うたかた
明丸 丹一
うたかた
雨が降っていた。そんなに強い雨じゃない。だけど、しとしとと何日も降り続く類のイヤな雨だった。ある一滴が屋根に落ちる。そしてあまどいを伝い、僕があまやどりをしている軒下に垂れ、今ぽたりと目の前を通りすぎてアスファルトに吸い込まれていった。
「雨か……」
雨だった。自然現象だ。本来は。ここでは全ての出来事は心象に還元される。そういうことになっている。雨は見かけ上、きちんと上から下へ降りていた。地面に降りれば、もっとも地面に降りたものを雨というのか分からないが、水たまりを作る。因果関係は良好だ。辺りを見回せば、傘を差して歩く人や濡れ鼠で近くの喫茶店に駆け込む人を見ることが出来る。完全な三次元空間が構築されている。どこにもこれを現実ではないと判断できる要素は無いように思えた。しかし僕には分かっていた。これは夢だ。どこか現実で寝ている僕が見ている夢なのだった。
夢のようだ、という慣用句ほどには、僕の夢は現実離れしていない。また、夢と現実の区別がつかない、ということもない。と言うか、例えば今いるこの場所が実は現実で僕は夢遊病患者であるという可能性は、多くの人が子供の頃に思い描いたであろう、実は自分は貴族だか王族だかとにかくお金持ちで今ここにいる中流家庭に育っている自分はそのお金持ちの自分が見ている夢なのだという空想が現実であった可能性とほぼ同一だろうと考えられるくらい、僕は夢と現実の違いを理解している。これは小さいころからそうだった。むしろ幼い僕は誰かが夢の話をするとき、その夢の中では彼もしくは彼女がそれが夢であるということに気付かずに冒険をしているふうに話すのを不思議に思っていたものだった。
どこかで読んだ本によるとこの種の、夢の中でああこれは夢だと気付くような夢を明晰夢というらしい。ちなみにその本によると、人間は寝ているときに夢を見るものだが、その夢を見ている状態というのはレム睡眠というらしい。逆に、夢を見ていない状態の眠りをノンレム睡眠という、らしい。このレムというのはREMで、ラピッド・アイ・ムーブメント(RapidEyeMovement)の略であり、名の通りまぶたの裏で目がぐりぐり動いている。そしてこの状態では脳は記憶の整理などで比較的活発に動いていると言われている。つまり起きるぎりぎりのところで夢は見られる。
ところで、今僕は驚くほど長い間夢を見ている。ここにある時計はなんとなく当てにならないので正確な時間を計ることは出来ないが、それでも主観的には二、三日経っていてもおかしくないほど長くここにいると感じていた。こんなことは今までに無かった。何度か、大声を出してみたり、頬をつねってみたりしたが、一向に起きる気配は無かった。これはおかしい。そもそも起きる直前だからこそ夢を見ているはずだからだ。そうこうしているうちに雨が降ってきたので、ひとまず諦めてどこかあまやどりする場所を探し――今に至る。たとえ夢の中でも濡れればそれなりに気持ち悪いのだ。
雨降る空を見上げて思う。この雨は何かを表しているのだろうか。そしてそのことは起きれなくなったことと関係があるのだろうか。雨にも色々あるが、僕はこの雨に好い印象を持っていない。まさか現実に雨が降ることの知らせではないだろう。多分、現実の出来事と密接に繋がったイメージが脳内でよりプリミティブなものに変化したものがこの雨なのだ。もちろん僕はその分野についてくわしいことを知っているわけではないから、聞きかじった情報からそう考えているだけで本当は全く関係ない可能性も考慮に入れておかなくてはならない。例えば、現実では今実際に雨が降っていて、その雨音がこちらに影響しているのかもしれない。とはいえ、止まない雨というのはあまりにも分かりやすい心象だ。つまりは悲しみとか絶望とかそんな類の。何か悲惨なことがあってアイデンティティクライシスに瀕した僕の精神は殻にこもっているのかもしれないが、そんな覚えはとりあえず無い。もちろんこの考えも、精神が殻にこもっているならその記憶を持っていては負担がかかるとかそういうことで一時的に記憶喪失になっている可能性がないわけじゃない。
ふいに、雨の勢いが増した。アスファルトで跳ね返った水滴が僕の靴を濡らし始める。やれやれ。どこか別の場所に避難するしかないようだ。雨よけになりそうなものを何ひとつ持っていなかったので、せめて腕で頭を覆ってから軒下を飛び出した。
扉を開けると、カランコロンと鐘の音がした。その音を聞きつけて店員がやってくる。僕はびしょびしょだった。濡れることから逃れようと全力疾走しようとしたのだが、なぜか足が空回りしてしまってうまく走れなかったためだ。経験からいうと、走れないときは何かから追われているときが多い。雨だろうか。
「一名さまでよろしいですか」
はい、と答える。
「おタバコはお喫いになられますか」
いいえ。
席に案内され、水が出された。その水を一口含む。冷たい。どうやらいつも通り、味覚は感じられるらしい。店員に声を掛け、紅茶を頼んだ。待っている間、店内を見回す。結構混んでいた。ショッピングの帰りらしいおばちゃん達や学生、濡れたスーツのサラリーマンらしき男性。どうやら皆考えることは一緒らしい。……ふむ。考える、か。考えているのは誰なのだろうか。ここに見えている人たちは言ってみれば人形にしか過ぎない、はずだ。自律的な意思があるわけではなく、その行為は結局の所、僕に見せるためだけに行われているはずである。それは僕の無意識が見せるなんらかの歪曲されたメッセージであり暗号である可能性とともに、また見せられたもの自体にはなんの意味もない単なる脳活動の一環である可能性もある。深いことは分からないが、どちらにせよこの夢の中にいる僕はそういった無意識であるとか脳であるとかいった、僕自身を包むようにして存在しているなんらかの大きなものの影響でここにいるのだ。なんのためにそれは僕にこんな長い夢を見させているのだろうか。なんとなく薄ら寒くなって身を縮める。
そこへ紅茶が届いた。暖かい。冷えていた体が温まってきた。そうしてひとしきり紅茶をすすっていると、また店員がやってきた。
「すみません。ただいま店内混みあっておりますので、ご同席よろしいでしょうか」
イヤだと答えたらどうなるんだろうと考えながら、口では了承した。横の席に僕と同じような年恰好の男が座った。目が合って、会釈すると、男は話しかけてきた。
「あなた、起きる方法って知ってます?」
「はあ?」
あまりに面食らって、変な声を出してしまう。
「ええと、今、なんて?」
「だから起きる方法ですよ。言い換えれば、夢から覚める方法」
「あなたはここが、夢の中だって言うんですか?」
男は少し考えた風で、顎の辺りを触った。
「……なるほど。そういう風に処理されるわけか。つまり夢の住人は自分が夢の中にいるわけではないと思っていると。確かにそれならこちらには納得しやすいが……」
ここまで大きな声でぶつぶつ言っていると何か変な感じがする。例えば僕に聞かせるためにというようなことも考えられるが、そこはそれだ。
「僕が夢の中のキャラクターの一人だって言いたいんですか?」
そんなわけはない。それは、彼の方であるはずだった。男はこちらの顔を見上げて、
「あら。聞こえてました?」と言う。
「それは、あんなに大声だったら聞こえますよ」
「『あんなに大声だったら聞こえますよ』……なるほどなるほど」
男はうんうんとうなずく。
「実はですね。ここは夢の中なんですよ」
重大な秘密を明かすように耳打ちして、一転げらげら笑う。そんなことは知っている。だけど、何かがおかしかった。いや、何もかもおかしいのかもしれない。
「で、俺、何故か起きれなくなってしまいまして。あなたが対話できると思って話しているんですけど、つまり俺の潜在意識の表出の一端であろうから、もしかして何か分かるんじゃないかと思って」
今度はこちらが笑う番だった。今回はなかなか凝った夢らしい。
「えっと、何で笑ってるんです?」
「ああ、実はですね。……僕も何故だか起きれなくなってしまって」
そっと言う。
「つまり覚醒出来ないってことなんですが」
沈黙。一呼吸おいて、同時に吹き出した。僕と彼、両者の笑いが続く。
「ははははは。それって、俺と君の夢が繋がってるって言いたいの?」
「いや。そんな双子のシンクロニティとか集合的無意識のできそこないみたいなこと言いませんよ」
「あー。そこは肯定しないんだ。じゃあテーマは自己同一性?」
「テーマって夢のですか? さあ……こっちが聞きたいぐらいですよ」
「なかなか初期設定に忠実だね。チューリング・テストでもやってる気になるよ」
「はあ……そうですか」
なんとなく疲れて、とりあえず生返事を返しておく。自分に意思があるという前提で喋られると、こちらにも共感能力というものがある以上、ある程度その主張を受け入れざるを得なくなる。なんといっても人間の共感能力は三つ点が描いてあるだけで顔に見えるほど進化しているのだ。見かけ上、現実の人間と変わらないものが話しているのだからなおさらだった。
こちらが適当に返事をしている間に彼も飲み物を注文したらしかった。透明な赤い色のソフトドリンクを手に持っている。
「じゃあ、こういうのはどうかな」
彼はドリンクごしにこちらを覗き込みながら言った。こちらからは彼の目が赤くなったように見える。
「俺たちは、互いにこの夢を自分のものだと主張している。立論者がどちらも自分に引き付けて考えているから、これは俺の夢だ、これは君の夢だというふたつの結論しか出てこない。だから、あえてもうひとつの可能性を考えてみるんだ。これは俺の夢でも、君の夢でもなく、誰か別の人物の夢だ、とね。この状況をどこかから神の視点で眺めている誰かがね」
「でも、僕は主観視点でしか夢を見ないですから」
「それは俺もだ。むしろそこがキモなんだよ。俺が聞いた話だとほとんどの人は夢を三人称で見るらしいからね」
「でもそれは人によると思いますよ。それに、そう考えて何か得があるんですか?」
「ああ、つまりさ……だから、俺たちは起きられない、という考え方はどうだ。自分の夢じゃないから。他人の、という言い方もおかしいが、誰かが見ている夢だから。俺たちには意思がないから。こうして喋っているのも何かに喋らされているとしたら?」
沈黙。
後ろから、オバチャンたちの笑い声が聞こえる。結局の所、そこに行き着くのか。
黙っていると、彼はまた笑い出した。
「冗談だよ、冗談。俺は自分に心が、意思があるってことを疑ってなんかいない。こう言うとアンビバレンツだけど、君もそうなんだろ?」
それはもちろんそうだ。しかし、ここに自分があるという証明は、自分があると考えているだけじゃ出来ない。自分の周りに世界が広がっていて、それを感じ取ることが出来るから、そこに自己を見出すことが出来る。問題は、ここが夢の中だということだった。
「夢だろうが、現実だろうが、自分を信じなくっちゃ何も出来ないからなー。まあ、君も頑張ってくれ」
勝手なことを言って、彼は席を立った。それを呼び止めて言う。
「さっきの話ですけど、どこかで聞いたような話ですね」
「……」
一緒に出るのも何かイヤだったので数分待ってから、僕も店から出る。
どうやら、いつの間にか雨は止んでいたらしい。空を見上げると、しかし西の空にはまだ雨雲が残っていた。ちょうど、晴れている地域と雨の地域の中間地点にいるらしかった。この天気はまた、ひどく暗示的だ。
頭を振って、これからのことを考える。周りの現象に惑わされちゃいけない。早く、起きる方法は探さなくては。
うたかた 明丸 丹一 @sakusaku3kaku
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