桜吹雪の後に

三章「堅国の花」

第十五話「夕桜 ーゆうざくらー」①

　暗闇の中に、一つの影があった。

　影は、灯火で足元を照らしながら歩いている。足の動きに合わせて、もう片方の手にある食事が盆の上で小さく揺れた。

　廊下の至る所が朽ち果てており、一歩進むごとに危うげな音を立てている。

　長らく放置されたこの離れは、修繕が困難なほどに老朽化が進んでいる。灯りすらまともに設置されていないので、夜には山奥とさして変わらない闇に覆われる。

　そういうわけで、夜にこの離れを歩くのは非常に危険極まりない。

　実際、廊下で足を嵌（はま）らせるなどの事故が度々起こるため、下々の者たちの間では危険地帯として真っ先に挙げられる仕事場でもある。

　これまた朽ち果てた階段を慎重に下っていくと、次第に灯りが見えてきた。仄暗い灯りだが、足元も覚束ないこの場においては確かな存在感を示している。

　階段を下り終えると、影はそっと膝をついた。

「お食事でございます、江（え）奈（な）古（こ）様」

　江奈古と呼ばれた少女は、影に見向きもせずに俯（うつむ）いていた。格子に囲われた座敷牢の中で、何をするでもなくただ座っている。

「失礼いたします」

　灯火を足元に置き、盆の上の食事を小窓からそっと入れていく。

　少女からは何も返ってこない。目の前に置かれる食事を、ぼんやりと見つめるだけだ。本来の彼女なら、畳の上に直に食事を置かれて黙っているはずがないのに。

　初めている姿だった。

　烈火の如く怒る彼女が、このような――――

　錆びた金属の音が、乾いた空気を震わせた。

　内装こそ朽ちているものの、今でも食糧庫として下々の者が行き来しているため、入口には重厚な扉と鍵が施されている。もちろん影はこの離れに入った際、万が一にも不埒者が侵入しないようすぐに施錠した。

　程なくして、階段の軋む音が近づいてきた。

　その後に続くように、着物の擦れる音がする。

　離れの管理人が、扉の鍵を渡す相手は限られている。一つは、影のように仕事で足を運ぶ者。もう一つは、屋敷の主人及びその関係者だ。

　そして、この屋敷で裾（すそ）が擦れるほどに着物を着込む者は、一人しかいない。

「…………っ」

　少女の息が、微（かす）かに震えた。灯火に照らされた少女の顔を確認する。

　震えているのは、息だけではない。

　目を見開き、痛々しいほどに爪を膝に食い込ませている。人目も憚（はばか）らずに怯えるその様は、反骨心の塊の如き彼女からは考えられない姿だ。

　着物の擦れる音と足音が、静かに止んだ。

「あら、先客がいたのね」

　背後からの声に、影は思わず振り返った。

　亜麻色の豊かな髪。

　見るからに住む世界の違う雅（みやび）な着物。

　そして、穢（けが）れを知らぬ童のような――笑顔。

　影は、その姫君から目を離せなかった。

　それはけして、姫君の浮世離れした美しさに見惚れたからではない。

「初めまして……でいいかしら」

　童のようなその微笑みが、暗闇の中でいっそう妖しく煌めいた。

　　　＊＊＊

　鈴の音が、静かに空気を揺らした。

　厳（おごそ）かな響きが、体にまとわりつく湿気を切り裂いていく。まるで自分の周りだけが、現世から隔離されたような――――

「葉（は）月（づき）、止め！」

　鈴の音よりも鋭い一声で、僕は我に返った。

　顔を上げると、花（か）鶯（おう）さんが腕を組んでこちらを見据えていた。

「舞の方はだいぶ形になってきたわね。後はひたすら練習あるのみよ」

「ほ、本当ですか？」

「えぇ。数日の遅れをちゃんと取り戻しているわ。この調子で精進なさい」

「ありがとうございます！」

　褒められて、全身が舞い上がった。

　生真面目な花鶯さんは、けしてその場しのぎのお世辞を口にしない。だからこそ、彼女に褒められるのは本当に嬉しい。

「それじゃあ、葉月はいったん休憩に入って」

「え、もうですか？」

「復帰したといっても、まだ病み上がりなんだから無理は禁物。いいわね？」

「分かりました……」

　物足りなさを感じつつも、大人しく部屋の隅に引っ込む。一方の蛍（けい）ちゃんは、本番さながらの見事な舞を繰り広げていた。

　現在、僕たちは堅（けん）国（こく）に向かう道中の駅にいる。

　次の視察では、堅国の巫女『蛍（けい）姫（き）』たる彼女が人々の前で舞う。病み上がりの僕とは違い、本番に向けた総仕上げの鍛錬に入っていた。

（……この調子、か）

　この世界に来るまで舞はおろか、積極的に体を動かすこと自体なかった。だからこそ訓練も自主練も、人一倍頑張ってきたつもりだ。

　だけど先日の発作で倒れてから、数日間まともに体を動かさなかった。

　復帰してからは自主練も再開したし、花鶯さんは遅れを取り戻せていると褒めてくれたけど、それでも不安が拭えない。

　僕なんかに、できるのだろうか。

　大勢の前で、あんな風に堂々と舞うなんて。

「はい、それじゃあ舞はここまで！」

　花鶯さんの声を合図に、襖（ふすま）が開く。侍女たちが恭（うやうや）しく部屋に入ってきた。

　彼女たちはいつも訓練後に鉾（ほこ）鈴（すず）を回収しに来るけど、訓練は先ほど始まったばかりだ。そして彼女たちの手には、なぜか座布団があった。

　部屋に三枚の座布団が敷かれ、流れるように鉾鈴を回収される。侍女たちが部屋を後にするや否や、花鶯さんから「座りなさい」と促（うなが）された。

　指示に従い、座布団の上に腰を下ろす。

　花鶯さんも、僕たちと向き合う形で座した。

「巫女の使命は国の気を整えることだけど、それと並行して『気の強化』を行う必要があるの。気の強化というのは、国の気と社（やしろ）町（まち）にある防壁全ての気……これらの状態を定期的に確認して改良することよ。その目的は二つ」

　使命を語る時の真剣な顔つきで、花鶯さんが人差し指を立てた。

「一つは、国の気を正常な状態で維持するため。知っての通り、紅白の線を切るにはかなりの労力を要するわ。だから国の気を日頃から強化して、自発的に均衡を保てるようにするの。それでも、月に一度は線を切らねばならないけれど」

　そして間髪入れずに、二本目の指を立てる。

「もう一つは、外敵から国の気と巫女を守るため。全ての防壁の気には、災いとなる者を捕らえる仕掛けが施されているわ。そして仕掛けが発動すると同時に、私たち巫女はその存在を感知することができるのよ」

「確か、初対面の時に黄（き）林（りん）さんも言ってましたね。僕が前に見た『門の気』も、その仕掛けの一つということですか？」

「その通りよ」

　静国（しずかなるくに）で僕と桜さんを捕らえた、あの『膜の張った門』を思い出す。

　あの時は膜のような何かにしか見えなかったけど、あれも歴とした気だそうだ。

　そして黄林さんから、いざという時は一般人にも干渉できるよう強化したものだと教わったのは、まだ記憶に新しい。

「社町に数ある防壁は、いわば国の気と並ぶ社の要（かなめ）石（いし）。だからこそ、国の気と同様に日頃から維持し、時には新たな仕掛けを施す必要があるの」

「なんというか、厳重ですね」

「当然よ。いくら国の気が巫女にしか見えず、巫女には黒（くろ）湖（こ）様（さま）の御加護があるとはいえ、国の要として広く知れ渡っている以上、良からぬことを企む不届き者に悪用される恐れもある。厳重に越したことはないわ」

「確かに……」

　この世界では、気の均衡が人々の心身に深く根付いている。気の乱れは、そのまま国の乱れに直結していると言っても過言ではないだろう。

　実際、七年前に月（つきの）国（くに）で起きた『衣（い）瀬（せ）村（むら）鬼狩り再来事件』の原因は、村人の気が故意に乱されたことだと言われている。

　夜長姫に気を弄ばれた子供たちが、疑心暗鬼に陥ったからだと。

「そして気の強化のためには、『第三の眼』を使いこなすことが必要なのよ」

「第三の眼？」

「それって……」

　蛍ちゃんが、控えめに声を上げた。

「慧（けい）王（おう）の持つ不思議な力として有名な、あの『第三の眼』ですか？」

「その通りよ。よく知ってるわね」

「もちろんです！　花鶯さんの名前の由来となった偉人ですから」

「ちょっ！？」

　途端に、花鶯さんの顔が真っ赤に染まった。

「そんなこと、わざわざ言わなくていいから」

「え、なぜですか？」

「……偉大な王に対して失礼でしょ。私のような小娘が名を借りているなんて」

「小娘なんかじゃありません！　花鶯さんは世界一素敵で立派な巫女様です！」

「～～～～っ！」

　やけに興奮気味な蛍ちゃんを前に、花鶯さんが顔を赤くしたまま唇を噛んだ。一瞬で威厳が消え去る、年相応な少女の顔だ。

（意外な一面を見た）

　激情家で裏表のない花鶯さんは、とにかくすぐ怒る。そんな彼女が言葉を呑み、あまつさえ蛍ちゃんの勢いに押されているのだ。意外すぎる。

（……いや、そうでもないか？）

　思えば、彼女が蛍ちゃんに怒鳴る姿を一度も見たことない。もちろん、蛍ちゃんの純真無垢な人柄の賜（たま）物（もの）だろうし、単に僕が見たことないだけかもしれないけど。

「ところで！」

　この話はもう終わりだと言わんばかりに、花鶯さんがわざとらしい大声を上げた。次の瞬間には威厳ある巫女様に戻っているのだから、さすがと言うほかない。