十一月十二日 坂道

 夕暮れ時、坂道をとぼとぼと下ってきた僕の背後から、シモツキさんがにゅっと顔を出した。

「どうした?」

 シモツキさんは僕の憑依霊だが、家の外で起こることは知らない。僕に憑依し続けるのを許可する代わりに、外では姿を現さないと約束してもらっているからだ。(ちなみに家の中でも、お風呂やトイレなど、僕のプライバシーに関わる場所もNGである)

 だが、今日はややフライング気味だ。

「まだ玄関くぐってないですよ、シモツキさん」

 僕は小声で答える。他人に見られたら、ぶつぶつ独り言を言っていると誤解されてしまう。

「おお、すまんすまん」

 ひゅっとシモツキさんの姿が消える。姿を消している間、幽霊のシモツキさんは外界で起きていることを知覚することができないそうだ。生きている人間が眠っているのと同じ感じらしい。違うのは、自分の意志で眠ったり起きたりできるところだ。

 家の中に入ると、改めてシモツキさんが現れた。僕よりひと足先に居間でふわついている。

「で? 何かあったのか。公園に散歩しに行ってたんだろ?」

「はい」

 僕は靴を脱ぎながら、公園であった出来事をかいつまんで話した。

「こないだのお母さんと男の子がいたんです」

「紙飛行機の?」

「そうそう」

 先週、あの公園で紙飛行機をなくして泣いていた小さな男の子と、そのお母さん。僕が届けた紙飛行機はやっぱりあの男の子のものではなかったが、ふたりにはとても感謝された――たぶん。

 そのことは、今日公園に行くまでは忘れていた。あの親子を見かけるまでは。

 僕が忘れているのだから、向こうも忘れているだろう。

 そう思っていたのに、男の子が僕を見つけて駆け寄ってきたのだ――「あ、紙飛行機のお兄さんだ!」と。

「それでお母さんと『こないだはどうも……』って挨拶して、ベンチに座って二言三言会話して、帰ってきた、ってだけなんですけど」

「いまのところ、君が落ち込む理由が見えないが」

 ソファにどさりと身を委ねた僕を、シモツキさんは背後から見下ろす。

「よくよく考えたら、女の人からしたら気持ち悪くないですか? 『うちの庭の木に紙飛行機ひっかかってましたよ』なんて、知らない男が話しかけてきたら」

「んー、まあ、何か下心があるかもって疑う可能性はあるだろうな」

「でしょ? それなのにまた会っちゃって。今度行ったらまた会うかもしれないし、あのお母さんが『もうこの公園には子どもを連れて来られないわ』って思っちゃってないかなーとか、もう僕もあの公園に行かない方がいいのかなーとか、ついいろいろ考えちゃって」

「……君の気にしすぎだと思うがな」

「僕もそう思いますけど」

 僕という男は、下心どころか、こんな小さなことでくよくよしているのである。病気のせいばかりではない。何事も悪い方へ考え過ぎてしまうのは、昔からの癖だ。

「まあ、気になっちゃうなら、しょうがないよなあ」

「『くだらねーこと気にすんなよ』とか言わないんですね。シモツキさんいい人だな」

「そりゃあどうも。私を取り憑かせてくれている旬君こそ、大概いいやつだろうよ」

 ピーン、ポーン。

 古めかしい音でインターホンが鳴った。

 誰だろう。通販とかネットスーパーとか、今日届く予定のものはないはずだが。

 この家のインターホンにはカメラが付いていないので、僕は声だけで応対する。

「あの、わたくし、水野といいます。先ほど公園でお会いしませんでしたでしょうか」

 女性の声だ。僕はシモツキさんと顔を見合わせた。

 玄関に出ると、さっきの母子が立っていた。

「突然お邪魔してすみません。これ、さっき公園のベンチにお忘れでしたので」

 水野さんが差し出したのは、なんと僕の財布だった。ジーンズの後ろポケットに入れていたはずだったのだが、あれ、いつの間に。

「公園の管理所に届けるべきかと思ったんですが、きっとお困りだろうと思いまして……」

「うわー、ありがとうございます。全然気づいてませんでした。よくここだって分かりましたね」

 僕が言うと、水野さんは息子と顔を見合わせて笑った。

「こないだの紙飛行機に、金木犀の花が挟まっていたんです。この辺りでお庭に金木犀があるお宅はここだけなので。――中江さん、とおっしゃるんですね?」

 表札の苗字を、僕の苗字だと勘違いしたらしい。

「あ、いえ。ここは祖父母が住んでいた家で、僕は大沢といいます」

「大沢さん、ですね」

 水野さんは僕の名前を復唱すると、にっこりと笑った。

「それじゃあ、これで失礼します。また公園でお会いしましょうね。ほら、ケントも挨拶して」

「ばいばーい。またあそぼーねー」

 ケント君というらしい息子と手を振り合いつつ、僕はぺこぺこ頭を下げて水野さん親子を見送った。

「どうだ旬君? 下心芽生えたか?」

「そういうの、古いですよ」

 水野さんは財布を忘れていった僕を心配して、あの坂道を追いかけてきてくれたんだな。

 じわじわと嬉しかった。

「そろそろ晩ごはんの支度をします。今日はカレーです!」

 特に意味はないが、僕は高らかに宣言した。

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