第5話 気まずい再会

 流石にずーっと引きずられているわけにもいかなかったので、階段を上る前に学年主任を説得して何とか強制連行を免れた慧は、自らの意志で階段を上がり、廊下を進み、二階の渡り廊下を経て、実習棟に到着した。左右に分かれている廊下の左方を覗くと、職員室。と書いてある表札が目に入る。一生呼び出しなんか喰らわないと思っていたのに、まさかその日が来るとはな……。と思いながら、慧は一応後方を確認すると、そこには腕を組んでどっしりと立ち塞がっている学年主任がいた。そうして一縷の望みも絶たれていることを確認した慧は、渋々職員室を目指して直進した。

 スライドドアの前で止まった慧は、このまま入って良いのか確認するために、少し後ろでずっと自分を監視し続けている学年主任をチラリと見た。すると彼は呼び出しをした張本人であるにもかかわらず、素知らぬ顔でそこに立っていた。こうなってはどうしようもないので、慧は面倒ながらも口を開いた。


「あの、ここに入れば良いんですか?」

「いや、違う。もう少し奥の会議室だ」


 彼はそう言うと、腕を組んだまま方向転換して廊下の更に奥へ進んで行く。


(ここじゃないなら早く言ってくれよ……! ただでさえさっさと帰りたいのに)

【どうしたのですか、ご主人。早く帰りたいのなら、早く用事を済ませてしまいましょうよ】


 心の中で学年主任に対して文句を垂れていると、それを察したラヴィが慧の邪念を遮った。


「まぁ、確かにそうだけどさ。即時性というか、その瞬間に愚痴をこぼしたい時があるんだよ」

【ほう~、そう言うものなのですね。また一つ勉強になりました】

「そりゃ良かった。あと、これから先生と話があるから、少し黙っててくれよ」

【分かりました! 静聴させていただきます】


 そう言うとラヴィは素直に黙ったので、慧は学年主任に続いて廊下を行き、長い職員室を終えた向こう側にある、会議室。という表札が掛かっているドアの前で立ち止まった。


「ゴホン。この中で待っている方から大事な話がある。お前はとにかく黙って話を聞いてくれればそれでいい。分かったな?」


 いつにも増して厳格な調子でそう言う学年主任を見て、慧は思わず生唾を飲み込みながら頷いて見せ、その後に返事をした。


「は、はい。分かりました」


 慧の返事を聞き受けた学年主任はゆっくりと頷き、ドアに向き直った。そしてこの学校で数個しかない普通のドアを押し開け、会議室に入って行く。慧もその大きな背中に続いて会議室に入ると、支えを失ったドアは静かに閉まった。


「すまんな、探すのに少し時間がかかってしまった」


 会議室に入るや否や、学年主任はやけにデカい声でそう言った。


(この人がこんなに畏まるなんて、俺を呼び出した黒幕は誰なんだ?)


 と、学年主任の背後からひょいと姿を現して会議室を一望した瞬間、慧は目を見開いた。部屋の最奥の椅子には、昼休みにセクハラ疑惑をかけてきた黒髪女子が座っていたのであった。そしてその横には、びしりとタキシードを纏った白髪交じりの中高年男性が立っていた。


「とりあえず、どこでも良いから座れ」


 そう言われるがまま、慧は彼女から一番遠い席に着いた。そしてその数個横の席に学年主任が着くと、一層重々しい空気が会議室に満ちた。


(これから何が始まるんだ……。裁判でも始めるつもりか?)


 慧が顔を引きつらせながらそんなことを考えていると、黒髪女子の横に立っている男性が一歩前に出て、彼女の口元に顔を寄せた。どうやら耳打ちをしているらしい。それも二十秒ほどで終わると、男性は姿勢をしゃんと戻し、小さく咳払いをした。いよいよ始まるぞ。と慧が身構えた瞬間。


「あ、もしかして、昼休みのことか!」


 と、独り合点をした学年主任が沈黙を破った。


(お前じゃ無いだろ……! てか普通、黙って聞いてれば良いって言った張本人が切り出すか?)


 慧は苦々しい表情で隣の大男を睨み、心の中で罵詈雑言を浴びせた。そしてふと、対面の二人はどうなっているだろうかと思って視線を戻すと、案の定、お前じゃ無いだろ。と言いたげな顔で大男を見ていた。


「っと、違ったか……」


 流石の鈍感男も、三人の視線でようやく自分が悪い空気を作り出していることに気付いたようで、呟くようにそう言いながら隆々な双肩をすくめた。


「ゴホン。お嬢様、昼休みのことというのは?」

「いや反応するのかよ……!」


 散々時間を犠牲にし、ようやっと本題に入れると思っていた慧は思わず小声でツッコミを入れてしまった。


「後で話します。今は先ほど伝えた話を進めてください」

「……ハッ。かしこまりました」


 男性はそう言うと表情を引き締め、慧の方へ向き直りながらもう一度咳払いをした。


「ゴホン。まずは、突然お呼び出ししてしまった無礼をお詫び申し上げます」


 彼は丁寧な挨拶とお辞儀をして見せた後、話を続ける。


「お話というのは、お嬢様の付添人になって欲しいのです」

「え、ちょっと、話が……!」

「実は、昼休みの一件。私も遠くで見ていたのです。レスポンスの早さ、打たれ強さ、そして華麗な動き。あの一瞬で私は確信しました。貴方にならお嬢様を任せられると」


 黒髪女子の声には全く耳を傾けず、男性はそう言い切った。


「あー、えっと、その……」


 こんな展開になるとは思っていなかったので、慧の脳内では予め用意していた謝罪のテンプレートばかりが飛び交い、瞬時に適切な言葉を見つけられずにいた。すると、


「返事は今すぐでなくても大丈夫です――」

「当たり前です!」


 滔々と進む会話を遮るように、勢いよく立ち上がりながら黒髪女子が声を上げた。


「こんな話をするためにここへ呼んだわけではありません。私はただ、その……。もういいです。今日は帰ります」


 何か言いたげな雰囲気マシマシのまま、彼女はツンと顔を背け、淑やかな歩調で口型テーブルの脇を抜けて行き、会議室を出て行ってしまった。


「度々申し訳ございません。また近いうちにお返事を聞きに伺います」


 爺やと呼ばれた男性は丁寧にそう言い残すと、彼女の後を追って行き、会議室には慧と学年主任の男性教員が残された。


「まぁ、良かったな。特に何も無くて」


 何故か慧よりもホッとした調子でそう言うと、学年主任はすぐに席を立って伸びをした。しかし何が彼をホッとさせたのか気になったので、慧は彼が立ち去るよりも前に声をかけることにした。


「あの。今更何ですけど、彼女って何組のなんて言う子なんですか? 随分と高貴な感じでしたけど」

「はぁ? お前、知らずに来たのか?」

「はい。あんまり別の教室には行かないもので」

「うーん確かに、それもそうか。まだ公表もしていないからな……。まぁそれは良いとして、彼女はな、龍宮恵凛たつみやえりん。龍宮グループっていうデカい商社のご令嬢だ」

「れ、令嬢……」


 ここで初めて、慧は自分がとんでもない人に手を出してしまったのだという自覚を抱いたのであった。

 自分を呼び出した黒幕。龍宮恵凛の名とその正体を知った慧は、心ここに在らずといった様子で会議室を出て、独り渡り廊下を歩き、下駄箱で靴を履き替え、昇降口、正門と抜けて行った。


【ご主人、どうしたのですか! 私の声が聞こえないのですか!】


 駅に向かう道中で、ぼんやりとラヴィの声を認識し始めて、慧は足を止めた。


「あぁ、悪い。ちょっと考え事をしてて」

【心配しましたよ! 意識はしっかりとしているのに反応が無いのですから!】

「はぁ、それほど疲れてるってことだよ」

【本当にそうなのですね? 休めば良くなるのですね?】

「多分ね。はぁ、やっちまったなぁ……」

【本当に良くなるんでしょうね……?】

「寝てみないと分からない。はぁ、まさかここまでツイてないことが続くとはな」


 なんて話をしていると、信号が青になった。慧は定期的にため息をつきながら、重い足取りで駅を目指した。


【それにしても、今日は出会いがいっぱいありましたね】


 もう少しで駅に着こうという時、ラヴィがそう切り出した。


「神様は願ってない事ばかりするよ、本当に」

【そう悲観的にならないでくださいよ~。体力は消耗しましたが、一日が早く感じられたでしょう?】

「まぁ、それは確かに」

【そうでしょう! つまり心がときめいていたという事なんですよ!】

「はいはい、そう言うことにしておくよ」


 ラヴィを雑にあしらうと、改札を通るために財布を取り出そうと、鞄に視線を落とした。そして指先が財布に触れた瞬間、目の前に人がいるような気配がして慧はバッと顔を上げた。するとそこには江波戸伊武が立っていた。


「あ……」


 と、声を出したは良いものの、お前と言うには距離感が近すぎるし、江波戸と呼ぶのも何故か気が引けるな。なんてことを考えて硬直していると、伊武が動物を観察する研究員のような冷淡な瞳でじっと自分を見つめていることに気付き、とりあえず財布を取り出して姿勢だけ整えた。


「なんだよ?」


 向こうからアクションを起こしそうにも無かったので、不本意ながら慧から切り出した。


「……怒らないんだ」

「え、あぁ、まぁ。うん」


 態度やら姿勢やら、表面上は常時ツンケンしていた彼女が急にまともなことを言いだしたので、慧は調子が狂った歯車のようなぎこちない返事をした。


「あの子は、何か言ってた?」

「いや、特には。代わりに俺がもう一回埋め合わせをしろって言われたくらいかな」

「そう、その……。ご、ご、ゴホン! なら良かった」


 何かをはぐらかすようにそう言うと、伊武は慧から視線を逸らした。


「それじゃ、俺はこれで」


 言いたいことは山ほどあったが、言い合いになったり、自分乃至は相手の気持ちを害するのもスマートではないし、それに何より、さっさと家に帰りたかった慧はそう言って彼女の横を通り抜けた。と、その時、


「ねぇ、さっき誰かと話してた?」


 通り際に、伊武がそう聞いた。


(さっき……。てことは、ラヴィとの会話を聞かれていたのか? 別にバレても損害は無いけど、でも説明するのも面倒だし、知られるのもなんか嫌だし。ひとまず誤魔化しておくか)


 そう考えた慧は、足を止めて彼女の方を向き、


「いや、ただの独り言だよ」


 とだけ答え、彼女に背を向けて改札に向かった。


「ふーん、あっそ。じゃ」


 背後から細く低い声の答えが聞こえた後、微かに足音が聞こた。それで彼女が諦めたことを確認した慧は、念のために通っていなかった改札を心残り無しに通過した。


 一度電車に乗ってしまえば、それ以降誰かに絡まれるということは無く、慧はほとんど無心のままに帰宅した。大した距離を歩いたわけでも、激しい運動をしたわけでも無いのに、力んでいないと瞼が自然と落ちて来るくらいには疲労感に打ちのめされていた慧は、帰宅してすぐ自室へ向かい、鞄をそこらに放り投げてベッドにダイブした。


【ご主人、ご主人! 今寝るのは良くないですよ。眠いなら私がお喋りのお相手になりますよ!】

「いや、今日はもういいって。今は、ねた、い……」

【ごしゅじーん! まだまだ恋愛は始まってませんよ。私のサポートだってこれからなんですから! だから、死んじゃダメでーす! ご主人、ごしゅじ……】


 遠ざかっていくラヴィの声。しかしそれに反して襲い来る睡魔。慧は、負けた。

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