6話

 岩田作次郎と清水甲斐乃介は幼なじみである。

 同じ旗本に仕える家臣の子どもとして生まれ、家も隣同士で同い年、小さい頃から一緒に遊んできた。

 元服を済ませると、共に親と同じく、旗本の家臣として、江戸、呉服橋の屋敷に出仕するようになった。


 甲斐乃介は、勘定組に勤めることになる。小さいころから本をよく読む子で、物覚えがよく「学問の素養がある」と言われていた。

 父親の一学は、現在は側用人として、旗本の近くで働いているが、若かりし頃は、息子と同じく勘定組に勤めた。

 甲斐乃介も、ゆくゆくは父と同じ道をたどるだろうと、家中では専らだった。


 作次郎は徒(かち)組に属している。戦時においては兵士となる組である。

 学問の素養がある、と言われる方ではなかったが、人がよく、皆にからかわれながらも愛される人物だった。

 兵士とはいえ、作次郎自身は喧嘩もほとんどしたことがなく、剣術などはむしろ甲斐乃介のほうがよくつかう。

「作次郎が徒組とはな」

 と甲斐乃介などは面白がった。

 父親は番頭を勤めていたが、作次郎が出仕するころから、体を悪くして、家にいることが多かった。


 二人がそれぞれの組で勤めるようになると、当然だが一緒にいる時間は少なくなる。

 二人が同い年で仲がいいことを家中で知らない者はなく、

「いつも一緒にいて、歳の同じ兄弟のようだ」

 などと言われていた。

 それが、月日が経つにつれ、二人の扱いに徐々に違いが出てくる。

 甲斐乃介の評価がみるみるあがっていった。

 作次郎の方は影が薄くなっていった。

 作次郎本人がそれを気に病んだり、甲斐乃介を妬んだりということはない。


「甲斐乃介が飛び抜けた人物だってこと、わしは、ずっと前から知ってたさ」

 みんな、気づくのが遅いんだ。


 元禄十三年、二人が二十一歳になった、夏のある暑い日のこと。昼の七つころ。

 汗をふきながら、作次郎一人でいるところに、甲斐乃介が近づいてきて。

「作次郎、ずいぶん日に焼けたな」

 甲斐乃介が、手拭いでふき取るほど汗をかいていないのを、不思議に思ったり、「やっぱり」と納得してみたり。

「修練と称して、外で刀や槍をふるってばかりいるからな」

「少し腕が太くなったんじゃないか」

 甲斐乃介は、そう言って、作次郎の二の腕をつかんだ。作次郎が「ぐっ」と力をこめると、

「おお」

 などと声を出して、「思わず」といった感じの笑みがこぼれていた。

「たまには二人で酒でも飲みにいこう。作次郎とは、まだ飲みにいったことはないよな」

「いったことないな。そのうち、飲みにいこう」

「ああ」

 会話はそこで止まった。

 作次郎も作業中であるが、甲斐乃介のほうがはるかに忙しい、常に誰かに欲せられている、はずである。

 作次郎の方から「じゃあ」と言い出そうかと思った。

 すぐに言い出さなかったのは、甲斐乃介に、まだ言いたいことがありそうだったから。

 甲斐乃介の笑顔に迷いが混ざる。顔が明後日の方を向くと、ようやく口が動いた。

「あ、えっと」

「ん?」

「おきくちゃん、元気にしてるか?」

「ああ」

 瞬間、甲斐乃介の顔から「どっ」と汗が吹き出した。なるほど、

「元気にしてるよ」

 そういうことか。「きく」は、作次郎より三つ下の妹である。

「そういえば、最近甲斐乃介の顔を見てないなどと、こないだも言っていたな」

「ほ、ほんとか!?」

「あ、ああ。酒飲みはいつでもいいが、たまにはうちに顔を見せにきてくれ。きくもそうだが、父もお主の顔を見たがっている」

「惣右衛門様の具合は、よろしくないのか」

 惣右衛門は、作次郎の父である。

「うむ。医者の言うに、来年の桜が拝めるかどうか、という具合らしい」

 ぱっと花が咲いたようだった甲斐乃介の笑顔が、一気にしぼんでしまった。

「かしこまった、必ず、近いうちに顔を出す」

 では、と言い置いて、甲斐乃介は早足で離れていった。

 その背中を少し眺めて、作次郎も、その場から歩き出した。


 話の仕方が、少し意地悪だったか。

 もう少し違う話し方をしたほうがよかったかと、甲斐乃介の心から悲しそうな顔を思いだしながら考えた。

 同時に、安心した。

 甲斐乃介の心は、変わっていない。

 俊英だの天才だのと周りは持て囃すが、甲斐乃介はやはり、作次郎の知る甲斐乃介なのだ。

 一緒にいたずらをして叱られ、泥だらけになって遊んでまた叱られ、家に入ると、隣からも叱られる声が聞こえてくる、あの頃の甲斐乃介のままなんだ。

「さくー、さく、いるか! どこいきやがった、ったく」

 上役の、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

「はいー、ただいま!」

「またおめぇは、外で若い女子眺めてたんか」

「そんなことしちゃいませんよ」

 先輩が顔を近づけてきて、

「慌てんな、今度いいとこ連れていってやるから」

「はい?」

「作を、そろそろ一人前の男にしてやんねえと、上役として、惣右衛門さんに申し訳が立たねえからな」

 なんの「申し訳」だろう。

「ま、もう少し我慢しな」

 と言って、作次郎の股間を握る。

「あっ」

 へへ、と笑って、

「さあ、武器倉の片付け、さっさと終わりにするぞ」

「はい」


 それから、甲斐乃介は、言った通り、作次郎の家をときどき訪れるようになった。


 年が明けて二月には、甲斐乃介とおきくは夫婦約束をかわす。


 その報告を、二人から病床で聞かされた惣右衛門は、

「よかった、よかった、ほんとうに……」

 言いながら、涙を流していた。


 程なく、惣右衛門は亡くなった。

「父も、きくが甲斐乃介に嫁ぐことが決まったんで、安心したんだろ」

「惣右衛門様に叱られぬよう、わたしも、より一層精進せねばならぬ」

 二人は、惣右衛門の墓前で、そう話し合った。

 桜が満開である。


 元禄十四年三月十四日。その日、二人が勤める旗本の家を大きく揺るがす事件が起きた。


「殿中でござるぞ! 浅野殿、待たれよ、殿中でござる!」


 江戸城松之大廊下で、播磨赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に斬りつけた。

 斬りつけられた吉良上野介は、肩と額に傷を負った。

 この、襲われた吉良上野介こそ、甲斐乃介、作次郎が仕える旗本である。

 浅野内匠頭は、その場にいた梶川惣兵衛ら数人に取り抑えられ、陸奥一関藩主田村家の屋敷にお預けとなった。

 内匠頭には、即日「切腹」の裁定が下された。

 赤穂藩も改易となることが決められた。


 一方の吉良上野介には、これといった処分も下されず、将軍から「傷が治るまでゆっくり休んで、回復したのち、再び出勤せよ」という旨の見舞いの言葉までいただいていた。


 ことはこのまま収まらない。


 浅野内匠頭に下された処分の厳しさから、かえって吉良上野介に批判が集まった。

 人々の厳しい視線を受け、吉良家は自ら高家肝煎の辞職願いを出すことになった。

 

 吉良の家が本当に揺れるのは、これからである。


「浅野家の旧家臣が、藩主の無念を晴らそうと吉良家討ち入りを計画している」


 そんな噂が、江戸の町に広がっていた。


 吉良屋敷の隣に住む蜂須賀飛騨守から「吉良家の討ち入りを警戒して出費がかさむため、吉良の屋敷を変えて欲しい」という訴えが出されていたという。

 蜂須賀家の訴えが幕府を動かしたのかどうかははっきりしないが、八月には、吉良家は、呉服橋から本所松坂町へと移ることになった。

 本所は江戸の郊外で、呉服橋辺りと違って人気が少ない。

 世間の不満をかわすために、幕府が、討ち入りをしやすくするよう屋敷を移したと、人々は口にしあった。

 

 十二月十一日、かねて幕府に願いを出していた嫡男左兵衛義周(よしちか)への家督相続の許可が出た。義周は、このとき十八歳であった。


 翌元禄十五年、二月のある夜。

「父上、ほんとに討ち入りがありましょうか」

「うむ」

 ひどく冷え込む夜だった。火桶にかけてある鉄瓶が音を鳴らして煙を吐いている。

 屋敷内の一室に二人の男が向かい合いに座っていた。

 一人は側用人清水一学であり、もう一人は一学の息子甲斐乃介であった。

 月が変わって三月になると、あの事件から一年が経つ。

 旧赤穂藩士が吉良邸を襲うとしたら、浅野内匠頭の一周忌に合わせてくるのではないか。

 吉良家では、そのために警備をより厳重にする必要があった。

 屋敷替えにあたって、この本所の屋敷の塀は二間ほどの高さに作りかえている。

 討ち入りのあるを最も切実に信じていたのは、他ならぬ吉良本人であった。

「何が起こってもいいよう、しっかり準備を進めている。お主も、覚悟を決めておけ」

 父の覚悟を、息子も受け取ったような気がした。


 浅野内匠頭一周忌が過ぎても、討ち入りはなかった。


 七月十八日、浅野内匠頭の弟大学に、幕府より「広島藩お預り」の処分が下った。

 これにより、浅野家再興の道は、事実上閉ざされることになった。


 討ち入りに対する吉良家の警戒、町民たちの関心も、いつしか薄くなっていた。


 十二月。清水甲斐乃介の家を作次郎が訪れていた。

「不思議なもんだ、甲斐乃介に子どもができるとは。しかも、母親がきくとはなぁ」

 きくが抱く赤ん坊をみて、作次郎も自然と笑顔になっていた。

「腑抜けたようなツラしおって。お主もとっとと嫁をとらんか。ぐずぐずしておったら、わしに孫ができるぞ」

「お主は幸せ者だぞ。たいてい、嫁は隣近所にいるものではない。ことに、おきくのように器量がよくて賢い妻女はな」

「やめてください、お兄様」

「作次郎、今の発言は問題だぞ。それでは、近所同士で縁組した夫婦は、どちらかが不細工で賢くない、と言っているようなものだ。お主の上役の新八様は確か」

「わかったわかった、すまなかった。なぜおぬしを茶化して上役に謝らねばならんのだ。お主は頭の回転がよすぎる。おきくを同じようにいじめてくれるなよ」

「人聞きの悪いことを申すな。いじめてなどおらんぞ、なあ」

「はい」

「それにな、もうわしらは隣近所ではない」

 屋敷替えに際して、二人の家の離ればなれになっている。

「きくは、隣に住む友人の妹でもなければ、その兄は友人でもない」

「なに」

 と声が出ないほど、作之助の肝が縮んだ、冷や水を浴びたように。

「作次郎、お主はわしの妻の兄、さればわたしの兄だ。これからも、兄として、家族として、よろしく頼む」

 言って、甲斐乃介は、作之助に頭を下げた。

「なにを……」

「おまえ、泣いておるのか! はっはっ!」

「だ、誰が泣いてなど、きく、おまえまで笑うな」

 家の中に笑い声が響いた。


 その日、翌日に開かれる茶会の準備のため、甲斐乃介はいつもより遅くまで吉良屋敷に残っていた。

 過去の茶会に関わる記録などを見ているうちに遅くなった。今確認しなければならないことでもないのだけれど。

 勘定組の室で一人いるところに、

「失礼」

 と入ってくる者がある。誰かは、声でわかった。

「甲斐乃介、少し付き合え」

 父の一学だった。父が屋敷内で会合に出ていたことは知っていた。

 会合が終わり、その打ち上げということでもないが、何人かで少し酒でも飲もうという話になったらしく、甲斐乃介もそこに呼ばれた。


 甲斐乃介は、父親と、上杉家付人小林平八郎、側用人大須賀治部右衛門の四人で、しばし杯を傾けあった。

 小林と大須賀は、夜四つの鐘を聞いて帰っていった。

「甲斐乃介、お主も泊まっていかぬか」

「は。いや、しかし」

「なにを心配しておる。亭主などは、ときどき外で泊まってくるくらいがちょうどよいのだぞ」

 一学は、もともと当番で今夜は屋敷に泊まることになっていた。

「いや……」

 そうではなく。

「家には使いを出すゆえ、案ずるでない。ときには勤めで帰れぬ、これも甲斐性というものだ。いや、そんな積もりで名前をつけたわけではないぞ、はっはっ!」

「わかりました」

 観念して、甲斐乃介は小さく頭を下げた。笑いかたが自分と似ている、そんなことも思っていた。


 家のことを心配して断ったわけではなかった。

 久しぶりに父と床を並べるということが、気恥ずかしい、照れ臭かった。

「久しぶり」といって、記憶にも残っていないのだけれど。

 子どもの頃には違いなかろうが。

 妻のこと、息子のことが頭の中をよぎると、続いて親友の顔も浮かんできた。


 父親と、何事か話をするものだろうか、どんな話をするものだろう。

 そんなことを考えてるうち、隣から

「ぐぅ、ぐぅ」

 寝息が聞こえてきた。

「ふっ」

 思わず、吹き出しそうになった。

 暢気なものだ。清水一学といえば、家中では「切れ者」で通っている。他家の者も一目置く、などと

言われる人物である。

 それが……。

 酒が入っているからか、息子の前、いや隣だからか。

 なるほど、父とはこういうものなのだろう。

 そんなことを考えているうちに、甲斐乃介も眠りに落ちていた。

 ぐぅ、ぐぅ、すぅ、すぅ、ぐぅ、ぐぅ、すぅ、すぅ、……。


 朝まだ明けやらぬ。

 作次郎は、人垣を突き破るようにして屋敷の門へ飛び込んだ。屋敷の中を走った、駆け回った。


 一刻(二時間)ほど前。

 騒ぎで目が覚めた。作次郎の住む長屋は屋敷のすぐ近くである。

「火事だー!」

 そんな声が聞こえてくる。明らかに屋敷からだった。

「すわっ!」

 長屋の戸にぶち当たるような勢いで外に出ようとして、ほんとにぶち当たった。

 戸が、開かなかった。

 外から細工がしてあるのか。

「おい、おい!」

 なにがどうなってんだ!

 隣からも、同じように叫び声が聞こえてくる。

「くそ!」

 普段は、戸がよく閉まらないだの、外が覗けるほど隙間が空いてるだの言うくせに、いざ突き破ろうと思えばこの堅さ。

 なにがどうなっている!

 いや、外で、屋敷でなにが起こっているか、作次郎にはわかっていた。

「おい! 誰か! 開けてくれ!」


 屋敷は傷だらけ、血だらけだった。屋敷そのものも、屋敷にいた人たちも。

 人がごろごろ転がっていた。

 生きている者もいる。死んでいる者もいる。

「!」

 作次郎は、死んでいる者の隣に跪いて、泣いた。

 転がっているのは、甲斐乃介だった。甲斐乃介は死んでいた。

 弟は、死んでいた。白い寝巻きが血を飲んで黒く変色していた。その寝巻きも、あちこち斬られてずたぼろだった。

 肩から鳩尾まで、袈裟斬りに斬られている。これが致命傷だろう。

 立ち向かったのだ、正面から。

 甲斐乃介は、逃げずに、向かっていった。

「馬鹿野郎、なんで」

 逃げなかった……。

 そもそもそれは、「わし」の役目だろうに……。

 近くには一学も死体となって横たわっていた。やはり、黒い寝巻きをまとって。


 吉良上野介は、死んだ。台所裏の小部屋に潜んでいたところを、見つかって槍で突き殺されたという。


 赤穂浪士の討ち入り事件は、「江戸中の手柄」と言われ、江戸の人々の喝采を呼んだ。

 討ち入りの際の吉良側の被害は死者十六人、負傷者二十三人。

 吉良家に勤める家来は百五十人ほどがいたが、そのうちの百人からは討ち入りの時点で屋敷にいなかった。

 多くは、長屋に閉じ込められ、参じることは叶わなかった。作次郎のように。


 明けて元禄十六年二月四日、討ち入りに参加した赤穂浪士たちは、預けられていたそれぞれの屋敷の庭先で切腹した。

 同日、吉良義周は信濃高島藩にお預けとされた。

 吉良家に勤めていた家来たちは、仕事と家を失った。


 夫と義父を失ったきくは、作次郎の元に戻った。

 作次郎は、江戸で他家に仕える道もあったが、母親のつてを頼って上州へいくことを決めた。

 江戸を離れたかった。妹のために、自分のためにも。

 作次郎の近くで最も辛い思いをしたのは、甲斐乃介の母親だろう。

 長年連れ添った旦那と息子を殺され、義理とは言え娘と孫とも離れなければならないのだから。

 甲斐乃介の母は、出家して尼になることを決めた。


 隣同士だった岩田の家と清水の家は、二度と近づかないほど、離れ離れになってしまった。



 元禄十六年十二月。

 上州のこの時期は、寒いがとにかく風が強い。

 上州名物「空っ風」と言われるこの風は、赤城山から吹き下ろして、関東平野を江戸まで届く。

 あれから一年が経とうとしていた。

 作次郎は、この地で農民となった。母親ときくとその子の四人で、今は暮らしている。

 きくも、徐々にではあるが、活気を取り戻しつつあるようだった。

 内面に負った傷がどれほど深いかは、作次郎をもってしても計り知れない。


 あの日のことを思い返すたび、作次郎の心は形を失った。

 怒り、怨み、悲しみ、憐れみ……。

 赤穂浪士たちは、旗本の家に討ち入りなどすれば死罪は免れないことを知っていたろう。

 その上で、主君の仇を討ち、腹を召した。

 本懐を遂げ、むしろ晴れやかな、誇らしい気持ちを抱いて死んでいったに違いない。


 では。

 残された我々は、どうすればいい?

 吉良上野介は、あるいは討たれてしかるべき人物だったかもしれない。

 ならば、上野介一人を殺せばいい。

 茶会の当日で、上野介が間違いなく屋敷にいる日を選び、長屋の戸に細工するほどまで周到に計画を練り上げた。

 ならば、上野介が一人あるいは僅かな人数のみで出かけるところなどを襲えなかったか。

 浅野内匠頭の処分には同情する。

 その代償が、吉良上野介以下十六名の命なのか。

 夫を、父を、息子を、失った、浪士たちはそんな人たちの心も討った。

「釣り合わぬ」

 この思いをぶつける先が、作之助にはない。

 討つべき浪士はこの世にいない。


 広島藩にいるという浅野大学を討てばいいのか。


 虚しい。


 作次郎の思いが行きつく先は「虚しさ」しかなかった。

 すなわち「空っぽ」ということだ。

 何もない、ということだ。

 

 土に、地面に、ぶつけるより他に、どうすればよいというのか。


 父上、弟、甲斐乃介、わたしはどうすればいい、妹を、どうすればいいのだ……。



季節の言葉:義士会

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