第3話 霜降(そうこう)
外に出ると、暗い、寒さが体を包んだ。
10月下旬。朝5時30分。
寒い、が、肌を刺すという感じではない。
ほどよい冷気、とでもいおうか。
柔らかく肌を包むような、ちょうど眠気を覚ましてくれる、そんな気の利いた寒さ。
「ふぁ」
欠伸を噛み殺した。
「おはようございます」
横から声をかけられた、そちらを振り向く。暗闇の中に人影が浮かぶ。
「あ、おはようございます」
声をかけてきたのは、しげさんだった。
しげさんは、確か60歳を1つか2つ過ぎている。
見た目は、むしろ年齢よりも「おじいちゃん」に見えるかもしれない。背中も少し曲がっているし。
でも、ほんとのしげさんはとても若々しい。
ここで働き初めて40年。ここのことは、何でも知っていた。
しげさんは、とっても頼りになるのだ。
いつもニコニコ。朝でも夜でも。夜明け前で顔がよく見えなくても。
しげさんの顔を見ると、ほっとする。
しげさんが、目の前を横切りながら、ちらっとこちらを向いて言った。
「なっちゃんも、だいぶ旅館の人になってきたんじゃねぇか」
「そうですかね」
咄嗟に顔を伏せていた。着物の襟元(えりもと)を思わず触った。
「しげさんは、どこいくの?」
「川いって、魚がとれてるかみてくらぁ」
「ありがと。暗いから、気をつけてね」
「はいよ」
軽く右手をあげて、しげさんは離れていった、「ざっざっざっ」と小気味のいい足音をさせて。
思わず聞き入ってしまう。聞こえなくなるまで聞いているわけには、いかない。
「旅館の人になってきた」
その言葉を噛み締める。「嬉しさ」よりも「恥ずかしさ」「申し訳なさ」がじわっと染み出てきて、ナツの表情を固くした。
ナツの家は、創業100年を越える旅館である。
ナツは、その家の次女として生まれた。
ナツにはカナコという姉がいる。ナツよりも3歳年上。
「小さいころは、いっつもお姉ちゃんの後についてね。お姉ちゃんお姉ちゃんて。お姉ちゃんの真似して、ほんと仲良しだったよね」
姉妹を幼い頃から知っている人は、よくそういう話をする。
しかし、ナツが自分の「小さいころ」を思い返すとき、姉に抱く感情として一番に出てくる言葉は「ねたみ」だった。
「嫉妬」そして「絶望」、からの「諦め」。
姉は、生まれたときから将来の「女将」として育てられた。
性格も、親の言うことをよく聞く真面目な子だった。運動や美術は苦手だったけど、勉強はよくできた。
手先は器用なほうではなく、家庭科で縫い物したりするときも、上手ではないが、直向きさが全面に見える、出来栄え以上にみんなから評価された。
なんで……。
まさしく、絵に描いたような「お姉ちゃん」だった。
「お前は、自分の好きなことをやりなさい」
ナツは、そう言われて育った。親から、周りの人たちから。
「わたしの分まで、自分の好きなことをしなさい」
姉にもそう言われた。
じゃあ、好きなことをしよう。
ナツは運動が得意だった。中学生になると、バスケ部に入る。
1年の秋から公式戦のメンバーに選ばれ、試合も経験した。
2年生の夏、怪我をして1ヶ月ほど練習ができなかった。
怪我が治り、練習に戻ったが、当然、前と同じように動けるはずもなく。
バスケが好きではなくなった。練習にいかなくなった。
授業が終わって、部活にもいかず、さっさと学校から出ていく。
女子の友だちと。男子も一緒に。
「そういう友だちと遊ぶんじゃない」
「自分で選んでバスケ始めたんだから、最後までやりとげなさい」
好きなことをしろと、言っていたのに。
なんで……。
「お姉ちゃんの足を引っ張るようなことをするな」
なに、それ。
「ナツは、いい女将になるだろうね」
ナツにそう言ったのは、おばあちゃん。
「ナツは気がきくし、人の気持ちがわかる子だから」
おばあちゃんは、ナツのことを、なぜかいつもほめてくれた。
「こら!」
学校から帰る途中、通りがかったおばあちゃんに叱(しか)られたことがあった。中学三年の秋のこと。
「食べ物を粗末にしたら、ダメ」
ナツは、同級生の女子に、給食で残したパンをちぎって投げつけていた。ナツだけではなかったが。
夜、ナツは、おばあちゃんの部屋に謝りにいった。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
ナツは、おばあちゃんの前に正座する、そして頭を下げた。
「もうあんなことしないと、約束するかい」
「はい。もうしません、食べ物を投げたり、粗末にしません」
「よし」
「ごめんなさい」
立ち上がりかけたナツに、おばあちゃんが続けて言った。
「あとね、ナツ。友だちを、よそ様の子を、あんな風に笑ってはいけないよ、子を笑うということは、親を笑うこと。人を笑うことは、その家族を笑うことなのよ」
おばあちゃんの声は、とても優しい。
「おばあちゃん、ナツには、そういう人間になって欲しくないのよ」
「うん」
と言ったきり、ナツは動けなくなってしまった。
ナツは、泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。
おばあちゃんが言った意味、ナツにはよくわかった。
あんな風に――。
ナツがその女子にしていたことは、イジメだった。
次の日。
「ごめんなさい」
今まで、あんな風に笑って、
「ほんと、ごめん」
ナツは、その子に頭を下げた。
それで、その子との関わりは終わりにするつもりだった。
そうはならなかった。
彼女と、話をするようになった。
ナツが彼女と仲良くなると、彼女をイジメる人は、いなくなった。
「創業100年」の看板は、ナツが思っている以上に効くらしい。
一緒に帰るようになり、一緒に勉強するようになった。
卒業式で、笑って別れを言い合った、涙を流しながら。
高校を卒業すると、ナツは東京の専門学校で、服飾関係の勉強をする。
デザイナーになりたかった。
「これが、わたしの好きなことを、やりたいこと」
好きなことができる。
大変なこと、しんどいことも、そりゃ当然いくらもあったが、ナツは一生懸命に勉強した。
専門学校卒業即デザイナー、という訳にはいかなかったが、着物などを扱う会社に就職することができた。
なんだかんだ、ナツは和服に対してこだわりを持っている。
そのこだわりを受け入れるには多少時間がかかったが、そのこだわりを受け入れてから、精神的にとても楽になった。
自分でデザインした着物、製作に携わった着物を着ている自分の姿を、思い描くようになった。
仕事のために、ナツは京都で暮らし始めた。
近いうちに、おばあちゃんおじいちゃんを「こっち」に招待しよう。
京都の町を、おばあちゃんと一緒に歩く自分を想像して、胸が踊った。
おじいちゃんも一緒にね。
京都で仕事を始めて半年ほどが経った。
周りの山がいよいよ色づき始めるか、というとき。
おばあちゃんが、亡くなった。
この世から、色がなくなった。白黒の世界を、ナツはしばらく生きなければならなかった。
新人ではありながら、会社は、祖母の葬儀に実家へ戻るナツに、一週間の休暇をくれた。
京都へ戻ってきたとき、ナツは、むしろ強靭になっていた。
「おばあちゃんが笑われないように」
一生懸命仕事をしなければならない。
ナツは、より仕事に打ち込むようになった。
会社の優しさも、ナツを大いに励ました。
家族が、笑われないように。
京都にも、ナツの家族ができた。
祖母が亡くなった翌年、祖父も亡くなってしまう。後を追うように。
二人はとても仲が良かったから。
ナツが京都で暮らし始めて6年目に入ろうかという3月。
「今までほんとに、お世話になりました」
ナツは、京都の家族に別れを告げた。ナツは、実家に帰る。実家の、家族のもとへ。
とてもとても苦しい決断だったが、その決断は、ナツが自らの意志で決めたことだった。
京都とは、京都の家族とは、もう二度と会えない。そんな気持ちがあった。
泣いた、顔が溶けてなくなるほどに。
姉カナコが病気になった。
目の病気で、視力も落ちてしまったのだが、とにかくまぶしいのだという。太陽の光でも、室内の灯りでも、まぶしい、目が痛くなるほどに。
パソコンもスマホも見続けられない。本を読むのさえつらいということだった。
姉は、事実、色のない世界を生きていくことになった、この先ずっと。何十年も。
「お姉ちゃんを支えて欲しい」と、両親から言われた。
両親の願いを、ナツは受け入れた。
今度はわたしの……。
実家に帰ったナツに、両親は目を潤ませて「ありがとう」と言った。
姉も「ありがとう」と言ってきた。サングラスの奥の目は、潤んでいるかはわからなかったが。
着物を着て働くことに、ナツは喜びを感じていた。
運命をさえ思った。
姉は、女将を続けるという。
「お姉ちゃん、サングラスでいいの?」
「話題になるでしょ」
姉は笑って答える。
「目見えなくて、大変じゃない?」
「だから、お姉ちゃんを支えてあげて」
両親は、何度か、何度もナツにそう言った。
なんで……。
ある夜のこと。
静まり帰った家の、その一室で。
ナツは、泣いていた。
そこは、亡くなった祖父母の部屋だった。
今度は、わたしの番じゃん。
今度はわたしが、「女将さん」になる番でしょ?
おばあちゃんだって、言ってたのに。
なんで、なんで、いつもわたしは……。
好きなことができないの?
かつてのナツの部屋は、姉の二人の子どもたちの部屋として使われている。二人とも男の子。
ナツは今、祖父母の部屋で寝起きをしていた。
おばあちゃんが亡くなってから5年ほど。
おばあちゃんの匂いはまだ残っている。
匂いだけじゃない。
気配を感じることさえあった。
思い込みであることは理解している。
でも、感じる。
ならばそれは、ナツにとって事実でしかない。
涙で枕が濡れる日があって。
泣かない日もあって。
わたしの好きなことって、なに?
女将になること。
お姉ちゃんは、わたしの憧れだった。
嫌いだった。
お姉ちゃんの真似ばっかりしていた。
お姉ちゃんができないことをやろうとしていた。
お姉ちゃんを越えたかったから?
違う。
お姉ちゃんが、好きだから。
やっと、ちょっと素直になれたかな。
好きなことは、お姉ちゃん。
わたしが女将になるということは、お姉ちゃんを女将から外すということ。
お姉ちゃんを、追い出すということ。
そんなこと……。
「当たり前じゃない」
わたしがお姉ちゃんを、支える。
ほんとに支えになるのは、わたし。
わたししかいない。
また泣いた。
また泣くかもしれない。
でも、できれば泣きたくない。
泣くことは、疲れるのだ。
「おばあちゃん、わたし決めたよ」
やっと。
やっとわかった。やっと決めた。
見つけた。
しっかり見つめることができた。
サングラスの女将。
「サイコー♥️」
お姉ちゃんを笑うやつがいたら、わたしがぶっ飛ばす。
○
「しげさんは、どこいくの?」
「川行って、魚がとれてるかみてくらぁ」
「ありがと。暗いから、気をつけてね」
「はいよ」
軽く右手をあげて、しげさんは離れていった、「ざっざっざっ」と小気味のいい足音をさせて。
思わず聞き入ってしまう。聞こえなくなるまで聞いているわけには、いかない。
「旅館の人になってきた」
その言葉を噛み締める。その言葉を、素直に受けとることができなくて、今はまだ、ナツの胸のつかえは、すっかりとれてはいないようで。
つかえを少しでも昇華させるように、空を見上げた。吐いた息が白く、空へと上がってゆく。
満天の星空だ。
無数の星が輝いている。
全ての星が瞬いている、語り合うように。
語りかけてくるように。
地面に目を落として、ナツは一歩、土を踏んだ。
ざく。
霜が降りていた。
○
おばあちゃんの部屋で泣いた次の日。
ナツが目を覚ましたとき、外はまだ明るくなるよりだいぶ前のようだった。
時計は、五時20分。
寝床から出て、綿入り袢纏を着ると、ナツは静かに家の外に出た。
玄関の灯りを避けるようにそこから離れる、土の地面を踏んだ。
ざく。
ざく、ざく、ざく。
足裏から伝わる心地よさ。ナツの一歩で地面が沈む。まるで、怪獣にでもなったような。
「霜降(そうこう)」
ナツが振り向く、おばあちゃんが、すぐ近くに立っていた。
気が付かなかった、が、誰かはすぐにわかっていた。
「そうこう?」
「霜、始めて降る。もう冬だわね」
「そうこう」
霜が、降る。もう、冬になるのか。
「そうこう」
おばあちゃんが、ナツの首にマフラーを巻いてくれた。
とても暖かかった。
ナツが、パッと顔を上げた、まるでマフラーから顔を出すように。
「よし」
小さくそう言うと、パン、と頬を両手ではたいた。
ナツは霜を踏んで、歩き始めた。
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