輪郭のない花は咲く
絵空こそら
第1話
それがひらく音も、落ちる音も、よく覚えている。
「ツノ無しじじい」
ぼそっとした声が聞こえて振り返ると、小学生が蜘蛛の子を散らすように横断歩道を駆けて行った。校帽から突き出した小さな枝先の、小さな花びらが朝日に揺れていた。
塗装のまばらなアスファルトを歩く。三分ほどすると、裏通りの朝飯屋に着く。店内はいつ来てもごった返している。出勤前のサラリーマン、グループで駄弁っている学生たち、すっぴんのまま子供を連れた母親……。よって、ほとんど毎日利用する店ではあるが、「いつもの席」などというものは存在しない。ただ空いている席に体をねじ込むだけである。ただでさえ狭い店内、隣の席からの体温とカバーもつけていない角枝に辟易しながら、席のベルを鳴らして給仕を呼ぶ。
「あら、瑠璃山さん、おはようございます」
給仕のうのは、亜麻色のボブカットと黒目勝ちの輝く目が印象的な、住み込みの若い娘である。シンプルな黒いTシャツとパンツの上に白いエプロンをかけて、客と厨房とレジスターの間を行ったり来たりする。その頭には小さな身体には不釣り合いなほど大きな椿の角枝が載っているのだが、今はカバーをかけられて、ちょうどうさぎの耳のような出で立ちになっている。
いつもの通りメニュー表を指し示すと、
「蔬菜蛋餅と豆漿ですね、かしこまりました」
にこりと笑って厨房にぱたぱた走っていく。背中で跳ねるちょうちょ結びのエプロンの紐を見ながら、うのは笑ってばかりいる、と思った。快活というわけではない。静かに、声を出さずに、笑ってばかりいる。何がそんなに楽しいのだろう。
店の外はいよいよ日が差してきて、今日も暑くなるだろうと思われた。午後には役に立たなくなるだろう頭上の扇風機を仰ぐ。照り返しを受けて天井も白んでいた。
「お待たせしました」
うのが湯気のたつ蛋餅と豆漿をテーブルに置いた。返事もせずに箸を手に取ると、目の前の席にいた初老の女は不愉快そうな顔をした。うのはやはりにこりと笑う。そして他のテーブルに呼ばれて駆けて行った。
料理を胃に詰め込み、さっさと席を立った。
「ありがとうございました」
レジ係のぞんざいな「謝謝」と客のお喋りに紛れてしまいそうな声は、不思議といつも耳に届く。振り返らないが、きっとまた笑っているに違いないのである。あの椿の角枝を頭に載せて。
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