虚魚(そらざかな)

新名智/KADOKAWA文芸

第1話

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そら-ざかな【空魚・虚魚】(名)

①釣り人が自慢のために、釣り上げた魚の数や大きさなどを、実際よりも大きく言うこと。また、その魚。

②(主に釣り人同士の)話の中には登場するが、実在しない魚。

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一、釣り上げると死ぬ魚の話



 釣り上げたら死ぬ魚がいるらしい、とカナちゃんが言った。

「なにそれ?」

 最初、わたしは話半分で聞いていた。そんなことより顔にかかる枝や雑草がうっとうしい。むしけスプレーが効いていればいいが、と思った。

さがの釣り堀で金魚を釣ってるおじさんに聞いたの。そういう魚がいるんだって」

「金魚の釣り堀に?」

「じゃなくて、海に」

 道路を外れてから、もうかなり歩いていた。シャツの内側に汗がべっとりとまとわりついている。ここまで本格的に山歩きさせられるとは思わなかった。時計を見ると四時近い。できれば日が沈む前に帰りたい。

 後ろのカナちゃんは、と見ると、まるで疲れた様子がない。いつの間に拾ったのか、太い木の枝をつえ代わりにしてやぶを払っている。彼女がいつも着ている薄汚いカーキ色のジャンパーの、いたるところにひっつき虫が貼りついていたけれど、本人は気にしていないようだった。

「それってあれじゃないの」一息ついて、わたしは言った。「うれしくて死ぬ、ってパターンじゃないの」

「どういう意味?」

「ゴルフのホールインワンとか、マージヤンチユウレンポウトウとか、出たら死ぬって言うでしょ」

「よくわかんない」

 金魚釣りへは行くくせに、ゴルフや麻雀には疎いらしい。一年以上も一緒にいるのに、わたしが仕事に行っている間のカナちゃんの暮らしは、いまだに謎が多かった。とにかく、ものすごく暇を持て余していることは確かだ。

「珍しい魚を釣って、喜びのあまり死んじゃうんじゃないかってこと」

「そういう感じじゃなかったけどな」

 だんだんと雑木林が開けてきた。目的地が近いみたいだ。そう思って地面を見ると、そこかしこにペットボトルなどのゴミが捨てられていた。見物人たちの落とし物だろう。不届きな連中がいるものだ。まあ、わたしたちも似たようなものか。

「なんかね、見たこともない魚なんだって。そのおじさんが聞いた話では、ぬらっとしてたり、とげとげしてたり」

「深海魚だ」

「そうかも。でね、おじさんの知り合いが本当に釣り上げたの。そのときは、ただ気味の悪い魚だと思って逃したらしいんだけど」

「死んじゃったんだ、その人」

「そう」

 しばらく進むと太陽の光が消えた。山の陰に入ったのだろう。にわかに夕闇が忍び寄り、木々が色を失う。わたしもカナちゃんも話すのをやめた。どこかから、知らない鳥の鳴き声がした。

「死因は?」

 わたしは尋ねた。そこがもっとも重要だ。

「おじさんは知らないみたいだったけど、急に死んだって言うから、病気かな」

「おもしろい死に方だったら話題にするはずだよね。自殺とかさ」

 カナちゃんは、わたしの顔をちらっと見て、また藪をつつく。

「信じてないでしょ」

「あまり」

 仮に本当だったとしても、使えそうではなかった。狙った魚を確実に釣る手段があるならよいが、運に任せるしかないのなら、落ちてきたいんせきが頭に当たって死ぬのと同じことだ。そんな悠長なことはしていられない。

 でも、とわたしは言った。

「死ぬ原因が釣ったことじゃなく、魚のほうにあるのなら……」

「見たら死ぬ魚、ってこと?」

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