挿絵を旅する女

蒼井 静

挿絵を旅する女

 makiko imadaは彫刻、油彩画を専門にする抽象美術家だが、手にしていたのは珍しくも絵本で目にするようなイラストめいたものだった。大意を内包するような抽象性、対象物を精緻に描写するという具体性ではなく、明るさと可愛らしさに振り切られた筆致は、美術大学在学中も彫刻、油彩画ばかりを仕上げていた彼女にとって、久方ぶりに描きあげたものだった。保持している記憶の断片を見ていっても、中学生以降、描いた記憶が無い。


 絵の左側には、絵本でよく見かけられるような、縮尺がちぐはぐの山々とそれを登っている小学生くらいの少年、そして、その反対の右側には大きくデフォルメされた太陽と思しき、オレンジ色の球体が描かれている。


 彼女は絵を入れた鞄とともに歩みを進めていく。もう少しであの少女の家が見えてくるはず。期待で早まる足とは反対に彼女は、一抹の不安を道中では拭いきることはできなかった。希望的観測とも呼べる形で、自分に言い聞かせる。前回は、非常に思い通りにことが運んでいたはずだ。きっとこの絵の中の少年と仲良くなってくれるはず。他ならぬ、あの女の子なら。




 その高校生の家は、ごく普通と呼べるものであった。駅から、10分と少し歩いた所にあるクリーム色のマンションの1階。エントランスを抜け、1番に突き当たるドアに表札が掛けられており、その高校生の苗字である“七色ななしき”と灰色のブロックで示されている。呼び鈴を鳴らすと、すぐに快活な声で返事があった。


「はい…!」


「今田です。この前に引き続き、絵を見せに来たわ」


「お待ちしておりました。今、開けます」


 まだ女の子と呼べるような舌っ足らずな声音ではあるが、丁寧な言葉遣いである。


 まもなく扉が開かれると、灰色のパーカーの女の子が出迎えてくれた。以前、妹と二人でいるところを見たときと比べて、少し大人びた印象を覚える。その中にくりっとした目と、おもちを連想させるような柔らかそうなほっぺた、そして裸足で登場してきたことに、年相応の天真爛漫な思春期の少女らしさが残っていた。リビングに案内されて、世間話もそこそこに、今田は手にしていた絵を女の子の方に向ける。


「さて、念のためもう一度説明しておくわね。私は、あなた…ななちゃんに前回、今回含めて絵を何点か見せる。そして、ななちゃんはそれに対して、思い浮かんだことを私に話して。そうしたら、絵1点につき、10万円。簡単でしょう?」


「そのことなんですが、本当にいいんですか? 10万円だなんて…。大金ですよ?それなのに、前回、記録するような素振りはありませんでしたよね。今田さんは、私の話に興味があるようですが、それであればボイスレコーダーに録音したり、文章で記録したりしないといけないんじゃないですか…?」


「いいの、いいの。確かに私は、あなたの話に興味がある。でもそれをどっかにながそうだなんて思わないし、聞くことが出来ればいいのよ。」


「はあ…」


 今田は鞄の中から、絵を取り出す。小学生と思しき男の子と、山々と太陽が描かれた、イラストめいたものだ。七色ななしきななは、その絵をじっくり見る。見る。そして目をつぶり、過去を思い出すように天を仰いだ後、絵の感想から語り始めた。




 奇妙な依頼を受けるのは、これで2度目だった。見せられた絵に対して、感想と自分が思い浮かんだことを話すというもの。文字に起こそうとするでもなく、整合性も重視していないような依頼者は、何が狙いなのかということさえも、はっきりしない。ただ、提示される絵は全体的に上手く調和が取れていて、明るい中に描かれる平和な情景は素人目から見ても、不思議と安心感を覚えるような、心が温まるようなそんな絵だった。




 有るか無いかでいえば、無いからこその能力なのだと思う。女子高生である私、七色ななしきななは通常の人にはないセンスを持っているらしい。絵や写真を見ると、そこで描かれていることがあたかも現実であったかのように感じてしまう私は、その前後のストーリーを脳内で補完し、過去自分が体験した記憶ではないかと錯覚してしまうのだ。それは、現実の検討能力が不十分で、ものを見ている自分という状況が把握出来ておらず、想像と現実を判断する能力が低いことの証明でもあった。


 例えば、有名なモネの睡蓮。あの連作の1つを見たときに私は、ありもしない学校の裏手にある池の周りを、友達とピクニックした記憶を生みだした。色がもう少し欲しいように感じた私は、肌身離さずポケットに忍ばせていたおはじきの1つを取り出し、その池に向かって投げる。この絵は、その水紋がおさまって、また静けさが生まれたときのシーン。とこんな風にだ。


 はじめは、ななちゃんは想像力が豊かですごいわね、とその才能をもてはやしていた母親とその周りだったが、あまりにも私が実際にあったような過去の記憶として話をするので、怖がってしまったらしい。10才の頃に二、三度、仲が良かった友達数人に絵を見ながら、いつものごとく話を始めたら翌日距離を置かれてしまったことがある。その後事情を把握した母親からやんわりと、これからは友達にそういうことを話すのはやめてね、と注意されてしまった。しても良いのだけれど、もしかしたらまた気味悪がって離れていってしまう友達もいるかもしれないから、と。イラストから想起された過去を話すことは、どうやら良いことではないらしい、とその出来事以降薄々肌で感じていた私は、その教えに忠実にしたがっていた。


 相当、その経験のショック、母親から刺された釘は深く、その能力も存外に自分の核をなしていたらしい。以前まで受け入れ、褒められていた自分が世界から突然拒絶されたように感じ、友達にそんなことは二度としないようにしようと誓ったのだった。




 だが、私は迂闊だった。妹と一緒に郊外の図書館を訪れていたその日。知り合いに出くわさないような遠くの図書館で、手にした絵本に描かれていた挿絵があまりにも素敵だったから、絵本の文章とは別にストーリーを自分で作り上げて妹に読み聞かせていた。すると、分厚く難しそうな本を手にした貴婦人が話しかけてきた。


「ごめんね、いきなり話しかけて。ちょっと耳に入ってしまったものだから。あなたが読んでいる絵本。そんな話だったかしら。」


「えーと、途中途中違う部分があります。絵本だと私の妹…、千佳って言うんですが、彼女が満足しないので少しつけ足して話をしていたんです。もちろん、妹が頼んでくるので、仕方なくですが。」


「へ~、すごいわね~。絵からイメージでストーリーを作り上げるのね。しかも、あなたが体験したかのように話して。とっても面白いわ。」


「はい、そうなんです。…、あの、もういいですか?」


「ちょっと、ちょっと待ってね。それって、私にも話してもらえたりするのかな?ああ、身構えないで。おばさん、怪しい人じゃないわ。こういう者なの。」


 そう言って、名刺を取り出して渡してくる。makiko imada、名刺が正しければこの貴婦人は抽象美術家の人であるようだ。美術家の人って名刺なんて作るのかな、そう思ったことが相手に伝わったらしい。


「よく驚かれるんだけど、作品を作るにも、販売するにも、そして展示するにも人脈が必要になるから…。一応、持ち歩いているのよ。」


「そうなんですね。なかなか、大変な世の中なんですね。」


「そうなの、そうなの。結局お金を出す人がいつの世も、強いってわけね。…で、身分を明かしたところで、お願い。私にもさっき、妹の千佳ちゃんにしたみたいにお話を聞かせてくれないかしら。報酬は出すわ。」


「報酬、ですか?」


「時間と労力を使ってもらうんですもの。それともいらない?」


「貰えるなら、貰いますけど・・・」


 そんなこんなで、貴婦人のペースにのせられ、奇妙にも高校生の少女が見た目40才前後の女性に対してオリジナルのストーリーを読み聞かせるという奇妙な頼まれごとを引き受けることとなった。


 それから、1回目は彼女の家、2回目は私の家と、お互いの家を行き来して絵に対して思い浮かんだことを素直に話す会が催された。初め、相手の家に訪れることに抵抗感はあったし、場所をカフェにでもしてもらおうと思った。だが、「不安であれば親御さんにも話す」という彼女は、実際にそれを実行。世界的に著名な彼女から直接話を受けた両親はそれを快諾。その結果、今回、私の家で第2回が開かれたと、そういうわけだ。


 絵から連想されたストーリーは、今回も美術家、今田のお眼鏡にかなったようだった。満足げに頷きながら、表情は微笑んでいて、それはあたかも娘の体験を嬉しそうに聞く母親のような姿だった。


「本当にななちゃんは魅力的な話をしてくれるわ。鈴のように鳴く鳥が物珍しくて、男の子とあなたが遭難しちゃうなんて。おばさん、考えつかないもの。」


「ありがとうございます。ただ元はといえば、彼が悪いんですよ。もう少し、息を潜めて近づくように動けば、あそこまでルートを離れることにはならなかったんです。」


 言ってから、しまったと思った。ストーリーに入り込んでしまって、まるで自分が本当に体験してきたかのように語ってしまうが、あくまでストーリーはストーリー。実際に起こったわけでもないし、その男の子がいたわけでもない。今まで創作の話として楽しんでくれる人も中にはいた。しかし、それも創作の話として聞いたときだけだ。いつもこのような話し方をしては引かれてしまい、距離を置かれてしまうのだ。


 ただ、今田さんは違った。


「うんうん、分かってるわ。だって、この子は静かにできるようなタイプじゃないでしょうから。」


「あ…え、そう!そうなんです!…ひかないんですか?」


「ひかないわよ。私が聞きたいんですもの。それで、それで?彼に思うこと、まだまだあるんでしょう?」


 話に乗ってきて、それを受け止めてくれる。なにも否定せず、むしろ積極的に話の先を促してくれる今田さんは、聞き手としてこれ以上の人はいなかった。


「彼って、ひどいんですよ。私のことを自分と同じような体力を持っていると思っているのかもしれませんが、いっつも自分のペースで先に進んでいっちゃうんです。もう少し、遅くしてほしいって言ってるのに。」


「あら、たしかにひどいわね。女の子のペースが分からない子はもてないわ。これはななちゃんが小学生の時の話…よね?それくらいの年齢だと仕方ないのかしら。」


「仕方ないのかもしれません。今の私の年代でも、男子は子供っぽい生き物ですが、小学生の時はさらに子供っぽいですから!」


 そんな会話をしながら、夜は更けていく。この絵を中心にしての架空のストーリー語りは、親が仕事から帰ってくるまで続いた。




「しかし、毎回絵で描かれている男の子は、モデルでもいるんですか?毎回登場しますし、多分同じ人がモデルですよね?」


 3回目の今田さんとの会の最中、ずっと気になっていたことを聞いた。前回のこともあって、私は今田さんに信頼を置いていたし、今田さんという人物が少し気になり始めていた。その時、私の手の中には提灯が連なった階段を上る少年の絵があった。


「鋭い質問ね。実はそれ、私の息子なのよ。」


「あ、そうなんですね!息子さんだったんですか。ごめんなさい。前回、ぼろくそに言っちゃいました。」


「いいの、いいの。私もうまく子育て出来る自信は無かったし、どうしても甘やかしていたでしょうから。多分、そんな子に育ったと思うのよ。」


「育ったと思う…ですか?」


 一瞬、理解が追いつかなかった。”育った”ではなく、”本当はそんな性格じゃない”でもなく、”育ったと思う”?


「うん。だって、その子は生まれてすらいないもの。」


「えーと…」


「ごめんね。騙すつもりはなくて、いつかは話すつもりだったんだけど。この子は、この世に生を受けるはずで、私のこどもになるはずだった男の子。今までななちゃんには、その子が歩むはずだった人生を創作で話してもらっていたの。」


 今田さんは続ける。


「あなたくらいの年になるはずだったわ。でも、結局産んであげることはできなかった。お金も、信頼も、覚悟も、何もかもがその時にはなかったの。…ななちゃん、怒っている…わよね?本当にごめんなさいね。」


「…ですか?」


「え?」


「男の子はなんていうお名前なんですか?」


「な、名前?いや、つけてないわ。その前にいなくなってしまったもの…。」


「名前をつけましょう。今田さん。存在するためには、名前が無いと駄目です!」


 二人で名前を考えた結果、同級生に当たるはずだった男の子の名前は、応百かずとという名前に決まった。色々なことに興味を示して、それぞれにしっかり反応するような生き方をして欲しい。美術家の息子らしい良い名前だと思う。




「私はこんな能力いらないなって思ってたんです。家族や妹を楽しませられるなら、それだけでいいかなって。」


 純然たる本音だ。他の人が離れていってしまうなら、別にそのことを話さなければいいと思った。


「でも今田さん、言ってくれたじゃないですか。私が聞きたいんだって。私も聞きたいです。今田さんはどんな人なんですか。応百かずと君がどんな子なのかは、私が話してあげますから。」


「ななちゃん…。」


 ありがとう、の言葉は声にならず、震えとなって空気の中に消えていった。話し始めてくれるまで、ただただ待とうと思った。前々回といい、前回といい、私が話してばかりいた。今度は、私が話を聞いてあげる番だ。




 話を終えた今田さんは晴れ晴れとした表情をしていた。私は、彼女が世界から注目される抽象美術家へと至った源泉を見た。


「今、聞いた話は外では言わないでね。あることないこと邪推されるのは嫌だし、そんな形で注目されるのも不本意だから。」


「はい。このことは、絶対言いません!」


 安心してもらおうと、力強く返事をすると、美術家makiko imadaはふふふ、と笑いだす。


「あなたが女で良かったわ。秘密を共有した女ほど、信じられるものはないもの。」


 美術家らしく、多くの含意がありそうな言葉である。


「信じてくださって、嬉しいです。そういえば、まだ絵はあるんですか?」


「まだ数点あるの。生きていればあなたの年くらいだったはずだし、高校生くらいまでの絵が数点。」


「分かりました。次はいつにしましょう?あ、もうお金はいいですからね。応百かずと君との思い出話を私がするだけなので。」


「いいの?本当に?」


 私は首を振る。


「じゃあ、今度から見せる絵、そのままあなたにあげるわ。」


「そっちの方が、高くつきそうですけど…」


そう言って、2人で笑い合うのだった。




 今田さんに自分を受け入れてもらって以降、最近絵を見るのがとても楽しい。そのたびに自分の思い出が1つ増えるようで。今度は、どんな絵が出てくるだろう。徐々に年齢を重ねている絵を今までは見せられてきたし、次描かれている少年は中学生くらいに成長していたりするんだろうか。


 え?結局、今田さんがどんな過去を背負っていたか聞きたいって?


 ごめんなさい。共有された秘密は喋れないんです。私は女だから。


…なんてね。



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