4 トレーニング初日
九月十四日、午前十時。
「おはよっ、ケイ。どーだ、ちゃんと寝れたか?」
アキラの明るい声に、ケイはぼやけた
「……あんまり。アキラは元気そうだな……」
「おう。夜の八時に寝て、朝も八時に起きたぜ!」
「いくら何でも寝すぎだろ」
ケイはそう言いながら、アキラの全身を上から下までまじまじと眺めた。
「お前……そのぴっちぴちの服は何……?」
「お、これか? トレーニングスーツだ。ケイの分もあるぞ」
アキラはその筋肉の陰影までくっきりと分かる、ぴったりとした全身ひと繋ぎのスーツを身に着けていた。
「今日からトレーニングだって、昨日も言われたろ?」
「いや、聞いたけど……」
(そんな恥ずかしい恰好するなんて聞いてないぞ!)
ケイが戸惑っていると、アキラは断りもなくずかずかと部屋に上がり込んでドアを閉め、爽やかな笑顔を見せた。
「よし、脱げ!」
「嫌だ!」
即座に言い返したケイに、アキラは目を丸くした――なんでだよ、とケイは思う。
「当たり前だろ!」
ケイはアキラの手からむんずとスーツを奪うと、アキラを部屋から追い出した。
「……慣れるまではコツがいるから……」
アキラは最後まで言わせてもらえずに問答無用でドアを閉められ、ぽりぽりと頭を掻いた。
「ケーイ、おせーぞ」
アキラは
「これ……ずいぶん窮屈だな、確かに着るのに苦労した。……それに、なんでこんなに隙間が空いてるんだ? スースーする……」
着てみて分かった事だが、それはただ体に張り付くだけのものではなかった。なかなかの圧迫感がある。その上、一部の箇所は――部位にして腕や腿の内側、あばらの辺りから腹部にかけてと、背面は背骨に沿って腰部まで――黒の極細の繊維で覆われており、それは外気をよく通した。
「え、知らねー。考えたこともなかったな、作ったやつに聞いてくれよ。誰だか知らねえけど」
(……逆に、普段は何考えて生きてるんだ?)
ケイはふと失礼なことを思いつつ、気を取り直して呟いた。
「行くぞ。トレーニングルーム? だっけ」
「……と、その前に姉さんのとこに行かなきゃな」
アキラの言葉に、ケイは少しだけ考えてから、思い出したように頷いた。
「ああ、前言ってた。姉弟ではないんだよな?」
「うん。そう呼んでるだけ」
(こんな格好で一体、どんなトレーニングをするのやら)
ケイはやや心配に思いつつ、先導するアキラについて歩き出した。
「こんにちは、
「あ、はい。よろしく、お願いします」
やたらと元気な声を発するその人に、ケイはどぎまぎと挨拶を返す。
なじりは二十代半ばくらいの女性だった。それはケイの人生で最も馴染みのない人種であり、加えて彼女はかなりの美人だった。
ケイはなんだかんだで年頃の男子であった。ゆえにあからさまに緊張していたが、急に横から飛んで来た大声に驚き、その体の強張りもすぐに解けることとなった。
「ケイ! 俺にも俺にも。分かんねえことあったら聞けよ、なっ」
アキラはなぜか張り合うような物言いで、ケイの方に身を乗り出した。
(鬱陶しい!)
お前はいちいち声がでかいんだと、ケイが文句を言おうとした時だった。
「じゃあ私、今から準備するから。……二人とも、中で待ってて?」
なじりはそう言うなり、がっしとケイとアキラの腕を掴むと、二人を部屋に引っ張り込んだ。
「え、あ!? ちょ、ちょっと」
慌てるケイがよくよく見れば、なじりは部屋着らしきTシャツにショートパンツ姿で、髪の毛もぎりぎり櫛を通しただけ、といった服装であった。
「じゃあ、いい子に待っててね」
なじりはおどけた風に片目をつぶると、着替えを持って、奥の洗面所に引っ込んでいった。
唐突に訪れた静寂に、ケイはぽかんとした。
「気にすんな。寝坊した姉さんを待つ羽目になるのはしょっちゅうだぜ。今からシャワーだと……、一時間半は暇だな! よし。ケイさー、映画とアニメ、どっちがいい? なんか、さぶすく? とかいうやつで、色々見れるんだぜ」
「……まじか」
アキラはどっかとソファにふんぞり返って、慣れた仕草でリモコンを手に持った。ケイはなんだかなあと言いたげな表情で、その隣に浅く座るのだった。
「待たせたわね!」
気合いの入ったなじりの声に、ケイは振り返った。そこには、かっちりとしたジャケットと揃いのスカートを身に着け、髪も化粧もばっちりの、美貌にいっそう磨きをかけたなじりが立っていた。ケイは思わず見惚れながら、小さな息を漏らした。
「ちょっと待って。今いいとこだから」
対して、画面に釘付けのアキラはそう言って振り返りもしない。なじりはリモコンを奪うと、問答無用で電源ボタンを押した。
「だーめ!」
「あーっ!!」
アキラは悲痛な叫び声を上げた。なじりは腰に手を当て、ソファに座った二人の前に立ちはだかった。
「今日の予定が全部終わったら見せてあげるから。さ、立った立った!」
「ちぇ。へーい」
アキラはのっそりとソファから立ち上がり、唇を尖らせる。残念そうにするのはケイも同じだった。
「テレビって初めて見たな。孤児院にはなかったから」
「ええ!? まじ!?」
アキラはケイと出会ってから一番の驚きようを見せた。信じらんねえ、と呻く表情は絶望的ですらある。
「同情するぜ……。暇じゃねえ? 何してたんだよ、寝るか筋トレしかやることねえじゃん」
アキラは真剣そのもの、いっそ悲壮にすら聞こえる声でそう言った。ケイは半眼でアキラを見返す。
「……だからお前はそんな体してんだな。じゃなくて。勉強するとか、本読むとか、音楽聴くとか色々あるだろ」
「うえー! 俺全部苦手!」
「……勉強や読書はともかく、音楽聴くのが苦手ってなんだよ……」
「だって退屈じゃんかー。……じゃあさ、今日トレーニング終わって飯食ったら、続き見ようぜー」
ケイは、ちらと横目でなじりを見た――迷惑をかけてはいけない、だってここはなじりさんの部屋だし。そう思いつつ、その誘いはあまりに魅力的だった。
ケイの視線を受け止めて、なじりはにっこりと笑った。
「いいわよ。アキラ君はよく入り浸ってるし、今更ね」
ケイは一瞬喜んだ後、すぐにアキラをじとっとした目で見た。
(こいつ……)
二人が今までどのような付き合いをしてきて、どれほどの仲なのかは知らないが――それはどうなんだ、とケイは思った。何がいけないのかと言われればうまく言えないが、とにかく駄目だろう、と。
アキラにそれを理解させるのはおそらく至難の
ケイは複雑な気持ちでアキラを見る。アキラはきょとんとした顔で、小首を傾げた。その子供のような仕草を見て、ケイはやはり諦めることにした。
「じゃあ、そういうことで!」
なじりはケイとアキラの間に割って入るなり、そのまま二人の腕を掴んで微笑んだ。
「トレーニングを頑張るぞ、少年たちよ!」
なじりは、一体その細腕のどこからと思うような力で、二人を部屋から引きずり出した。
ケイは今すぐ離して欲しいと思った――こんな距離感は絶対におかしい。が、力任せに振り切るわけにもいかず、なじりに片腕を掴まれたまま、三人並んで歩き出す羽目になった。アキラの平然とした様子を見るだに、こんなことは日常茶飯事らしい。
(ひょっとしたらなじりさんって、アキラと同じくらい自由な人かも……)
――先が思いやられる。ケイはそう思いながら、先のことについて考え、こう言った。
「あの、すみません。これからやるトレーニングって、一体何なんですか?」
ケイの問い掛けに、なじりはすっかり仕事用の顔になって答えた。
「精神トレーニングよ」
ケイはほんの少し呆気に取られた。自分の着ている『スーツ』を見下ろし、おずおずと言う。
「それ……この服でやる意味あるんですか?」
なじりは、よくぞ聞いてくれました、とでも言うような顔をした。
「ちょっと特殊な環境で行われるトレーニングなの。まずはアキラ君がやってみせてね。ケイ君はそれを見学。その後実践よ。わかった?」
アキラは適当な返事をした。ケイは長い睫毛を瞬かせ、とりあえずといった風に頷いた。
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