2-5. うん、遊ぼう
「小さく損をしろ」
さっきの、玄関で。コンさんの言葉だ。
「例えば、だ。ライターの仕事。毎週三千字書くだけで月十万儲かる仕事がありますよ、と求人を出す。応募してくる奴がいるよな? まさに『書かせてください!』だ。『分かりました。書いてください』。そう言っておいて、ひとまずひと月分の給料を払う。まぁ、十万って言ったから十万だろうな。でも次の月から五万、二万、一万と下げていく。求人に応募した人は言う。『話と違うじゃないか!』。そこでこうだ。『あなたの文章能力が低いからです。実は最近、記事のレギュレーションを変えたのでその都合もあるのでしょう。専用の研修を受ける必要があります。三十万円ですが、三カ月働けば取り返せる額ですし、いかがでしょう?』。応募者は『まぁ、三ヶ月分程度なら』と研修費を払う。で、適当な講義を受けさせた後、ドロンだ。詐欺師側は十万+五万+二万+一万の計十八万払ってる。応募者側は一気に三十万。差し引き十二万、詐欺師が得してる。最初にちょっと損をするだけで『信頼』を買えるんだ」
「な、何が……」
と、言いかけた私にコンさんが笑った。
「最初の要求を受けてみろ。『遊びに来たよ!』だろ? 言うことはひとつだ。『うん、遊ぼう!』」
そうか。まさか、小さく損をしろ、って……。
「向こうの条件を飲むんだ。そうすればこっちの条件も飲んでくれる。分かるな? 『遊びに来たよ!』に対して『遊ぼう!』と言った後、こう続けろ。『学校の裏の神社集合ね!』」
言いたいことが分かってきた気がした。
「神社には受川くんがいる。いたずらする霊でも神社の中なら受川くんが対処できる。邪念を祓ってもらえ。で、君も神社に行け」
「神社にですか?」
それも夜に?
でもコンさんはニヤリと笑った。
「怖いか?」
怖い。怖い、けど……。
沙織が、あの沙織がいるなら。
それに、邪念を祓った後なら。もしかしたら……。
*
夜道はちょっと怖かった。懐中電灯を持って行った。かつての通学路を辿って小学校の近くに行くと、闇夜に包まれた校舎が見えた。前にコンさんに依頼しに行った時はただ小ささだけを感じたのに、今こうして夜中の学校を前にしてみるとやっぱり、怖い。薄気味悪いというか、心の嫌なところを、風でくすぐってくる、というか。
山道も怖かった。街灯はあるにはあったが却って闇を強調しているみたいだった。
誰が通るわけでもない暗い道を、ただただ照らし続けるあの街灯はどんな気持ちなのだろう、なんて場違いなことを考えた。きっと寂しいだろうな。あの時と同じ段数のはずなのに、とても長い距離歩かされているような気になった。
神社に着くとあの白い鳥居が私を迎えた。ばあちゃんの作法に倣って端を通る。一礼することも忘れない。見ると、本殿の方に明かりが灯っていた。明かりなんて久しぶりに見たような気分になって、私は歩を速めた。
賽銭箱の前にある小さな階段を上ると、待ち受けていたかのように本殿の襖が開いて中から神主さんが姿を現した。本来なら驚くような場面なのだろうが、私は不思議と安心していた。神主さんは笑顔で私を迎えいれた。
「お客さんが来ているよ」
ああ、やっぱり。
私はほとんど神主さんを押しのけるような勢いで本殿に入った。
外の闇が嘘みたいに明るい本殿。その中でお行儀よく座っていた女の子。
あどけない後姿。私とお揃いのメゾピアノのパーカー。
彼女が振り返った。
沙織だった。あの日の沙織だった。
傷なんてひとつもない。頭蓋骨も砕けてないし血だらけでもない。
ニッコリ笑顔の、私の記憶の中の沙織がそこにいた。
「遊びに来たよ!」
あの日と同じ言葉だった。そうだ。沙織はいつだって、この言葉で私の心の壁を飛び越えてきた。飛び越えてくれた。
「多分、車に轢かれた野良猫の霊なんかが悪さをしていたんでしょうね」
私の後ろで神主さんがつぶやいた。
「邪念、というより、彼女にまとわりつく余計な霊を祓ったら綺麗な姿になりましたよ」
「沙織……」
ゆっくりと彼女に近寄る。沙織はいつもの……あの日の笑顔で私に向き直った。私は大人になっちゃったけど、沙織はあの時のまま、小学五年生の姿のままでいた。
沙織が困ったような顔をした。
「ごめんねぇ。怖がらせちゃったね。私、死んでるんだもんね」
ううん。ううん。私は首を横に振る。
「私こそ、沙織だって分かってたのに出なくてごめん。っていうか、あの時事故があったことに気づかなくてごめん。……沙織に謝りたいこといっぱいあるよ。でも、どうしよう」
私が言葉に困っていると、沙織は微笑んで私の傍に来てくれた。
「いいの。話したい時はゆっくり。それに、言葉が見つからなくても、通じてるから」
嬉しかった。心から何かがせり上がって喉で詰まった。鼻の奥が酸っぱくなる。
でも、沙織が続ける。
「美広がこの街に帰って来てくれて嬉しかったよ。私のお墓に来てくれたことも嬉しかった」
「うん、うん……」
「この街で働くんだってね。頑張ってね。でも、体には気をつけてね。私の大切な美広だから。誰よりも大切にしてね」
「うん」
「私はこんなになっちゃったけど……」
沙織はしっとり萎れたように下を向いた。でもすぐに顔を上げた。
「美広は幸せでいてね!」
「沙織」
私は叫びそうになっていた。
「遊びに来てくれたのに、ドア開けなくてごめん」
すると沙織は首を横に振った。
「いいの。悪い子が憑いてたから、開けたら大変なことになってたと思う。神主さんに感謝だね。それと私をここに導いてくれた人にも」
ふと、コンさんのことを思い出す。彼はこうなることが分かっていたのだろうか。
「ねぇ、沙織」
私は彼女に一歩近づいた。
「あの日、電話をくれたのはどうして?」
すると沙織は事も無げに答えた。
「危なかったからだよ。あの日、あのまま私と遊んでたら、美広も事故に巻き込まれてた」
「そっか」
私は目元を拭った。沙織が守ってくれたんだ。
「ありがとう。助けてくれて」
「私たちは友達だから!」
沙織がまたニッコリ笑った。
「これからも友達でいようね!」
「うん」
私は頷いて沙織に抱きつく。幽霊なのに、ほんのり温かかった。
けれど別れの時は、本当にすぐに来た。
沙織が私から離れる。
「じゃあ、私そろそろ行くね。美広に会いたくて来たけど、あんまり時間がないから」
「うそ、うそ」
私は沙織に縋った。
「そんな。まだ会ったばかりなのに」
嫌だよ、と駄々をこねた私に、沙織は悲しそうな笑みを見せた。
「ごめんね。時間がないから」
「そんな。ごめん。私がドアを開けなかったから……」
「いいの。美広は悪くないよ」
沙織の影がどんどん薄くなっていった。それにつれ姿も薄くなる。嫌だ。嫌だ。私は沙織の手を握ろうとした。
でも。
伸ばした手は、何もつかめずに。
最後に沙織の声が響いた。
「大好きだよ、美広」
*
四月に入って初めての平日。
入社式の前、早起きして、私は沙織の墓参りに行った。スーツにお線香の匂いがつくことなんて一切構わずに、盛大な量を焚き上げる。お線香が沙織を天国に連れて行く道なのだとしたら、その道を飾ってあげるのが私の使命だ。一気にたくさん焼香することがいいことなのか、そういうことは全く分からなかったけど、でもこういうのって、気持ちが大事だから。そう言い訳して、一握り分くらいのお線香を焚く。後でお墓の掃除にも来よう。
手を合わせて沙織の冥福を祈る。私の大好きな親友。生まれ変わっても彼女と友達になりたい。
沙織が眠っているお寺を出て、ゆっくりとアスファルトの道を歩いた。いい朝だった。視界の端を朝日が染める。足元にガードレールの濃い影が伸びていた。何だか子供の頃みたいだ。スキップしそうになる。
私にはもう一か所行きたいところがあった。小学校裏のお稲荷さんだ。受川さんとコンさんに、この間のお礼と無事社会人になれたことの報告とをしたかった。狭い山道を、慣れないヒールでかつかつ登る。すると鳥居の脇に、見覚えのある人影があった。
ダークブルーのパリッとしたスーツに細いネクタイ。銀縁眼鏡の、何だか仕事ができそうな男の人。
コンさんが立ち尽くしていた。
「よう」
気さくに話しかけてくる。
「待ってたよ」
そう言われて胸の中に冷たい何かが落ちる。待ってた。こっちから会いに来たはずなのに、嫌な予感が脳裏をよぎる。何だろう。報酬の追加請求とかだろうか。そんな風に身構えていると、コンさんがすっと通帳を渡してきた。ばあちゃんの通帳だ。
「ばあさんに言っとけ」
私が通帳を受け取ると、コンさんはすたすたと背中を向けて歩き出した。
「そんなんじゃ足りない。もっと貯めこんでから出直してこい、ってな」
言っていることを理解するのに少し時間がかかった。それから不意に、手にしていた通帳の温かさを知った。慌てて頭を下げる。
「あのっ、ありがとうございました!」
コンさんが片手をあげた。春の暖かい風が頬をくすぐった。
――『遊びに来たよ!』 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます