短編集

戸田 至(トダイタル)

さかなガール

 木質調。カントリー風な内装の「ヘアサロン」にて。私は店看板を「閉店」の文字へうら返し、流れる音響のスイッチを消した。陽はすでに落ちていたけれど、ぬくい空気が店の中に入るのを感じた。残暑。秋分は過ぎたのにまだ暑さが残る。電飾のスイッチも消した。静まった店内で、私はレジ前の椅子に腰をおろした。手鏡をつかって顔をみた。レジ卓に置かれたラタンスティックからはゼラニウムが香る。月の初めの水曜には決まってこの香りをたててやる。雑誌をめくりながらひと息ついていると、爽やかな香りに誘われるみたいにアイツは此処ここにやってくる。


 ドアがきしむ音。店内にドアベルがひびいた。私は雑誌のコラムから顔を上げる。秋口あきぐちの残暑の中、入店した「愛子あいこ」のおでこが少し湿っているのが見えた。前髪はカチューシャで上げられている。黒髪が肩にかかるほどに伸びているが、淡い半袖のブラウスとGパンに黒いスニーカーは前回と変わりが無い。カバンに付けられた「サメ」のキーホルダーが銀色に光った。

「おつかれ~、今日も同じカット?」と私は声をかけた。

 愛子は私のヘアサロンに毎月決まって訪れる。幼馴染のという事で、水曜の閉店後にカットを頼まれている。特に不都合は無く、たまの息抜きに良いから長らくこの習慣を続けていた。このヘアサロンは愛子の通勤経路上には無いけれど、長年の顔見知りの方が気楽で良いと言ってここを選んでくれている。愛子を椅子に座らせてから、カットの準備をひととおりを終えると、いつも通りの注文を聞いた。いつも通りの小話をして過ごす。これはこれで私にとっても良い時間なのだ。毎度同じような髪型を保っている愛子は水族館の飼育員を勤めている。


「前回と同じでよろしく! ねえこれ見てよ!」と愛子はスマホの写真画面を見せてきた。

 ひらたい奇妙な魚がせまい水槽の底で静止している。目が無いし、色は茶色っぽくて可愛いくない。部屋で見かけたら奇声をあげて知り合いを呼び出したくなる見ためをしている。はゾッとしたが、写真を見ないようにしながら愛子の髪にブラシをかけ始めた。

「へえ、何それ食べられるの?」

「食べないよ~。魚をすぐ食べようとしないでよ」

 時折、魚の写真を見せてくる愛子に対して、どういう反応が正解なのかわからない。わからないけど、食料としてとらえられている物に対する一般的な態度を取るのが、会話の常套じょうとうパターンだった。(この魚が高級レストランの皿に盛られてこようが口にすることは無いだろうが。)

 それから愛子は例の如く魚の蘊蓄うんちくを語りだした。愛子が言うには、この魚は貴重であり、水族館と付き合いのある近所の漁師さんが偶然にとらえた深海魚だそうだ。日の光が届かない海の底では目が役に立たない。そのせいで目が退化してしまったのだとか。愛子は嬉しそうにはしゃぎながら話している。水を得た魚のようにだ。

「でもさ~。その魚、なんか怖くない?」と私は聞いてみた。

 暗い海底は、想像しただけで恐ろしく体が冷えるような感覚をおぼえる。生きられない環境を頭に思い描いた上で、恐怖を感じない人間はおかしい。愛子には平気なのだろうか。

「確かにちょっと怖いけど、ブログ当番、明日だからネタができてラッキー!」

「あぁ、あの水族館ブログね」

 私は、愛子が勤めている水族館のブログを思い出した。愛子から毎度チェックするように言われているが、まったくと言っていいほど興味が湧かないのでめったに見ない。愛子が担当するときは余計に告知をされるので、そのたびに渋々と拝見をするのみだ。今日もその日になるだろう。

 それから愛子は「ブログに書く内容について意見を求めたい」と言った始まり調子だったが、結局は深海の生態系のことだとか、光合成ができないだとかいう蘊蓄うんちくを散々聞かされながらカットは終わった。髪を乾かしてから帰るまでもずっとそんな調子である。帰り際にも明日のブログを見るように念押しされて、「はいはい」と言ってまたひと月のお別れだ。


 今日の愛子はひときわ明るくて、話を聞いているだけで励まされる気がした。光のない深海の魚が回り回って地上を照らしだす事もあるのだ。私は、店の消灯と戸締りを終えてひんやりと暗い道路へ出た。帰り道を並んで照らす白電燈しろでんとうを見る度に、何故かあの奇妙な魚の形相を思い出してしまうのだった。

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