第1話 真っ白な空間

 



 僕はすぐに来るであろう痛みを待つように体を強張らせる。耳に男の叫び声や周囲の人たちの喧騒も届かないほどに、奏多は体全体を緊張させていた。


 周りはパニック状態に陥っており、他の誰かの助けが入るとは考えにくい。それに、あの男の次のターゲットは十中八九奏多だろう。助かる見込みなど皆無といっていい。



――死ぬなら出来るだけ痛くない死に方がいいな。



 そんな事を考えるほどに奏多は死を覚悟していた。


 しかし、すぐに来ると思っていた痛みが中々来ない。



――もしかして、助かったのか?



 奏多はそんな淡い期待を胸に閉じた目を開く。そして、目の前の光景を見て眉をひそめた。



 奏多の目に飛び込んで来たのは、さっきまで目の前に広がっていた地獄絵図ではなく、真っ白で果ての見えない、そんな空間だったからだ。


 奏多はすぐに周囲を見渡したが、さっきまで転がっていた死体も自分に向かって来た殺人鬼も、その現場から逃げ惑う人々もいない。さっきまで聞こえていた叫び声もない。



―― 一体ここはどこなんだ?



「ここは天界じゃよ。神崎奏多くん?」



 疑問にこたえるように、急に後ろから声がかかる。


 奏多は奏多は驚いてすぐに振り返ると、さっきまでいなかったはずの老人がそこに立っていた。真っ白な服を着たその老人は異様な存在感を放っている。



「天界、ですか」



 奏多は老人の様子を伺いながらそう答える。いたって平然とした顔で受け答えを試みるが、奏多は内心少し狼狽していた。


 さっき周囲を確認した時、そこに老人は居なかったはずだ。老人の放つ異様な存在感に目を瞑ったとしても、それだけでおかしな状況である事は間違いなかった。



「そう身構えんでくれ。ここに君を呼んだのは、君に謝りたいからなんじゃ」



 その老人は目を伏せながらそう言う。いや、老人は元々目が開いているのか分からないほど眉毛が長かったので、ただの想像なのだが。



――それにしても、謝罪?



「すみませんが、僕には今の現状が分かりません。まず、あなたは誰なのでしょうか?」



 まず、奏多は現在の状況を把握したかった。


 老人はここを天界だと言った。勿論その発言を全て信じるわけではないが、そうだとすると色々合点がいくのも確かだ。目の前の老人がどうしていきなり現れたのか。さっきまで日本にいたのにどうしてこの場にいるのか。その他諸々。



「そうじゃな。まだ何も話しておらんのに謝罪しても意味が分からんじゃろうな……。わしは神じゃ」



 老人はそう言って一息つき、また言葉を続ける。



「明確に言うなら、そなたの住む世界とは異なる世界の神じゃな」







――異なる世界の神?



 その老人の言葉を頭の中で反駁させる。


 天界というのだから、神もしくはそれに付随する何かである事は想像に難くない。勿論、普通ならありえない事ではあるのだろうが。


 しかし、目の前にいるその老人の話には、何故か不思議なほどの説得力があった。だからだろうか、奏多は神と名乗るその人物を疑う事をやめていた。



「何故、異世界の神が僕に会いに来たのですか?」



 死にかけ若しくは死んでしまったのなら、奏多が住んでいた世界である『地球』の神が自分の目の前に現れるのが普通だと思ったからだ。


 それなのに、目の前にいる神は『地球』ではない他の世界の神だという。



「むぅ、それについては中々説明しづらいのぉ……」



 神は少し困った様に手を口元へ近づける。そして、数秒してまた言葉を続ける。



「簡単に言うと、わしは君が住む世界から君を切り離したのじゃ」



 そう言って少し伏せていた視線が再度奏多の方へ送られる。



――僕を「世界から切り離した」?



「君は、『地球』で命を落とした。殺人事件に巻き込まれてな」


「やっぱり、そうですか」



 奏多の脳裏にはさっきの光景がちらついた。


 無残にも転がった幾つかの骸にそれを生み出した殺人鬼。そして、その殺人鬼に次の標的とされ死を覚悟し無機質な瞳を閉じた青年と逃げ惑う人々。まさに地獄絵図だ。



「しかし、君はあれほど不幸になるはずではなかったのじゃ」



 神は、悲しそうな表情を浮かべる。しかし、その表情の奥には怒りが潜んでいた。

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