鍵、屋上
十一月一日 鍵
新宿から出発した電車は西へと僕を運んでいった。
久しぶりに駅のホームに立ったときは嫌な汗をかいたが、幸い行き先は前職のオフィスがある街とは逆方向だ。
ありったけの荷物を詰めたスーツケースは網棚に乗せた。ガラガラの座席に腰掛けた瞬間、僕はほっとした。電車に乗れた、ただそれだけのことに。
車窓からの風景は徐々に商業的な毒気を失い、気取りの少ないありふれた街並みへと様変わりしていく。最初は暇つぶしにと買った文庫本を読んでいたが、安らかな気持ちになって、ついつい居眠りをしてしまった。
――おい、
誰かに名前を呼ばれた気がして、はっと顔を上げる。
危うく乗り過ごすところだった。僕はスーツケースを抱えたまま、閉じ始めたドアから転がるように抜け出した。
「旬くん、こっちこっち」
待ち合わせしていた午後二時、伯母さんは駅のロータリーに白い軽自動車を止めて待ってくれていた。母の姉だからもう六十代半ばを過ぎているはずだが、僕なんかよりずっと元気いっぱいだ。
「わざわざすみません。僕はバスでもよかったんですが」
「バスだと不便なのよ。近くに学校があるから朝と夕方は多少本数あるけど、昼間は全然」
「そうなんですか」
見た感じ、駅前はそれなりに栄えている。急行も止まる駅だ。バスだってひっきりなしに着いてはまた出発しているのに、僕が向かう空き家の方面に向かうものはないらしい。
「お昼は食べたの?」
「新宿で食べてきました」
「そう、よかった。伯母さん夜は用事があってご一緒できないんだけど、旬君の分お寿司の出前予約してあるからね」
「ありがとうございます」
申し訳なくなるくらい至れり尽くせりだ。恐縮しつつも、久しぶりの「寿司」という響きに心は小躍りしている。
伯母さんの車は、駅前の繁華街を過ぎて閑静な住宅地へ、それも過ぎるとぽつぽつ畑や田んぼが増えてきた。
「田舎でびっくりしたでしょう? これでも都内なのよ」
確かに車を降りたときの風景は、「東京」という地名からイメージするものとはほど遠かった。周囲には畑や田んぼ、駐車場や木工所の製材置き場があり、隣の家は数百メートル先だ。遠くには山が見える。山を見るのは久しぶりだった。都心からは、山が見えない。
僕が住み込みの管理人を務める「空き家」は、都内の家に比べると庭がずいぶん広いという以外には、これといって形容する言葉のない、ごく普通の二階建ての一軒家だ。玄関の外壁は煉瓦を模した臙脂色のタイル張りで、どことなく時代を感じさせる。けれども中に入ってみると、家電は割と最近の型のものばかりだった。食洗機やノートパソコンもあるし、インターネットも使える。洗濯機は乾燥機つきのドラム型だ。
「おばあちゃん新しもの好きだったからね。おじいちゃんの遺産もそれなりにあったみたいだし」
伯母さんが笑う。少し寂しそうだった。
「使えそうなものは自由に使って。いらなければ処分してくれていいから」
祖母は昨年末に亡くなった。夜に眠ったまま、そのまま目覚めなかった。たまたま泊まりに来ていた伯母さんがそれを見つけた。
最新型の電子レンジは、亡くなる直前に買ったものらしい。まさかろくに使わないまま、自分が死んでしまうとは思わなかったのだろう。
「トイレはこっち、お風呂はこっち、このボタンで沸かせるからね……」
伯母さんは必要な説明をてきぱきと済ませた後、僕に玄関の鍵を預けて帰っていった。
さて、と居間のソファーで一息つこうとしたそのとき、突然背後から男の声がした。
「やあ、こんにちは。
僕は思わず「きゃーっ」と叫んでしまった。
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