一蓮托生

とーとろじー

一蓮托生


 深夜、亮太は久しぶりに玄関を開けた。最後に開けた時は、アスファルトが昼間に貯めた熱を放っているのか、むっと暑い夜だった。今夜は秋の北風が吹いて、肌寒かった。もっと着込んでくれば良かったなと亮太は思ったが、その寒さが嫌いなわけではなかった。

 夜は好きだ。人も少ないし静かだし、落ち着く。対して昼は眩しいし他人の目が怖くて始終ビクビクしなければならないので嫌いだった。家でもずっとカーテンを閉めっぱなしにしていて、窓がその役割を果たす機会が全くなく、もうここ数年日光に当たっていない。

 今夜、亮太は特に何の用も無く、唯なんとなく、ふらりと外に出てみただけだった。街灯がポツリポツリと照らす夜の道を俯いてぶらぶら歩いた。自分の影が後ろから縮んで前へやってきては伸びていく。

 俺は何をやっているんだろう。

 友人は皆大学へ行って就職もして、社会人になっていた。一方亮太は大学受験に失敗し、何年か浪人したが、成績は下がる一方で、受験を諦めた。現在、特に何か仕事をするでもなくニート生活をしているのだった。親は何か察してくれているのか、叱るでもなく、追い出しもせず、また慰めもせず、何も言わなかった。それが亮太にとっては救いであり、また他方では苦痛の原因の一つだった。

 両親ともT大を卒業し、一流企業に勤めるエリートだった。親に何か言われた訳ではなかったが、小さい頃から自分も親と同じ道を辿るのだろうと思って育ってきた。中高とも受験をして、上の下くらいの学校にギリギリで入った。学校の中でも上位を取ったことがなく、校内で平均レベルだった。頑張ったと言えば頑張ったのだろうか。わからない。高三になって、突然勉強できなくなった。受験に対する不安、緊張、焦燥。あれもこれもやらなきゃ。落ちたらどうしよう。現役で行かなきゃ。周りはみんな頑張っているのにどうして俺は何もできないんだろう。ほら、やれよ、勉強しろよ。そう自分を急き立ててもも、シャーペンを持つことすら出来なかった。当然ながら、模試の成績もガクッと落ちた。食べれなくなり、ずっと緊張しているので夜もろくに寝れなかった。

 「桜散る」。受けた全ての大学がその一言を告げた。翌年も、その次の年も似たようなものだった。

 二つ下の弟の悠真は優秀だった。悠真は亮太と違って好奇心旺盛で理解力や記憶力にも優れていた。中高は亮太と同じ学校へ行ったが、大学は一流のK大学の理学部へ現役で行った。友人にも先を行かれ、弟にも追い越され、、、胸痛。亮太は受験を諦めた。社会に出ることもできなかった。結果、居候。俺はこの世のゴミだ。情け無い。親に申し訳ない。

 不謹慎だとわかってはいるが、いっそ虐待でもしてくれれば良かった。もっと詰って非難してくれれば良かった。お前なんかいらないと言ってくれれば、勇気を出して、最後の一歩を踏み出せるかも知れないのに。

 夜の散歩から戻ってきて、柳田という表札を眺め、窓から暖かそうな光が漏れる家を見上げた。俺はこの家庭に有害な存在だ。俺さえいなければ、この家庭はもっと幸福だったろうに。自分のせいで家族が明るい気分になれないことはわかっていた。

 ふと、このまま家に帰らないで、どこかへ消えてしまおうかと思った。あの悶々とした陰鬱な生活を捨て、誰も知らない所へ行きたい。静かに、最初から何も無かったかのように消えてしまいたい。自分でない人間になりたい。だが、みんなは俺のことを忘れてくれないだろう。俺は俺である限り俺から逃れられないんだ。この屑な自分から逃れる事はできない。いや、ひとつだけある。たつたひとつだけ。ああ、だけど、俺にそんな勇気があるだろうか。どうせできっこないんだ。臆病者。家出すらも、できないのだろう。家族が心配するし、現実的に考えて無理だ。心配してくれる人がいるなんて、俺は幸せ者だな、と苦笑いしつつ、本当に失踪するか唯の散歩になるかまだわからないまま、再び歩き始めた。

 亮太が歩いていると、道端に野良猫がいるのを見つけた。灰色の縞々の猫だった。あまり毛並みは綺麗ではなかった。他の猫と喧嘩をしたのか、ところどころ小さく皮が剥がれていた。亮太に気づいた猫は警戒して威嚇し始めた。亮太は立ち止まってそれをしばらく眺めていた。かなり遠くから踏み切りの音が聞こえた。青年の靴は猫の身体を何度も強打した。

 目を覚ました猫は自分の後ろ足が動かないことに気付いた。びっこを引いて威嚇するしかない猫を、青年はしばらくしゃがんで見つめていた。

 不本意ながらも旅の道連れになってしまった者は、箱の蓋が閉まるのをどんな思いで見上げていたのだろう。

 抵抗できない猫の首根っこを掴んで夜を歩く青年の右手には、これまで彼の腕しか切って来なかったカッターが強く握られていた。


(終)


 

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