それまで打てていないチームにとって、痛い失点だった。


 ベンチで号泣する大瀬良投手。前田健太投手になだめられても、その涙は止まらなかった。失点の重みが痛いほど身にのしかかっていた。


 カープ打線はわずか一安打。完封負けで終わった。


 残念そうに溜息をつく父。それを見て、母は「普段見ない人が応援するから負けたんよ」と話していた。


 私の脳裏には、大瀬良投手の涙が鮮明に浮かんだ。


 彼の背番号は十四。炎のストッパーと呼ばれた津田恒美さんの番号でもあった。私の地元にある市民球場の愛称は、津田恒実メモリアルスタジアム。津田さんには親近感が湧いていた。


 弱気は最大の敵。津田さんの名言だ。


 心の中で、私は呟く。今日の投球を思い出し、マウンドで不安になることがあるだろう。それでも、あの涙を超えて力強い投球をしてほしい。


 そんな大瀬良投手へのエールが、広島東洋カープの応援を始めるきっかけになった。


 二十四年ぶりの優勝も、三年連続CS進出も逃した二〇一五年。ほかのカープファンにとっては苦い後味のシーズンだっただろう。

 しかし私にとっては、あの最終戦こそ記憶に残る一番の試合なのだ。


 人気の球団だから応援したり、優勝から遠ざかっているために情がわいたりした訳でもなく。

 推しの勇姿が見たい!

 ただそれだけの理由で、沼へ一歩進み出した。

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