烏瓜
「かずこさん」
おじいさんの声が玄関の方から聞こえた。「かずこさん」は二階の部屋の掃除をしていた。
「は~い」
とできるだけ大きな声を返す。
二階にいたか、というおじいさんの小さな声が聞こえたのはちょっと可笑(おか)しくもある、自分も、そんなに大きな声を出す必要はなかったのか、と。
「ちょっと、出かけてきます」
その声は、最初より少し大きくなっていた。
すぐに、小さな子どもの声が続く。
「でかけてきま~す」
そのとき、かずこさんはようやく階段を下り始めたところだった。
「ちょっと出かけてきます。昼には戻ってくるから」
おじいさんが、孫を連れて出かけるという。
歩いて。
二階の部屋で見た時計は、9時を10分ほど過ぎていた。
「わかりました、気をつけていってきてください。将太も、おじいちゃんの言うこと、ちゃんときくのよ」
「はい」
「は~い」
おじいちゃんが玄関を開ける、すうっと涼しい空気が玄関に流れ込んできた。
かずこの口が「あっ」の形に開いた、しかし、声は出なかった。
つっかけを履いて、二人を見送りに外に出た。
「いってらっしゃい!」
大きな声を二人にぶつけるように飛ばすと、二人は振り返って手を振った。
玄関が開いた瞬間の思わぬ寒さに驚いた。
ただ、階段を降りてきたときに見た二人は、しっかりとコートを着こんで、準備していたのだ。
慌てる必要はない。
着ぶくれた二人の姿が、可笑しかった。
少し歩いたところで、しょうたはおじいさんにマフラーを巻かれる。
おじいさんも、自分の首にマフラーを巻き付けた。
6歳になる将太は、動きづらいためにコートを着ることを嫌がるのだが、おじいさんは、よく着せたものだ。
将太は、おじいさんのことが好きだった。
優しいおじいさんが。
なんでも買ってくれるおじいさんが。
マフラーだって、あんなに素直に、大人しく。
普段よりも丸っこい、しっかりと手をつなぐ二人の姿が小さくなって、角を曲がって見えなくなった。
「さむ」
言って、かずこは家の中に急いで戻る。
戻りながら、ふと考える。
昼食は、暖かいうどんでも作ろうかな。
天気はよかったが、風が少し強い。
どこかから飛んできた落ち葉がカサカサと音させて踊っていた。
乾いた風が吹くと、気温以上に冷えた。
この辺りの、冬の風である。
孫の将太とはときどき二人で散歩をするが、これほど家を離れたのは初めてだ。
昔はあそこには映画館があった、銭湯があった、郵便局の場所はここだった、など。
前に聞いた話もあったろうが、将太はちゃんと話を聞いて、「へぇ」とか「そうなんだ」などと相づちを打ってくれた。
時に、走ったり、石を蹴ったり、小枝を拾ったり、動くことはあるが、おじいさんの手を離すことはなかった。
6歳の孫なりに、おじいさんを引っ張る意識があるのだろう。
こんなジジイの散歩に「イヤ」も言わず付き合ってくれて、ありがたいことだ。
二人が家を出てから30分ほどが経っていた。
「将太、疲れたろう」
「だいじょぶ」
ここは、辺りで「城山」と呼ばれる山城の跡である。
復元された建物などはないが、二の丸や本丸の跡、空掘や曲輪跡などが広く残る城跡だった。
「歩いて城山までいくが、将太もいくか?」
朝ご飯の後、おじいさんが将太に声をかけた、正直、
「いく」
と言うとは思ってなかった。むしろ戸惑った。
城山は、将太が通う保育園の近くである。
保育園の時間中に、先生に連れられてみんなで城山にいったこともある。
今日は日曜だが、父親は用事があるとかで、暗いうちに出ていった。
「ボールも見えないうちからいくんだから」
日曜なのに早起きさせられたかずこが文句を言っていた。
将太も、家にいるより、外に出たかったのだろう。
城山を、おじいさんに案内したかったというのもあったかもしれない。
城山に入ると、将太はさらにおじいさんを引き始めたものだった。
「こっちにいくと、たんぽぽが咲いてたんだよ」
もう咲いてない、とはおじいさんは言えないが。
着ぶくれた体が少し暑くなってきた。
おじいさんのマフラーは将太の右手に巻かれている。
少し登りになった小道。
左側は柵があって竹やぶの下り斜面、右はやはり竹やぶの登り斜面である。
「くまがでるから」
そう言って、体の割に大きな木の枝を持ってブンブン振り回した。将太の手ははおじいさんから離れている。
「ヤァ、トォ」
「熊と間違えて、人をやっつけないようにな」
「うん」
曲がりくねった、見通しの悪い道。
「あ!」
と言って、将太が走り出した。
「しょうた」
慌てた。おじいさんも小走りになる。凸凹の地面に落ち葉が敷き詰められている、歩きづらい。
ちょっと急ぐと、とたんに息が苦しくなった。
――もう若くない。
――普段からもっと歩くようにせんとな。
しみじみ振り返ったが、それどころではなかっい。
いない。
見失ってしまった。
「しょうた~、しょうた~!」
返事は返ってこない。
もう少し、先にいってみよう。
おじいさんが拾い上げて手に取った、木の枝。
さっきまで将太が振り回していたものではないか。
そこは、空堀跡のすぐ脇だった。
高さは5、6メートルほどあるだろうか。
おじいさんは、その堀の下をのぞいた。
雑草に覆われた斜面に、その下に、人の姿はなさそうだ。
とにかく先まで行ってみよう。
もう少し奥まで。
あの場所まで。
おじいさんの人生は、この城山とともにあったと言っても過言ではない。
小学生の頃から、城山は遊び場所だった。
大学を卒業すると、おじいさんはこの町の役場で働き始める。
役場に努めて30年ほど経ったとき、おじいさんは課長になっていたのだが、その頃「城山開発計画」という話が俄に持ち上がった。
城山とその周辺の開発計画で、城山の本丸跡とその近くのみを残して、周りの土地を売り出す、という計画だった。
反対の声は大きかった。
歴史的な価値から保存を望む声、緑の多い静かな住環境を守りたいという近隣住民の声がすぐに沸き上がった。
おじいさんも反対だった。
それは怒りにも近い。
行政としては、将来のことも考えて再開発に前向きだった。説明会なども具体的に準備され始めた。
おじいさんは、役場を辞めた。
役場を辞めて、町会議員に立候補した。
城山を、(おじいさんなりに)守るために。
城山を守ることは、この町を守ることにつながる!
おじいさんの「一点突破」のその熱意は町民にもわかりやすく伝わる。おじいさんは、町会議員に見事当選した。
おじいさんのお陰と言えば言い過ぎだが、城山の開発計画は消えた。
おじいさんは、城山がとても好きだった。
公私混同と言われれば、おじいさんは自信を持って「その通りだ」と言うだろう。実際、言ったこともある。
そもそも、生きることにおいて、「公」と「私」はキレイに分けられるものではあるまい。
おじいさんが城山をどうしても守りたかったのは、どこまでいっても「自分」のためだ。
「自分の思い出」のためでしかなかった。
孫を探しながら、おじいさんは、三の丸二の丸、本丸も抜けてその奥、城主の暮らす建物があった御前曲輪跡まできていた。
そこには、数人の人影があったが、小さな男の子の姿はなし。
御前曲輪の西の端、一際大きな杉の木の前に、おじいさんは立つ。
おじいさんが今日きたかった場所。
この杉の木を、おじいさんは見にきた。
杉の木の樹皮に手を添わせると、おじいさんは顔を臥せる、そのまま、膝から地面に座り込んでしまった。
子どものころ、おじいさんはこの城山でよく友だちと遊んでいた。
毎日毎日、城山を友だちと駆け回っていた。
おじいさんには親友と呼べる友だちがいた。
中学三年のあるとき、その親友と御前曲輪で将来のことについて話し合った。
「俺はここに自分の家を建てる! 将来、俺はここに住んでやる!」
言ったのは中学生のおじいさんだ。
親友は、「できるわけない」とは言わなかった。
「じゃあ、俺が、しんちゃんの家を建ててやるよ。しんちゃんの城を、建ててやる」
「よし」
「よし」
約束だ。
この杉の木にかけて。
「ここに家を建てる」「しんちゃんの家を作る」と書いた紙を牛乳の空き瓶に入れてテープで封をし、この杉の木の根元に埋めた。
おじいさんは、その土地を手に入れるために公務員になり、親友は、建築家になった。
おじいさんが開発計画に反対したのは、この先、どんなに頑張っても、城山に土地を持つほどの資金を得られそうにないことに、気づいたから。
建築家になった親友は、業界内ではそこそこ名の通る建築家になっていた。
「早く土地を用意してくれ、そしたら俺が城を建ててやるから」
いつになったら、そんな資金が貯まるやら。
「城はタダで建ててやるよ、土地さえなんとかなったらな」
「その言葉、覚えてろよ!」
公務員時代、親友とよくそんな会話で笑いあっていた。
実際、今のおじいさんの家は、その親友に頼んで作ったものだった。
さすがにタダではなかったが、かなり安くしてもらった。
その親友は、亡くなった。病気で。おじいさんが役場を辞める少し前のことだった。
――〝おまえ〟は、親友だけじゃなく、孫まで連れていっちまうのか……。
過去だけじゃなく、未来まで……。
「電話しなければ」
おじいさんは携帯を取り出す。
かずこさんにまず電話して、それから警察に……。
将太の前を猫が走った。その猫を、追いかけた。
堀を降りていく猫に向かって、将太はマフラーを伸ばした、と、風に、マフラーをさらわれてしまった。
マフラーは、堀の中ほどに落ちた。
そのマフラーを拾いに降りると、途中で転がり落ちてしまった。
痛いところはない。
マフラーを拾うことには成功したが、道が、わからなくなった。
真剣な表情で堀の底を走る将太に目を止めた男性がいた。
眼鏡をかけた、四十前後の男性だった。
男性は、ニヤッと笑みを浮かべながら、将太に近づいた。
かずこさんは電話に出ない、息子にかけるか……。
「あ、いた!」
「!!!」
右を向いた、杉の木、左を向く、後ろを振り向く。
「ああ!!」
「おじいちゃん!」
「はぁ……」
将太、という声にはならなかった。
駆けよってきた孫と向かい合う、抱き寄せようと腕を伸ばした、
「これ」
将太がおじいさんに差し出した、おじいさんのマフラーを。
将太は、笑っていた。服に草がついていた。
将太の後をたどるように、男性が近づいてくる。
ああそうか、きみが……。
「太一くん」
「やっぱり、信造さんのお孫さんでしたか」
その男性は、親友の息子であった。
親友はこの土地を終生離れなかった。
親友の奥さんは、旦那が亡くなった後も一人で暮らしていたが、3年ほど前、息子の元に移り一緒に暮らしていた。
息子の太一は、神奈川で、建築デザイナーをしている。
太一は、この週末、仕事でこっちにきていた。
久しぶりに戻ってきたので、城山を訪ねてみた。
おじいさんと親友は、それぞれ子どもができてから、お互い家族を連れてここに何度か遊びにきたことがあった。
二人以外にとっては、大して楽しい場所でもなかっただろうに。
「ほんとにありがとう」
「いえいえ。見た瞬間、なんか、ピンときましたよ」
太一は笑顔でそう言った。
「正直、信造さんに会えるとは思ってなかったけ
ど、まさか先にお孫さん見つけるとは、驚きました」
「ほんとに助かった。さすがに肝をつぶしたよ、ほんとにありがとう」
おじいさんは、親友の子どもに、深く頭を下げた、杉の木のすぐ下で。
まるで、親友にお礼を言っているようだった。
親友に、頭を下げているようだった。
親友が亡くなったとき、おじいさんは、杉の根元を掘り起こした。
あった。
牛乳瓶も、その中身も、不思議なほどきれいに残っていた。
そこだけ時間が止まっていた。
涙を流すおじいさんの傍らに、烏瓜の赤い実が垂れ下がっていた。
「また家族で遊びましょうよ。今度、母親も連れて遊びにきますよ」
「ぜひ、みんなできてくれ」
「母も喜びます、じゃあ」
「うん、今日はほんとうにあ」
「あれ、信造さん、今日はなにでここまできたんですか?」
「孫と歩いてきたんだ」
「そうなんだ、だったら」
親友の命日から少し後の11月の日曜日、おじいさんは、城山のこの場所を毎年訪ねている。
「烏瓜爆弾、おりゃ!」
「いってぇな! お返しだ、くらえ、烏瓜ミサイル!」
「いてぇ!」
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