第十五話「夕桜 ーゆうざくらー」③

 見つめていると吸い込まれそうな青が、空一面に広がっている。


 太陽が程よく雲に隠れていて、空を見るのにちょうどいい。まだ湿気は残っているものの、先日の荒天が嘘のような絶好の散歩日和だ。


(散歩かぁ……)


 病院の敷地内や近所の図書館などに限られていたし、常に車椅子ではあったものの、元の世界ではそれなりに外を出歩いていた。


 巫女になってからは、社と駅の中ばかりだ。


 この旅が終わればかんなぎ総会といった有事を除き、つきのくにの社から出ることすら叶わなくなるだろう。人の生を捨て、巫女として生きるというのはそういうことだ。



(それでも――)



 簡素にまとめた黒髪が、僕の前で揺れ動く。


 巫女としての生を選んだからこそ、今こうして、この背中を見つめていられる。



(――僕は今、すごく幸せだ)



 部屋に着き、桜さんがふすまを開く。

 僕が部屋に入ると、淡々とした声色で「葉月様」と口にした。


「少々お時間よろしいでしょうか?」

「もちろん」

「失礼いたします」


 桜さんが三つ指をついてから部屋に入り、そっと襖を閉めた。



「はぁー、疲れた」



 桜さんが日頃のうっぷんごと吐き出すように息をつき、姿勢を崩す。愛想の欠片もない姿を前に、思わず頬が緩んだ。


「お疲れ様。肩とか揉む?」

「遠慮しておくわ。葉月の肩揉み、力なさ過ぎてあんまり意味ないし」

「すみません……」

「冗談。まだ本調子じゃないあんたに、そんなことさせられないだけよ」


 さらりとからかわれたけど、そういう時には楽しそうな顔を見せてくれる。僕にとっても楽しい息抜きの時間だ。


 最近、桜さんがこうして、二人きりの時間を作ってくれるようになった。


 おそらく、今まで以上に仕事の負担も増えているはずだ。申し訳ないと思いつつ、どうしても嬉しい気持ちの方が勝ってしまう。


 きっかけは、おそらくあの夜の言葉だ。




『何があっても、最後まで葉月の傍にいる。自らその道を選んだのよ』




 桜さんがあの時、何を考えてそう言ったのかは分からない。


 だけど彼女は、かたくななほどに自分の意志で行動する人だ。あの言葉も、僕への気遣いである以前に自分のためだろう。




 だからこそ、本当に嬉しかった。


 自分の意志で、自分のために、僕の傍にいることを選んでくれたから。




「桜さんは体を揉むのが上手です……だよね。初めて揉んでもらった時なんか『何これ天国!?』って思ったよ。本当に」

「天国って、大袈裟ね」


 桜さんは苦笑するけど、けして誇張ではない。


 この世界に来たばかりの頃、体の使い方が分からずに度々筋肉痛で死にかけた僕を助けてくれたのは、他ならない桜さんの手腕なのだ。

 初日に至っては、あまりの気持ち良さに昇天し、仕舞いには感涙したものだ。本当に涙を流してドン引きされたけど。


 そして我に返ってから、桜さんに体を触られたという事実に密かに転げ回ったのも、今となっては良い思い出だ。


「姉さんが若い癖に凝りやすかったからね。よくやってたのよ」

「僕もできます、かな」

「別に難しくないけど、やりたいの?」

「うん。桜さんには、いつも世話ばかりかけちゃってまするから」

「……葉月、喋りにくいなら無理して直さなくてもいいのよ?」


 違和感がよっぽど半端ないのだろう。桜さんにさらりと突っ込まれた。ちなみにこの突っ込みは三回目だったりする。


「無理をしてるつもりはないんだけど……もしかして、見苦しいとか?」

「むしろ面白いわ」

「面白い!?」

「例えるなら、台所のかめに無理やり入って出られなくなった犬を見ている感じね」

「なんか、妙に具体的ですね」

「昔、犬を飼っていたことがあったの。狭いところが大好きで、あちこちでよくはさまって動けなくなってね……その様子が可愛くて、なんだか葉月に似てるのよね」

「へ、へぇ……」


 そして、犬みたいで可愛いと言われたのはこれで二回目だ。桜さんにとって、僕がペット的存在であることが確定した瞬間だった。


「ところで、葉月」

「はい」

「口調、戻ってるわよ」

「え、マジですかっ?」

「まじよ。今まさにね」

「あっ!」


 思わず口を押えたけど、突っ込まれている時点ですでに遅かった。


「うぅ……なんか、ごめん」

「謝ることなんて一つもないわよ。むしろ私、嬉しいんだから」

「え?」

「だって、葉月なりに、私に歩み寄ろうとしてくれてるんでしょう?」


 桜さんの頬が、ふわりとほころんだ。


「……うん」


 いつもの凛とした表情も綺麗だけど、やっぱり笑顔が一番好きだ。僕と二人きりの時に、こうやって見せてくれる屈託のない笑顔が。


 この笑顔が見られるのなら、口調を矯正する労苦くらいなんてことない。



「葉月、この後のことなんだけど」



 桜さんの表情が引き締まり、口調も改まったものになった。

 仕事の話をする時の顔だ。こういう時は大抵、他の従者が送迎役となる。


「仕事の手が足りてないみたいで、この後の送迎はできそうにないの。代わりに、めしという人が来てくれるわ」

「あ、花鶯さんの従者の?」

「えぇ。優秀な上に温厚で、余計なことはけして言わない人だから安心して」

「分かった」


(今日はこの後、もう会えないのか……)


 最近は二人きりの時間が増えたけど、その分、離れる時の名残惜しさも増した。


「ちなみに明日から三日間も、菜飯が私の代役を務めることになるわ」

「え、そんなに?」

「えぇ。その間は、こうやって顔を合わせることも難しいと思う」

「そっか……」


 今までも他の従者が代役を務めることはあったけど、三日連続は初めてだ。


 三日以上も、桜さんと会えない。

 想像しただけで、名残惜しさが一層増した。


「悪いわね。いつもこっちの都合で」

「ううん、仕方ないよ。仕事なんだから」


 僕なりの、精いっぱいの笑顔を作る。


 ただでさえ忙しいのに、僕のために時間を使ってくれているのだ。これ以上、余計な気を遣わせるわけにはいかない。


「……菜飯さんって確か、社を離れてるって聞いたけど、帰ってきたの?」

「えぇ、一昨日の夜更けにね」

「どんな人なの?」


 話題を変えるためでもあるけど、純粋にその人物像も気になる。


 従者の皆さんが、しきりに口にするのだ。

 ここに菜飯がいたらどんなに楽だろう、一刻も早く戻ってきてほしい……と。


「一言で表すなら、できる大人ね」

「ほぉ」

「器用で気が利く上に愛想も良くて、他愛のない揉め事の仲裁までしてくれる。あの人がいるだけで、全体の仕事が効率良く回るわ」

「へぇ……」

「私たちの仕事が楽になるのはもちろん、さぶろうさんの気苦労もかなり減るでしょうね。あの人がいない視察の旅は、冗談抜きで地獄だもの」

「もはや完璧超人じゃん!」

「どうだかね。少なくとも、仕事に関しては三郎さんと同じくらい信用できるわ。何より、あの花鶯様から絶大な信頼を得ている」

「なるほど」


 自他ともに厳しい桜さんが、ここまで誰かを褒めるのは珍しい。


 もっとも、社の人たちは良くも悪くも個性的な人が多いから、桜さんが厳しい評価を下してしまうのも無理はないだろうけど。


「桜さんが言うと、なんか説得力あるなぁ」

「なんで?」

「簡単に人を褒めないから」

「私が心の狭いひねくれ者ってこと?」

「うえぇあ!?」


 驚きのあまり、喉から変な声が出てしまった。羞恥心で全身がまたたく間に熱くなる。駄目だ……今すぐこの記憶を消し去ってしまいたい。



 不意に、桜さんが吹き出した。



 背中を曲げ、目をきつく閉じ、死にもの狂いで笑い声を抑えている。僕の奇声、どんだけ間抜けだったんだろう……。


 次第に、桜さんの呼吸が落ち着いてきた。


 乱れに乱れた呼吸を整えるその姿からは、今にも暴発しかねない状態だったことが容易にうかがえる。いつもの目力はどこへやら、薄っすらと開いた目尻には涙が溜まっていた。普段からは想像もつかないほど、ゆるゆるに緩みきった笑顔だ。


 目尻に溜まった涙をぬぐいながら、桜さんがゆるゆるの口を開いた。



「冗談……冗談よ。ちゃんと分かってるから」



(わぁ、可愛い)


 こんな風に笑ってくれるなら、間抜けな声をさらした甲斐があったというものだ。


 一通り笑い終えたのか、桜さんが「さてと」と呟きながら姿勢を正した。

 次の瞬間には普段の凛とした顔に戻っているのだから、さすがと言うほかない。


「じゃあ、そろそろ」

「うん」

「滅多なことはないと思うけど、何かあったら遠慮なく呼んで」

「分かった」


 桜さんの顔が、従者のものとなった。

 三つ指をついて「失礼いたします」と口にする。それからふすまを開き、しとやかな動きを一切崩すことなく部屋を後にした。




 桜さんの足音が遠ざかるまで、未練たらしく耳をすませる。


 やがて、一切の足音が聞こえなくなった。




(……まだ、時間あるかな)


 時計に目をやり、本棚から教科書を出す。

 とりあえず、今日習う箇所を眺めるくらいの余裕はありそうだ。やることを見つけると、それだけで心が軽くなる。


 しばらくすると、部屋の外から足音が近づいてきた。巫女の部屋付近は基本的に人が行き来しないから、足音が本当によく聞こえる。


 僕は教科書を閉じ、いつでも受け答えができるように備えた。


「菜飯、参上いたしました」

「どうぞ、入ってください」

「失礼いたします」


 緩やかに襖が開く。

 男性が襖から手を離し、首を垂れた。


「お初にお目にかかります」


 男性がゆっくりと顔を上げた。


「改めまして、菜飯と申します。花鶯様の従者を務めておりますが、諸事情により視察に遅れて参じました。以後お見知りおきを」

「月国の巫女の、葉月です」


 変に気遣わせないよう、軽めにお辞儀をする。

 それを察してか、菜飯さんは無駄に恐縮することなく、ただ小さく微笑んだ。



 穏和な声色に見合う、物腰の柔らかい人だ。



 従者の例に漏れず髪は短いものの、左右に分けた前髪を始め、一寸の乱れなく整然としている。頭のてっぺんから爪先まで身綺麗なので、良い意味で男臭さがない。整った容姿も相まって、小春さんとは別方向で女性にモテそうだ。


 加えて、仕草の全てから気品を感じる。同じ気品でも花鶯さんの気高さとは違い、大人の品格と落ち着きを兼ね揃えている。


「桜さんからお聞きしたかと存じますが、本日及び明日から三日間は、私が従者役を務めさせていただきます。何なりとお申し付けください」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


(ザ・大人だ)


 大人の品格に呑まれているのか、アホみたいな言葉が頭をよぎった。


 花鶯さんの侍女たちも一挙手一投足が洗練されているけど、この人はそれを遥かに上回っている。花鶯さんの従者というのは伊達じゃない。


「早速ですが、黄林様の御部屋にお送りいたします。部屋の外でお待ちしておりますので、準備ができ次第、御声をかけてください」

「あ、もうできてます」

「失礼いたしました。それでは、こちらへ」


(この落ち着きがあったら、少しは桜さんに見直してもらえるかな)


 少なくとも、犬みたいで可愛いと言われることはなくなるだろう。そうやって大人の落ち着きを羨みつつ、僕は部屋を後にした。



 廊下を歩きながら外に目をやる。



 清々しい青が広がっていた空に、少しばかり赤みが差し始めてきた。いろいろと忙しいからか、本当に時間の流れが早く感じる。


「綺麗でございますね」

「え?」


 視線を戻すと、菜飯さんが微笑んでいた。


「葉月様は、空がお好きですか?」

「はい」

「私も空を見るのが好きでして、特に夕方の空は……不思議と心が安らぎます」

「あ、僕もです! あの赤みがかった空を見ると、なんだかほっとするんですよね。今日も一日、無事に乗り切ったって」


 初対面同士とは思えないほどに、すんなりと会話が弾んでいく。


 それでいて性急には進めず、僕の顔色をそれとなくうかがいながら言葉を紡いでいる。大人な上に会話も上手とか、同じ男として羨まし過ぎる。


(ていうか、初対面でこんなに平和なのって、何気に初めてでは……?)


 思えばこの世界での出会いは、桜さんを含めエキセントリックなものばかりだ。

 始めは驚きの連続だったけど、今では何事もなく会話が成立しているこの状況を奇跡的に感じるのだから、慣れというのは恐ろしい。



 会話をしている内に、人影が視界に入った。



 落葉さんだ。庭の前に腰かけ、ぶつぶつと呟きながらもっかんに書き殴っている。絶対に違うだろうけど、じゅでもかけているかのような形相だ。


 両脇には、積み過ぎて山と化した大量の木簡。

 平和だと思った矢先に、エキセントリックな現場を目撃してしまった。


(……何を書いてるんだろう)


 同じ巫女かつ同性という共通点があるにも関わらず、実は落葉さんと会話らしい会話をしたことがない。そもそも接点がないのだ。


 ちらりと菜飯さんを見る。菜飯さんの穏やかな笑みは変わらない。

 止められる気配はなさそうなので、話しかけてみることにした。

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