フィラクスナーレ:神話・伝説・民話・伝承

中野智宏/トルミス・ナーノ

善王ドゥルファン Durfan Barik-a-Eya

 ハスタルHastarの丘の上には風が吹きすさんでいた。星々も月も薄雲に隠れて、その光は、枝からもぎ取られまいと必死にしがみつく木の葉のぼんやりした輝きと、それから遠くに見えるカマルKamalの湖の水面にしか見出されなかった。丘には女が立っていた。彼女は眼前に広がる苔むしたネルケト・ビザンNerket Bizan市の廃墟を眺めていた。一時は大きな都市だったネルケト・ビザンも、今やサナンSananの子らの栄光に満ちた治世と、その後に来た恐るべき災厄の記憶でしかなかった。ハスタルの丘の反対側に住むものは、崩れかかった城址に入る勇気を持ったものはいなかった。この世のものではない何かが住みついているというのである——それが生きているにせよ、死んでいるにせよ、何にせよ。城を取り囲んでいた緑の平原は見る影もなく、城の下層は水に沈み、なんとも言いがたいいまいましい臭気を漂わせる沼地と化していた。誰も廃墟に入りたがらなかったし、近寄ることすらもよほどの理由がない限り避けられていた。

 この女もそうである。彼女はたまたまこの地域に迷い込んだわけでも、この都の廃墟がどのような評判をもつものか知らなかったわけでもない。彼女ははっきりとした目的があってこの地を訪れたのであって、今更引き返すつもりはなかった。

 彼女は暗闇のなか丘の斜面を馬で駆け下り、じめじめした平原へと入っていった。それから、彼女は家々の残骸をかき分けながら沼地へと入っていった。彼女は青い外套をまとい、銀の刺繍のある黒い長衣を着ていた。その帯には銀の小刀がささっていたが、脇腹ではなく背中側に付けられていた。


 女が松明に火を灯し、崩れた城壁の内側へと踏み込んでいくと、白い骨が辺りに散らばって、風に吹かれてカラカラと音を立てていた。それから、奇妙な音も聴かれた。熊の咆哮のような音だが、時には蛇のささやきのようでもあり、時には人間の泣き叫ぶ声のようでさえあった。彼女は怯むことなく城の中へと入っていったが、周りの様子はいよいよ恐ろしいものになっていった。人間や他の動物の骨が壁や床に散らばり、苔のせいか、それとも他の何かのせいか、城そのものにのみ込まれようとしているようだった。それらは溶け、合わさり、ひとつの何かになろうとしていた。次第に、建物自体が骨でできているように見えてきた。


 しかしこれら全てを目にしたところで、女は恐れを抱くことはなかった。彼女は自身の力と賢明さに自信があったのである。あるところで、彼女の馬すらも足を止め、進もうとしなくなったが、それからも彼女は廃墟の暗闇の中を1人で歩き続けた。彼女には目的があり、行くべきところがどこなのかもはっきりと分かっていた。


 女は城の地下深くの地下牢へと下っていった。手にした小さな松明以外に光はなかった。そして、女が地下牢の最下層に到達すると、松明もついに消え、目で見通すことのできぬ完全な闇が彼女を取り囲んだ。しかし彼女はもはや光を必要とはしていなかった。むしろ、その目的のためには今や闇の方が有用であった。

「わが王よ」彼女は言った。「お顔をお見せくださいませ。あなたさまのお顔を拝みに、遠くから参ったのです」

 そして彼女はふたつの巨大な眼が暗闇の中に現れるのを見た。眼自体が光を発しているようで、その光は眼の持ち主の顔に弱い光を投げかけた。歪み、崩れ、特に暗闇の中でははっきりと見て取ることのできない顔である。そしてこの獣は唸った。外で聞こえていた奇妙な音がこの獣の声であることがわかったのは、このときである。

「王よ、わたくしをお忘れですか?」女は言った。「わたくしがあなたさまにお仕えした日々のことを、お忘れになったのですか?」

 影は答えなかった。実に、女はその影の獣が自分の言ったことを理解できているのかすらわからなかったし、答えることなどなおさらである。


「おお、わが王よ、」彼女は続けた。「あなたさまはあなたさま自身のことすらお忘れになってしまったのだとお見受けいたします。心配はありませぬ。なぜなら、わたくしがこれから善王ドゥルファンDurfanの物語を語って差し上げるからです。


 いにしえの都ガナド・ビザンは、昔イェスタランIestalanの息子ガヴァルランGavallanの息子ドゥルファンによって治められており、彼の統治は公正で賢明でした。彼は子供の時から優しい子として知られ、ガナド・ビザンと王国の全領土を受け継いで即位したときに、『善王』と名付けられました。彼はただ親切で善良なだけでなく、周り にいる者たちを自然と幸せにし、嬉しい気持ちにする才能を持っていました。奇妙なことに、時が経つにつれて、彼はどんどん寡黙になり、即位してからはさらに物思いに沈んでいることが増えました。

 彼を慰めることのできたのは、リサルLisarの娘ナブサルNabsarだけで、ドゥルファンが愛したのも彼女でした。ドゥルファンはカルド・ケルサルKard Kelsarという、ナルラドNallad家の生まれの貴族の娘と結婚していましたが、カルド・ケルサルを愛していたわけではありませんでした。カルド・ケルサルは金色の髪をもつ美しく聡明な女でしたが、彼 女が星を知り、薬を知っていたせいで、彼女を魔女だという人も多くありました。

 時が経つにつれて、ドゥルファンはどんどん元気がなくなり、話すことも減っていきました。しかし一方で、彼のたぐいまれな良い統治のおかげか、人々はどんどん嬉しく、幸せになっていきました。人だけでなく、牛や羊などの家畜や、野の獣や鳥たちすらも満足げにしていて、日照りの時でさえも作物が尽きることはありませんでした。

 しかしあるとき、ドゥルファンはついに公の場に姿を現さなくなり、それから彼の生きた姿を目にしたものはいなかったのです——数少ない召使いを除いて。

 ドゥルファンが死んだ日に、実際に何が起こったのかを知るものはおりませぬ。見兼ねたナブサルに殺されたという者もあれば、ドゥルファンが狂気のうちにナブサルを傷つけてしまい、その後自分で命を絶ったという者もありました。しかし最も信じる者が多かった仮説は、ナブサルに嫉妬したカルド・ケルサルが、ドゥルファンを地下牢の奥深くの穴へと落としたのだというものでした。もともとカルド・ケルサルをよく思っていない者も多かったせいか、彼女はその罪を証明されないまま処刑台へ送られました。彼女とドゥルファンの一人娘を遺して。

 ドゥルファンとカルド・ケルサルが数日の間を空けて死ぬと、途端に王国は混乱と恐怖に陥りました。まず疫病が国土を襲い、それから干ばつが、次に洪水がやってきて、その後の数年間をガナド・ビザンで生き延びられた者はわずかでした。これらは全て、『魔女』であるカルド・ケルサルが、処刑される前に国にかけた呪いのせいであると信じられていました。その後街がどうなったのかはよく知られていませんが、ドゥルファンのおかげでせき止められていた諸々の悪が、彼が死んだ途端になだれ込んできたようだと言う者もいます。ナブサルも、カルド・ケルサルの娘も、その後姿を見た者はいません。この街がネルケト・ビザンと名を変え、魔物の住処として恐れられるようになったのもこのときからでした。


 これらはほとんど忘れ去られた出来事です。わたくしをがもし生きていなかったなら、完全に忘れられた話になっていたでしょう。しかし今や思い出されたのではありませんか、わが王よ? 善王ドゥルファンよ?」


 すると、影はゆっくりと形を変えた——暗がりの中でほとんど見えなかったが。女は辛うじて、王の人間の顔が暗闇の中に形作られるのを見ることができた。光る眼をもつ幽霊のような顔である。それから影は口を開いた。それは、人間の男の声で何か言おうとして、何度目かでやっと意味をなす音を作り出すことができ た。

「ナブサル? ナブサルなのか?」

「その名を覚えておいでのようですね、わが王よ」女は微笑み、言った。それから、女は影に顔を見せようと一歩踏み出した。「ナブサルの黒い髪と緑の眼も思い出されましたか?

 ドゥルファンよ、あなたさまは実に善い王でした。もしかしたら、あまりにも善い王でありすぎたのかもしれませぬ。あなたさまは全ての者を悲しみから救い、また全ての病人を癒し、その苦しみを自ら負おうとされました。しかしあなたさまの命は尽きているのです、ドゥルファンよ。あなたさまはこれ以上苦しまなくてよいのです」


 そこで女はおもむろに背中の銀の小刀を抜き、獣に深々と突き刺した。

Phadyāyadānriパドヤーヤダーンリ ’egdaエグダ ’agadāyēnwayアガダーイェーンワイ! Ayyāアッヤー Deqarデカル m-’Egdaム=エグダ, Qašarカシャル Aḥum-rawアフム=ラウ, kīšārbētキーシャールベート amawayアマワイ. Phadyāyadānriパドヤーヤダーンリ ’egdaエグダ ’agadāyēnwayアガダーイェーンワイ!

〈死者にこそ死が与えられますよう! おお死の主人、不滅の孔雀よ、あなたに祈ります。死者にこそ死が与えられますよう!〉」

 小刀が刺されたところから、まばゆい光が溢れ出した。獣の叫び声は大きく、身の毛もよだつ恐ろしいものであり、城の骨の壁がガタガタと震えた。女は、その光をもってして初めて、魔物の真の姿を見ることができた——無数の角をもち、長い蛇のような体が彼女の周りにとぐろを巻いており、しかしその影全体は、城そのものと同じように、あらゆる類の悪が互いに溶け合い、混合したものからなっていた。そして、光に飲まれて消え去る前に、人間の顔をした部分が再び口を開いた。

「おまえは誰なのだ?」

 女は答えなかった。彼女の姿形もまた、別の女のものに変化していた。彼女は金色の髪をもち、目の下から耳にかけて傷跡があった。


 そして静寂があった。彼女は今や本当に1人だったが、なぜか影の獣がいる時よりもあたりは明るかった。そして女は、腰の袋から小さな肖像画を取り出した。それは、この女によく似た貴婦人の肖像画であった。

「わたくしはやってのけました、母上」彼女は言った。「わたくしは、物事があるべき形に戻してやりました。はじめから、こうあるべきだったのです」


 肖像画の下には、古い文字でこう書かれていた。

「カルド・ケルサル・ナルラド」

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